第七話 誰が雨を降らすのだろう

 7-5 大地の果て

 もやもやとした感情の澱は、翌朝になっても胸の内に残っていた。
 いつも通りの時刻に踊る小豚亭を出たフィラは、いつも通りに城の礼拝堂へ行く気にはどうしてもなれなくて、ぼんやりと朝靄の煙る街を散歩し続ける。特にあてもなく歩いているうちに、いつの間にか足は時計塔広場に向かっていた。
 辿り着いた時計塔広場は、暁光を乱反射する靄に満たされてしんと静まりかえっている。高くそびえ立つ時計塔は、今は朝靄の向こうにその頭を隠してしまっていた。
 広場には人っ子一人いない。そろそろ街の人々が起き出す時刻なのに、広場を取り囲む家々からも不思議と人の気配は感じられなかった。ただ緩やかな風だけが、静かに広場を吹き渡っている。
 ――そういえば。
 そろそろと広場の中央へ向かいながら、フィラは思い出していた。
 ここで、あの占い師と出会ったのだ。知りたいことがあるときには訪ねてくるように言っていた、あの占い師と。
「ウィンド……さん」
 時計塔の前に立ったフィラは、小さな声で呼びかける。
「いらっしゃいませんか?」
 常識で考えればうろんなことこの上ないはずなのだが、それでも何故かその時のフィラには、占い師が呼びかけに応えてくれるはずだという妙な確信があった。だから背後から吹き付けてきた風に振り向いたとき、そこにウィンドの姿があったことも、不思議だとは思わなかった。
「おはようございます、フィラ。朝がお早いのですね」
 夜の気配が僅かに残る薄明かりの中に、銀髪の占い師は静かに微笑んで立っていた。まるで最初からそこに佇んでいたかのような、穏やかな風情だった。
「ウィンドさん。あの、私、知りたいんです。外のこと……」
 フィラは前置きもなしに、急き込んで尋ねる。答えてもらえると思ったわけではない。ただ誰かに、どこに焦点があるのかもよくわからないこの悩みを聞いてもらいたいだけだった。
「外、ですか?」
 ウィンドは慈愛に満ちた微笑みをフィラに向ける。
「どうしてなんだろうって思うことが多すぎて、混乱してしまうんです。どうして町から出ることが禁じられているのかとか、どうして空を飛ぼうとしちゃいけないのかとか」
「それは、魔法が解けてしまうから」
 ウィンドはごく自然にフィラの台詞を遮って、歌うように目を閉じた。
「魔法……?」
 いつか、ジュリアンが言っていたのと同じ台詞だ。何故空を飛んではいけないのか。同じ質問に同じ答えを返したあの時の、ジュリアンの苦しげな微笑を思い出してしまう。一瞬呼吸を忘れて見とれたしまった、けれどどこかに諦念を含んだ寂しげな微笑。
「そう。それは大切なものを失わないための魔法。忘れるための魔法。そして思い出すための魔法。いつかは解ける魔法。いつか……本物に変わるための魔法」
 ウィンドは厳かにそう告げると、瞳を開いてフィラを見た。
「難しいヒント、ですね」
「今はまだ、それ以上のことは言えないのです。私が魔法を解いて差し上げるわけには参りませんから」
 ウィンドが静かに小首を傾げると、肩の上を滑った銀髪がさらりと風に流れる。
「美しい魔法です。私は……好きだと思っています。少なくとも、今この瞬間には」
 優しく落ち着き払ったウィンドの声に、フィラはじっと耳を傾けた。
「私は相反する願いを二つ持っていても、どちらか一つを選ぶ必要がないのです。二つの願いが同時に叶うことがなくとも、二つの願いを同時に叶えようとすることはできるから。けれど、あなたは私と同じようにはできないはず。二つの相反する願いを叶えようと、同時に違った目的で行動することはできないはずです。だからフィラ、あなたは選ばなければ」
 ウィンドの言葉の意味は、聖騎士たちの言葉と同じくらいわけがわからない。
「今はまだ、選択の時は来ていません。けれどいつかその時は来る。あなたが考えるための材料をたくさん得られるよう、私もできる限り協力します。あなたの質問に直接答えをあげることも、あなたの記憶を取り戻してあげることも、私にはできないけれど」
 意味はわからなくとも、真摯に語られる言葉は彼女の本心なのだろうと思う。
「あなたの記憶は、あなたのもの。私がどうこうできるものではないのです。それに、何も知らないからこそ、見通せるものも存在します」
「それが、私が考えるための材料なんですか?」
 フィラは顔を上げて、微笑むウィンドの瞳を覗きこんだ。ウィンドの瞳の奥に、何か確信を得たというような光が宿る。
「そうです、フィラ。すべてを思い出したとしても、きっとまだ選ぶには足りない。本当に選びたいものを選ぶためには、たくさんのものを見聞きして、知らなくてはならない。そしてあなたの過去の選択を支持する私は、あなたが様々なことを知るお手伝いがしたいのです。あなたが過去に選んだものが、あなたの本当に選びたいものだったと信じるために」
 熱心に語るウィンドを見つめながら、フィラは昨日から胸の内を支配していた薄ら寒い気分が、少しずつ薄まっていくのを感じていた。理由も事情もさっぱり見当がつかないが、ウィンドだけはフィラが知りたいと願うことや、過去を思い出そうとすることを望んでくれているような気がする。
「その一環として、今日は占いをしてさしあげたいのです」
 急に占い師らしいことを言い出した、と顔を上げたフィラに、ウィンドはにこやかな微笑を浮かべ、「お代はあなたの笑顔で結構です」と、さっきまでとは違った意味でわけのわからないことを言い出した。

 その数十分後には、フィラはユリンの市街地から西に向かう街道を通り、大地の果てにやって来ていた。
 切り立った断崖が、視界の許す限り右から左へ遙か彼方まで続き、崖の向こうには雲海しか見えない。雲は真っ白な海のように崖下にたゆたい、水平線までまっさらに凪いでいた。青空と白い雲の境目が、地平線にくっきりとしたラインを描いている。
 この雲の下に、フィラの知らない外の世界がある。
 崖っぷちぎりぎりに立って下を見下ろしたフィラは、小さく身震いしてすぐさま後退った。
 ウィンドに大地の果てへ行くようにと言われて来たのだが、やっぱりこの、壮大すぎて現実味の薄い風景は苦手だ。雲に覆われていて何も見えないし、何より高すぎて怖い。
「……も、もう戻ろう……」
 動悸を抑えるように胸に手を当てて踵を返したフィラは、ユリンへ戻る道の途中に人影を見つけて目を瞬かせた。
「だ、団長? どうしてここに?」
 思わず声を上げるフィラに、とっくの昔にこちらに気付いていたらしい青年は微かに眉をひそめる。
「それはこっちの台詞だ。何しに来たんだ、こんなところに」
 すぐ側に歩み寄って見下ろしてきたジュリアンを、フィラはどうにか視線を逸らさずに見つめ返した。
「ええと、ウィンドさんがここへ行けって」
 昨日のやりとりを思い出すとどうしても逃げ出したくなってしまうのだが、できればいつも通りに振る舞いたいと思う。そうできなければ、きっと昨日のことだって改めて訊いたりは出来ない気がする。
「えっと、その……占いで言われたんです」
「占い?」
 ジュリアンの視線がうさんくさそうなものに変わった。そりゃあうさんくさかろう、と思いながら、フィラは頷く。
「……占いです」
「信じてるのか?」
「いえ、占いはあまり信じない方なんですけど……今日はなんとなく」
「そうか」
 ジュリアンは大して興味もなさそうに、大地の果ての向こうへ視線を投げた。
「それで、団長はどうしてここへ?」
 感情の読み取れない横顔を見上げて、フィラは尋ねる。
「剣が……」
 ジュリアンは視線を落として、腰に下げた工学的でシンプルなデザインの白い剣を示した。
「ここへ来たがっていたからな」
「剣が?」
 崖下から吹き上げる風になびく髪を押さえながら、フィラはきょとんとしてジュリアンの剣を見つめる。
「お話しできる剣なんですか?」
「……そう言われるとうさんくさいが、まあ似たようなものだな。この剣には神が宿っているんだ」
 ジュリアンは半分呆れたような表情をしつつも、律儀に答えてくれた。ジュリアンの態度がいつも通りであることに、フィラは内心ほっとする。
「神さまって、ティナみたいな?」
「ああ、そうだ。ティナのように音声で話ができるわけではないが」
「竜と話す時みたいに、テレパシーで話すんでしょうか?」
 つられていつも通りの調子を取り戻し始めたフィラは、好奇心に任せて質問を続けた。
「あれよりもだいぶ抽象的だがな。こいつはそれほどヒューマナイズされているわけじゃないから」
「な、なるほど。ヒューマナイズ……」
 ヒューマナイズの進み具合は、どうやら神々の話をする上では避けて通れない話題らしい。この間フィアから聞いた知識がさっそく役に立った。
「団長の守護神、なんですか?」
「ああ、今はな」
 ジュリアンは頷きながら答え、ふと大地の果ての向こうへ目をやった。
 絶壁は雲の下まで落ち込んでいて、その麓は見えない。崖の下から青空と交わるところまでただひたすらに続く真っ白な雲海を、ジュリアンはぼんやりと眺める。
「綺麗ですね……怖いくらい」
 ジュリアンの視線を追って地平線を見渡したフィラは、小さく身震いしながら呟いた。
「なんだか、ここだけが雲の上に浮かんでるみたいな気がします」
「ここの風景は嫌いか?」
 ジュリアンは隣に立つフィラをちらりと見下ろして尋ねる。
「あ、いえ。そういう意味じゃなくて」
 フィラは慌てて首を振った。
「ちょっぴり苦手ではあるんですけど、好きか嫌いかと言えば」
 フィラは言葉を切って視線を上げ、ゆっくりと空を見上げてからジュリアンへと視線を向ける。
「どちらかといえば、好きなんだと思います」
 なんだか思いがけないことを言われたという表情のジュリアンと視線が合って、フィラは微笑した。
「だって、すごく綺麗な風景だと思いません?」
「……俺に同意を求めるなよ」
 ジュリアンは視線を逸らしながら呟く。
「私は綺麗だと思うんです」
「そりゃどうも」
「どうして団長がお礼を言うんですか?」
「……別に。俺の領地の風景を誉めてもらってありがとうとか」
 あくまで視線を逸らしたままぼそぼそと呟くジュリアンになんだか可愛げを感じてしまって、フィラは思わず吹き出した。
「変ですよ、それ」
「まあ、確かに。変だな」
 ジュリアンは頷きながら目を伏せて、苦しげな微笑を浮かべた。寂しいような諦めきったようなその横顔に、フィラはふと締め付けられるような息苦しさを覚える。
 ――どうしてこの人は、こんなに苦しそうな表情をするんだろう。
 笑っていても無表情でも同じ、何かに焦がれるような、懐かしむような、求めるような――切ない表情を、いつもいつも。
 遠い空に、華やかな広間の喧噪に、灰色の雲の向こうに、雲海の彼方に、彼は一体何を見ているのだろう。
 どこか苦いものを感じながら、フィラはジュリアンの微笑を見つめ続ける。
 ジュリアンは雲海と青空が交わる彼方へ視線を上げ、ふと笑顔を消してから、崖の方へ一歩踏み出した。夢見るような、何かに誘われるような、そんな現実感の欠落した足取りだった。
「団長!」
 全身が総毛立つような恐怖に襲われて、フィラは思わずジュリアンの腕に縋りつく。そのまま腕を引っ張って崖のふちから思い切り引き離し、そこでようやく息をついた。
「何の真似だ?」
 縋りつくフィラを見下ろして、ジュリアンは不審そうに尋ねる。
「い、今、団長が落ちそうで、落ちるのかと……」
 急激な緊張に乱れてしまった呼吸を抑えつけながら、フィラは震える声で答えた。
「落ちる? そこからか?」
 ジュリアンは崖っぷちとフィラを交互に見下ろして、小さくため息をつく。
「……そろそろ手を離してくれないか?」
 その言葉でただ今の自分の状態に思い至ったフィラは、赤面しながら勢いよく後退った。
「す、すみません! ああああの、つい、じゃなくてええと、他意はないっていうか、その、いやややっぱりすみません!」
 自分でもびっくりするくらいの早口になった。
「いや、別に良いんだが。お前こそ落ちるなよ」
 つられたように赤くなったジュリアンも、目を逸らしながら早口で言う。
「……悪かった。危なかったのは確かだからな」
 ジュリアンは大きく深呼吸すると、改めてフィラに向き直った。
「もう行くか?」
「そ、そうですね」
 フィラはすっかり血が上ってしまった頬を片手で扇ぎながら、明後日の方角に向かって頷く。
 ジュリアンはそれを見て僅かに頬を緩めると、踵を返してゆっくりとした足取りでユリンの市街地に向かって歩き始めた。