第二話 Live in a fool's paradise.

 2-6 星空とさよなら

 部屋に戻り、寝る支度を調えても眠気はまったくやって来なかった。
「どうかしたの? 調子悪いんだったらフィアに相談した方が良いと思うけど」
 ずっと様子を見守っていたティナが、ベッドに座り込んだままぼんやりとしていたフィラに声をかけてくる。
「ううん。大丈夫。ちょっと、考え事」
 答えながら窓の外に視線を向けた。細くなり始めたばかりの月はまだ明るかったけれど、それでも無数の星が夜空に煌めいている。
 ――この空は、偽物なのだろうか。
 この空は偽物で、魔女が夢の中で見せた灰色の空が本当なのだろうか。そうだと思える証拠は、いくつもある。
 竜と話した日の朝、夜明けの空に幻のように消えた月。魔法が解けてしまうから空なんて飛ぶなと言ったジュリアンの、諦めたような淡い微笑。雨に濡れながら、青空を待ち焦がれているようだったその横顔。
 その表情を思い出したフィラは、無意識に胸を押さえていた。何だか苦しい。上手く呼吸が出来ない。
「ねえちょっと。フィラ。本当に大丈夫なの?」
「……ごめん。ちょっと出てくる」
 このままここにいたら窒息してしまいそうで、そうでなくてもティナに余計な心配をかけてしまいそうで、フィラは無理矢理息を吸い込みながら立ち上がった。
「調子悪かったら早めにフィアに言ってよ。まだ魔力不安定みたいだし。まあ、変化があったらあいつにわかるようにはなってるみたいだけど」
 ジュリアンがかけた魔術のことを言っているのだろう。不本意そうな言い方から、ティナが未だにジュリアンを嫌っているのがわかる。逆に、自分の中にあったジュリアンへの不信感が消えてしまっていることも。
「ありがとう。でも、本当にちょっと考えをすっきりさせたいだけだから。すぐ戻るね。明日も早いし」
「……わかった。気をつけて」
 フィラが一人になりたいことに気付いたのか、ティナは一緒に行くとは言い出さなかった。

 とは言ったものの、出てきたところで行き先があるわけでもない。そもそもどの範囲なら行動しても良いのか、まだフィラは把握できていなかった。
 他に何も思いつかなかったので礼拝堂の方へ向かう。本当は出来るだけ広い場所で星空を見てみたかったけれど、城の外へは出ない方が良いということはわかっていた。礼拝堂へ行く途中の中庭から見上げるしかないだろう。
 夜の城内は静かだ。風の吹き抜ける音と、葉擦れの音しか聞こえない。夜番の僧兵はいるはずなのだが、その気配も感じられなかった。石の回廊は月の光に照らされて、昼間に見るよりも冷え冷えとした空気に満たされている。
 夜着の上に羽織ってきた薄手のストールをかき寄せた。高原の短い夏は既に終わりを迎えつつある。この格好では少し寒かったかもしれない。
 戻った方が良いだろうかと迷い始めたとき、フィラは廊下の向こうにふと何か白いものが動くのを見つけた。一瞬幽霊かと緊張したが、すぐに聖騎士団の団服だと気付く。迷いのない足取りで近付いてくるのは、ジュリアンだった。
「お前、ここで何やってるんだ?」
 正面で立ち止まったジュリアンを見上げる。怒られるかと思ったが、責めるような雰囲気は感じられなかった。むしろ生気がない、ような気がする。月光と星明かりだけではよくわからないが、顔色も少し悪そうだ。
「ちょっと……眠れなくて。団長は?」
「俺も似たようなものだな。最近、夢見が悪い」
 うっとうしそうに前髪を掻き上げたジュリアンの表情が妙に弱って見えて、フィラは不安になった。
「大丈夫、ですか? 顔色、悪いみたいですけど」
「そうだな。明日にはフィア・ルカに睡眠薬でも処方してもらった方が良さそうだ」
 どこかぼんやりした口調でジュリアンは答える。
「今夜も、せめてベッドに横になった方が良いと思います」
 お節介だとわかっていても言わずにいられなかった。
「ああ。一服したら戻る」
 しかし、戻ってきたのはさらにお節介を焼かずにはいられない一言だ。
「え……? た、煙草ですか!? だめですよ! 絶対寝付き悪くなりますって」
「わかってはいるんだが、中途半端に一本だけ残しておくのも精神衛生上あまり良くないみたいだからな。眠れないなら付き合ってくれないか」
「でも……」
 迷いながら視線を泳がせる。このまま一人でほっつき歩かせるよりはマシな気がするが、しかしむしろ一人でほっつき歩くなと怒られるべきなのはフィラの方ではないのだろうか。どうしてこんな会話の流れになってしまったのか、わけがわからない。
「これで最後だ。明日からは禁煙する」
 言い訳みたいな台詞が降ってくる。これではフィラの方がジュリアンの保護者のようだ。どう考えても逆が正しいのに。
「それ、私に宣言するんですか?」
「主治医には喫煙していると言っていない」
 引きつった表情のフィラに、ジュリアンは無表情で答える。
「……だめじゃないですか」
「ああ、そうだな」
 無表情のまま、ジュリアンは踵を返して歩き始めた。仕方なくフィラもその背中を追う。何か今日はいつもと違った意味で性質《たち》が悪いようだと、首をひねりながら。

 ジュリアンは途中で執務室に立ち寄り、団服の予備を取ってきた。
「羽織っていけ。今日は少し冷える」
 フィラはその言葉に従って団服を羽織り、代わりにストールを首に巻く。以前借りたときにも思ったけれど、不思議なほど軽い。一見伸縮性のなさそうな素材の割に、サイズの違うフィラが着ても動きを阻害しないのも不思議だった。確か魔術具だったはずだが、一体何種類の魔術がかけられているのだろう。
 前を行くジュリアンの背中を眺めながら、とりとめもなくそんなことを考えていた。ジュリアンは無言のまま、無人の廊下を歩いて行く。
 月の光が差し込む廊下は薄青い空気に満たされていて、水槽の中を歩いているような気分だった。
 廊下の途中の扉から螺旋階段に入り、そこを昇っていく。昇りきった先は、城と城下を一望できる南の塔の頂上だった。
「わぁ……」
 外へ一歩踏み出した途端、思わず感嘆の声が漏れる。銀の粒をまき散らしたような星空が、視界一面に広がっている。空気が冷えているせいか星々の光はくっきりとしていて、今にもこちらに向かって降り注いできそうだ。
「綺麗……」
 外壁にもたれかかったジュリアンに並んで、フィラは夜空を見上げる。
「こんなに綺麗なのに……」
 にせもの、なのだろうか。呟いた声は、途中でため息にまぎれた。
「お前、星座は知ってるのか?」
 隣から問いかけられて、ジュリアンの横顔を見上げる。シガレットを取り出したまま火をつけようともしていない彼が、何を考えているのか、その表情からは読み取れない。
「いえ……さっぱりです。団長は?」
「今わかるのは夏の大三角くらいだ。ベガ、アルタイル、デネブ」
 天の川の方を見上げながら、ジュリアンは淡々と指し示した。
「ベガとアルタイルって、確か一年に一度しか会えない恋人の伝説みたいなのがありましたよね」
 月の出ている夜空でも、ひときわ輝く三つの星を見上げながら、フィラは呟く。どこで聞いた話なのかは覚えていない。もしかしたら記憶を失う前に聞いたのかもしれない。
「ああ。俺も詳しくは知らないが」
「私もです。他の星の名前もわかりませんけど……でも、綺麗ですね」
「そうだな」
 それきり会話は途絶えて、沁み通るような静寂が続いた。
 風の音だけが聞こえる。けれどじっと耳を澄ましていれば、星辰の彼方から何か別の、もっと大きなものが奏でる音楽が降ってきそうな気がする。
「こうやって星を見ていると、天上の音楽、っていうの、本当にあるかもって思えてきます」
 ぽつりと、その感慨を口に出した。
「天上の音楽……か」
 声に引き戻されるように、ジュリアンに視線を向ける。ジュリアンはまだ火の付いていない煙草を手にしたまま、瞳を伏せていた。痛みを堪えるようなその表情に、フィラは思わず息を詰める。
「団……長?」
 恐る恐る呼びかける。それに反応してこちらへ向けられた瞳が妙に頼りなく見えて、手を差し伸べたくなる衝動とフィラは必死に戦った。
「あの……その煙草……何か、あるんですか?」
 言われてやっと気付いたというように、ジュリアンはぼんやりと手元を見やる。
「……先代団長の形見だ。中央省庁区の執務室に置きっ放しになっていた」
 感情を押し殺した平坦な声で、ジュリアンは話し始めた。
「一カートン丸ごと残っていたのを、俺が引き継いだ。先代団長はヘビースモーカーで、作戦を考えるときには特に消費量が多かったから、常備していたんだろう」
 先代団長――四年前に壊滅しかけたという聖騎士団を率いていた、ジュリアンの前任者。すべてを過去形で語られる、もういないひと。
 聞いても良い話なのかと思いながらも、フィラは耳を傾ける。魔女の言うとおり、選んではいけない道だとわかっていても、それでもジュリアンのことが知りたかった。
「煙草はそれ以前にも何度か吸ったことはあったが、好きにはなれなかった。それでも捨てる気になれなくて、二年前からは時々……吸えば理解できるかと思って」
 ほとんど独り言のように、ジュリアンは話し続ける。
「理解って、先代団長さんのことを、ですか?」
「まあな。憧れてたんだよ」
「憧れ……?」
「ああ、先代の団長にな。俺とは真逆の性格だったから、真似なんてできないし、しても意味がないとわかってはいるんだが」
 会話をしていても、どこか存在を認識されていないような覚束なさがあった。
「どんな方だったんですか?」
 それでも知りたいという感情に抗えなくて、フィラは先を促してしまう。
「無茶苦茶な人間だった。酒と煙草とジャンクフードが大好きで、女の噂が絶えなくて、でもどの女性からも恨まれないような人徳があって、普段は部下ともふざけたりじゃれ合ったりしているのに、いざというときには誰も逆らえないような空気だって作り出せる。戦いに行くときでさえ、あの人がいれば大丈夫だという信頼感を、皆が持って戦える。そんな安心感を与えてくれる存在だった。偉大な人間とはこういうものかと思いながら、いつもその背中を見ていた」
 話し続ける内に、ジュリアンの表情が少しずつ柔らかくなっていく。苦いものを含みながら、何かを懐かしむように、悼むように、愛おしむように――
「尊敬してたんですね。その方のこと」
 目を逸らせずにいるフィラには気付かない様子で、ジュリアンはコートの下の胸ポケットからジッポライターを取り出した。
「そうだな。俺にとっては厳しくて怖い人だったが、今思えば本当の父よりも父親のようだった。俺はずっと、あの人の背中ばかり見ていた気がする」
 何かの儀式のようにゆっくりとした厳かな仕草で、ジュリアンが煙草に火をつける。まるで祈りを捧げているようだった。
「だが、これで最後だ」
 冷たい銀色の星々の輝きの中で、煙草の炎だけが赤く熱を感じさせる光を放つ。
「買い足したりは……」
「しないさ」
 ゆったりと煙を吐き出しながら、ジュリアンは即答した。
「二年かけて一カートンだ。結局好きにはなれなかった」
 残された最後の一本が、少しずつ短くなっていく。これは別れの儀式なのだと、もう今はフィラにもわかっていた。
「やはり何もかもあの人とは違うな。俺は酒も苦手だし、女っ気がない割にあの人よりは恨みを買っている気配もある」
「そう……なんですか?」
 恨みはどちらかというとダストが引き受けていそうな印象なのだが。誰とでもそつなく適度な距離を置いていそうなのに、恨みを買ってしまうときは買ってしまうのだろうか。
「……でも確かに、団長、モテそうですもんね」
「お前な……俺がモテるわけないだろう」
 思わずまじまじとジュリアンの顔を見上げると、彼は気まずそうに視線を逸らした。
「冗談、ですよね?」
「冗談じゃない。いくら顔が良くたって政争に敗れて田舎に飛ばされるような情けない男がモテるはずないだろう」
 田舎……つまり、ユリンのことだろう。
「そうは思えないんですけど……」
 だからといって、顔も家柄も身分も魔力も申し分ないはずのこの青年がモテないとは思えない。
「そうでなくとも、俺相手じゃ面倒ばかりだ」
 言っている本人が一番面倒くさそうだった。
「そうなんですか?」
「ああ。付き合うなら結婚前提になるし、その上聖騎士団長の妻なんて絶対にろくでもないからな。政争には巻き込まれるし、余計な付き合いは多いし、下手をすれば命を狙われることだってあり得る。そもそも聖騎士自体、生命保険にも入れないようなヤクザな商売だ。遺族年金はあるが、運営は現状俺の個人資産を削って綱渡りしている状況だし……俺が死んだらたぶん出ないな」
「そういう世知辛い話なんですか?」
 身も蓋もない話に引きつりながらジュリアンの横顔を見上げる。
「切実な問題だろ。だから、モテないんだ」
 淡々とした声に変化はなかったが、先ほどよりはいくらか生気の感じられる表情になってきているようだった。そのことにほっとする。
「条件だけで恋に落ちるものじゃないと思うんですけど」
 実際、自分は落ちてしまっているわけだ。大変不本意なことに。それに、光の巫女であるアースリーゼだって、きっとジュリアンに恋している女の子の一人だ。
「条件が揃わなければ恋に落ちるほど近付けもしないってことだ」
「そういうものでしょうか……?」
「とりあえず、実績としてはな」
 誰も言わなかったのかもしれない。フィラだって、この何か大きな責任を背負っているらしい青年に、わざわざ告白を断るという重荷を背負わせたいとは思わない。
「とにかく、自分があの人とは何もかも違うという自覚はあるんだ」
 だいぶ短くなってしまった煙草を懐かしそうに見下ろしながら、ジュリアンはゆっくりと息を吐いた。
「俺は、同じようには、できない」
 自らに言い聞かせるように呟いて、取り出した携帯灰皿で炎をもみ消す。表情の消えたその横顔に、フィラも言葉を失う。結局ジュリアンが灰皿をまた胸ポケットにしまうまで、その一挙手一投足を見守ることしかできなかった。
 胸ポケットの辺りを押さえながら、ジュリアンが長くため息をつく。ほとんど無表情なのに、なぜか泣き出しそうな気配を感じて、フィラはなんだかいても立ってもいられない気分になる。
「団長……あの」
 大丈夫ですか、などと聞く気にはなれなかった。絶対に大丈夫でなかったとしても、この人は絶対に大丈夫としか答えないだろうという確信があった。
 続く言葉が見つからなくて、それがもどかしくて、ただジュリアンの横顔を見つめる。その視線がふっとフィラへ向けられた。目が合った瞬間、ジュリアンの顔に嘲るような笑みが広がる。
「何だ。慰めてくれるのか?」
 自分自身を突き放すような、自嘲の笑み。そんな表情をしてほしくない。
「私に、出来ることなら」
 それ以外の答えが返ってくるとでも思っていたのか、ジュリアンは一瞬瞳を見開いた。けれど驚愕はすぐに皮肉げな笑みに取って代わられる。
「抱きしめてくれ、と言っても?」
 絶対に無理だと思っているのだろう。ちゃんと、答える前に覚悟を決めたのに。
 正面に立ってじっと見上げても、ジュリアンは前言を撤回しなかった。代わりに浮かんだ、無理だろうとでも言いたげな苦笑が、フィラの背中を押す。
 両腕で引き寄せる仕草に、ジュリアンは逆らわなかった。