第一話 竜と幻
1-5 フィアと誰かの願い
クローゼットに鍵までかけたフィアは、ふと自分の袖に移った匂いを嗅ぐ。
「……やっぱり」
――昨日、ジュリアンの治療をした時に感じたものと同じ匂い。
遠い場所から微かに漂ってくるような、太陽と干し草とカモミールのほのかな香り。
(そうですね。ジュリアン・レイについて、フィラは知るべきなのだと私も思います)
隣のクローゼットでコートを取り替えながら、心の中だけで呟く。
(私たちが結局、彼の力に頼るしかないのなら……)
コートの袖に腕を通し、手早くボタンを留めて裾を整えた。いつもどおりに服装を整え終えたところで、タイミング良く勝手口ではない方のドアがノックされる。
「ジュリアン・レイだが」
続いて聞こえた声に、フィアはちらりと壁の時計を見やって微笑んだ。
「時間通りですね。お待ちしておりました」
その微笑みを絶やさぬまま、扉を開いてジュリアンを招き入れる。
「わざわざ足を運んでいただいてすみません。この城の治療室では少々設備との相性が良くないものですから」
「治療室なら君の都合の良いように手を加えて構わない。君以上に使いこなせる者は、今の聖騎士団にはいないだろうし、この機会に設備の充実を図ってもらえれば私としてもありがたい」
ジュリアンは負傷していることなど微塵も感じさせない優雅な動作で部屋へ足を踏み入れた。
「随分高く評価して頂けているんですね。ありがとうございます」
フィアはクローゼットと向かい合う位置の椅子にジュリアンを案内し、自分はクローゼットに背を向けて腰掛ける。
「治療施設の充実に関しては私も団長に同感です。ついでに、と申し上げるのも何ですが、治療室の位置をもっと入り口付近に移動させ、市民にも開放できるようにしていただけるとありがたいのですが。ここはもともと竜化症の治療施設でもあるわけですし」
努めて軽い調子で提案すると、ジュリアンは目を伏せて考え込んだ。
「そう……だな」
「外への帰還を望む方は少ないでしょうが、だからといって完治させなくても良い、という理由にはならないはず。彼らには治療が必要です。中央省庁区の意向とは異なりますが、治癒系魔術の専門教育を受けた者の意見として、受け取っていただければと思います」
半分はフィラに聞かせるための台詞だった。不自然にならなかっただろうかと冷や汗が流れる心地がする。
「ああ。考えておこう」
「団長も……」
深刻な調子で切り出したフィアは、しかしすぐに言葉を切り、明るく軽い調子で言い直す。
「団長も彼らと同じように、しばらく外のことを何もかも忘れて、治療に専念してみては?」
「それは出来ない。君にもわかっているはずだ」
顔を上げたジュリアンは、真っ直ぐにフィアを見上げてそう言った。いっそ潔いほどの拒絶にフィアは小さく苦笑する。
「そうですね。でも本当に心配なんです。昨日、報告にあったよりも遙かに症状が進行していましたから。右手を」
ジュリアンがゆっくりと差し出した右手には、竜化症の進行を表す黒い痣が広がっていた。闇そのもののように、光を跳ね返すことのない漆黒の痣には、細い虹色の光の線が幾筋も走り、何かの回路のような複雑な幾何学模様を描いている。普段は幻術系の魔術で隠されているその奇妙な痣は、フィアがユリンに来て初めて見た時よりも確実に面積を広げていた。
「治療のために記憶を封印するのではなく、竜化症の進行によって記憶を失ってしまった場合は、それを取り戻すことはほぼ不可能です」
黒い痣に右手を重ねれば、凶暴なほどの魔力が体を食い破ろうと蠢いているのを感じる。その皮膚が粟立つような感覚に眉根を寄せながら、フィアは言葉を続けた。
「ご存知のはずです、ジュリアン・レイ。それは出来ないと言いながら、あなたのやっていることは……本当は、忘れてしまいたかったのではないですか?」
「……手厳しいな」
「当然です。あなたほど厄介な患者はそういませんよ。ちっとも信用してくれないし、進行が止まっていたかと思えば急速に進んだりするし」
ため息混じりに首を振ると、フィアはそっと瞳を閉じた。部屋中に張り巡らされた魔術回路がフィアの魔力に従って動作を開始する。いつもと同じ微かな拒絶に、治療はやはり表層を取り繕う程度にしか進まない。治療担当の部下として信頼を置いている相手だとしても、記憶や感情を覗かれかねないところまで深く他人の魔術を受け入れるわけにはいかないという事なのだろう。
「聖騎士団団長というのは、随分と辛い立場なんですね。死ぬわけにはいかないのに、治療を受け入れることも許されないなんて」
一通りの治療を終えて目を伏せたまま呟くと、ジュリアンが僅かに笑む気配がした。
「私に同情する必要はない。今日は随分と饒舌なようだな」
「無茶な患者には苦言を呈したくもなります」
どうにか動揺を隠したまま言い切って、フィアは一つ息を吐く。
「今日の治療はこれで終わりです。お疲れ様でした」
ジュリアンが挨拶をして立ち去った後、十分間を置いてからフィアは出入り口に鍵をかけ、クローゼットを開いた。
「閉じこめてしまって、申し訳ありませんでした」
まぶしさに目を瞬かせるフィラに向かって、フィアは深々と頭を下げる。
「い、いや……良いけど……あ、嘘。良くない」
「ですよね」
フィアは苦く笑って頷き、そしてすぐに笑みを消した。
「でも、聞きたくなったんじゃありませんか? 竜化症について」
「う……」
なんだか認めるのは癪な気がして、フィラは答えに詰まる。
「明日」
フィアは、真摯と言うよりももっと切実な瞳でフィラを見据えた。
「フィラが来ている間に、礼拝堂にお伺いします。聞いて欲しいんです。竜化症のこと。フィラの覚悟が決まるまで待つ、と言いました。でも状況が変わったんです。団長の……ジュリアン・レイの竜化症の進行は、私がここに来る以前に予想していたよりも早かった。彼に消滅(ロスト)されては困るんです。だから……」
「私と、関係あるの?」
言葉を遮って尋ねると、フィアは苦しげに眉根を寄せて俯いた。
「あるかもしれない、というだけです。いえ、恐らくは……関係なんて、何もないんです。あるのはただ、可能性だけ。それでも、いつか何かが変わるかもしれない。わかっているのは、このままではだめだということだけだから……私たちは、それに賭けるしかないんです」
自分も胸が痛むような心地で聞いていたフィラは、『私たち』というフィアの言葉にふと違和感を覚える。フィラをここへ呼んだのは聖騎士団の意志ではないはずだ。だとしたら『私たち』とは一体誰のことを指すのだろう。
「手はほかにも打ってるんですよ。打てるだけの手は、打っているんです」
「私に竜化症のことを教えるのも、打てる手だての一つだから、ってこと?」
思い出すのは、フィラにわざと聞こえるように竜化症の話をしていたフランシスの後ろ姿だ。恐る恐る尋ねるフィラに、フィアは自嘲するような微笑を浮かべて頷いた。
「そうです。下手な鉄砲でも数を打てば当たるかもしれない。あなたの件に関して言えば、私はかなり可能性は低いと思っています。数ある弾のうちでも相当に下手な弾ですが、打たないよりはましだと……言い方は悪いかもしれませんが、要するにそういうことです」
フィアは左胸――団服にあしらわれた十字が交わる場所に右手を当てて眼を閉じる。
「私たちがしなければならないのは、ジュリアン・レイを失わないためにあらゆる手段を尽くすこと。そして、彼が動き出すための条件を整えること」
ゆっくりと瞳を開いたフィアの表情は、まるで泣き出す直前のようだった。
「本当は……私は、あなたを捜さないようにしていたんです。私と同じ遺伝子、同じ質の魔力を持ち、それでいながら魔力値はほぼゼロに近い人間。そんな人間が実在するとしたら、私が様々な活動を行う上でどれほど利用価値があることか……」
感情を押し殺そうと震える声に逆らって、涙が一筋その頬を伝う。
「だから私は……あなたと出会いたくなかった。たった一人の家族を、そんなふうに利用してしまいたくなかった……でも……」
大丈夫だと、言ってあげることができなかった。
言葉を失うフィラの前で、フィアは毅然と顔を上げ、迷いを振り払うように素早く涙を拭う。
「申し訳ありません。想定していた形ではありませんが、やはり私はあなたを利用しなくてはならないようです。謝って済む話ではありませんが……」
迷いのない瞳に見据えられて、フィラは小さく息を呑んだ。
「何かを無理強いするつもりはありません。その代わり、あなたの感情に訴えるような手段を取ることはあるでしょう」
ふ、とフィアの眼光が和らぐ。自嘲の笑みが痛々しくて、思わず目を逸らしそうになるのをフィラは必死でこらえなくてはならない。
「最低な妹で……本当に、ごめんなさい」
苦い微笑をたたえたまま、フィアは静かにそう言った。