第二話 Live in a fool's paradise.

 2-8 交錯

 朝食を作り終えた後、フィアの治療室に寄って薬を受け取ってから、フィラは団長執務室へ向かった。
 執務室で仕事をしていたのはフェイルで、ジュリアンならここをフェイルに任せて礼拝堂に行っていると教えてくれた。礼拝堂は飲食可能なのかと首をひねりながらも、言われたとおりに食事を運ぶ。
 ジュリアンは信者席の一番前に座っていた。彼を取り巻くようにいくつものモニターが浮かび上がり、細かい図表や文章を表示させている。
「あの、団長、朝食をお持ちしたんですが」
 そっと声をかけると、ジュリアンは背もたれに腕を乗せながら振り向いた。
「ああ。遠くまで悪いな」
「いえ……」
 持ってきたトレイを差し出しながら、フィラは瞬きする。ジュリアンは細いシルバーフレームの眼鏡をかけていた。今まで眼鏡をかけていた所なんて見たことがなかったので、思わずまじまじと見てしまう。
「どうした?」
 硝子の向こうから、青空の色の瞳が訝しげにフィラを見上げる。
「あ、いや、その、眼鏡、かけてるのが珍しいなって」
「ああ」
 慣れた手つきで眼鏡の位置を直しながら、ジュリアンは視線を落とす。
「普段は視力矯正の魔術を使っているんだが、休日くらいは切っても良いかと思って」
「目、悪いんですか?」
「まあ、良くはない」
 淡々と答えながら、ジュリアンはフィラが差し出したままだったトレイを受け取った。
「あ、あと、フィアから食後のお薬も」
「ああ」
 フィアが処方した丸薬も渡してしまったところで、フィラはジュリアンを取り巻くモニターに目を向けた。
「えっと……それで、もし仕事しているようだったら注意しろ、とも言われたんですけど……」
 これは仕事なのだろうか。正直、見てもさっぱり意味がわからない。
「上三つは仕事だが、魔女が結界内に侵入した疑いがある時期に責任者である俺がユリン内部の状況から目を離すわけには行かない。別に細かい作業をしているわけでもないから、そこは大目に見てくれ」
 誤魔化されるかと思ったが、思いの外丁寧な返事が戻ってくる。むしろ、そこまで聞かせて良いものなのか。
「何か……いろいろ隠す気なくなってます、よね? 最近……」
 この空中に浮かび上がっているモニター自体、ユリンでは見られないものだ。違和感を感じない自分が不思議だけれど、だからといって見せて良いものとも思えない。
「当分元の生活に戻してやれそうもないからな。お前の中にある力が何なのか、ほとんど見当はついているんだが」
「それが何かは、まだ教えてもらえないんでしょうか」
 ジュリアンの視線に促されて隣に腰掛けながら、フィラはため息をつく。
「ああ。ほぼ確信に近いが確証がない。公には出来ないが……コントロール下には置いておきたい。そんなところだ」
「コントロール……」
 思わず復唱する。言葉も選んでいない。また悪役みたいなことを言っているけれど、本当のところどう思っているのだろう。ちらりと横顔を伺ってみるけれど、冷静な表情からその感情を読み取ることは出来なかった。ジュリアンは短く祈りの言葉を唱えてからフィラが持ってきた食事に手をつける。
 メニューは結局ごく簡単なものになってしまった。焼きたてのクロワッサンにカフェオレ、できるだけ新鮮な野菜を選んで作った付け合わせのサラダ。調理らしい調理はちゃんと火加減を見てパンを焼き直したのとドレッシングを自作したくらいだ。テストもへったくれもあったものではない。
「……これは、嫌がらせか」
 優雅な所作で、しかし行儀悪くモニターを注視しながら食事をしていたジュリアンがふと手を止めた。
「え? 何か変なもの入ってました?」
「は……?」
 食事のことだと思ったフィラはジュリアンが手にしているコーヒーカップを覗き込む。
「すみません。味見はしたはずなんですけど」
「いや、そっちじゃない。食事は美味い。お前が作ったのか?」
「あの、一応……でも、作った内には入らないんじゃないかと……」
 これを調理したなどと言ったら絶対エルマーさんに怒られる。その上嫌がらせかと思われるような失敗までしていたなら言い訳のしようもない。
「そうか? あそこに置いてある食材はレトルトとインスタントがほとんどだろう。それでこれだけ作れれば大したものだ。嫌がらせと言ったのはそっちじゃない」
 ジュリアンは話しながらさっきまで睨み付けていたモニターをフィラの方へ動かす。
「五年前に書いた論文にフランシス・フォルシウスが反証論文を書いてきたんだ。まったく、何で今更……」
 覗いてみたモニターの著者名と思われる箇所には、確かにフランシス・フォルシウスの名前が表示されていた。
「反論しろと言いたいんだろうが、五年前に書いたことなんて忘れてるぞ」
 ジュリアンは一つため息をつくと、モニターを自分の目の前に戻して食事を再開しながら目を通し始める。それは仕事なのか聞いた方が良いかと思ったが、様子を見ていると毒突いていた割には楽しそうだ。
「団長、五年前って何歳でした?」
 ふと気になって尋ねてみる。
「十六だな」
 やっぱり、今のフィラと同い年だ。フィラと同い年のジュリアンが何を研究し、何を考えていたのか。まったく想像がつかなくて、興味が湧いてくる。
「その……団長が書いた論文、読ませてもらっても良いですか?」
「構わないが、意味はわからないと思うぞ」
 ジュリアンが答えながら何か操作すると、空中に浮かび上がったモニターが一つ増えた。ジュリアンはそれを無言でフィラの方へ押し出す。
「『バラージ・ジャミング影響下における高圧縮魔術の発動条件および安定性に関する検証』……?」
 タイトルの意味が既にわからない。
「周囲の魔力が劇的に乱れた状態で高難度の魔術を安定して高速で発動させる方法を検証した論文ということだ」
「な、なるほど?」
 そういうつもりで読み始めてみるが、専門用語だらけでさっぱりわからない。先行研究、検証の手法、色刷りのグラフ。五ページ程度の短い論文だけれど、その向こうにはきっと膨大な研究と実験の積み重ねがあるのだろう。五人ほどいる共著者の中には、ランティスの名前も見て取れた。五年前、十六歳のジュリアンが本気で向き合っていた研究。何だかとても不思議な気がする。
「……ああ、そういう意味か」
 呟きが聞こえて顔を上げる。ジュリアンは納得したような表情で空中にキーボードを出現させて、何か入力し始めている。
 表情はいつもと変わらないが、眼鏡の奥の瞳がいつもより生き生きしている気がする。やっぱり楽しそうだ。食事はどうやらもう終わったらしい。声をかけて退出しようかと思ったが、邪魔をするのも悪いし論文の続きも読んでしまいたい。
 ――とりあえず、ちゃんと休日を満喫しているようで良かった。
 少しだけほっとしながら、フィラは相変わらず意味のわからない論文に目を通す作業に戻った。

 論文を一通り読み終わって、フィラはちらりとジュリアンの様子を伺った。いつの間にか周囲に浮かび上がる積層モニターは増えていて、ジュリアンが打ち込んだ文章量もかなり増えている様子だ。増殖した積層モニターにはフィラが読んでいた論文に載っていた図表や結局最後まで読み解くことが出来なかった魔術式、というらしい回路の設計図が表示されている。
 ジュリアンは集中した様子でモニターを見つめているけれど、纏う雰囲気からはいつもの張り詰めたような緊張感も、昨夜の虚脱したような危うい空気も消えている。昨夜はずいぶん参っていたようだが、一晩で気持ちを切り替えたのだろうか。
(それとも、私が夢を見てた……?)
 ジュリアンの様子が普通すぎて、段々そちらが正しいような気がしてくる。それならそれで、自分も変に意識したりしないようにしよう、と、フィラは密かに決意を固める。
 そんなことを考えながらぼんやりと横顔を見つめていると、ふいにジュリアンが何かに気付いたように「仕事」だと言っていた三つ以外のモニターを消去した。眼鏡を外したジュリアンの瞳に一瞬虹色の回路が走り抜け、視力矯正の魔術が発動したらしいことがわかる。その瞳が見つめる先で、モニターの一つに表示された城内の平面図が赤く染まった。東の中庭を中心に、同心円状に広がる警告の表示。同時に鳴り始めたサイレンに、フィラは思わず身をすくめた。場違いなほど鋭い警報音が礼拝堂の静寂を貫き、城内の他の箇所でもけたたましく異常を告げているのがわかる。本能的に逃げ出したくなるのを抑えて、フィラは問いかけるようにジュリアンを見上げた。
「総員に告ぐ」
 ジュリアンが団服の襟を口元に寄せながら言う。すぐ側にいるのに、その言葉はまるで空間全体から響いてくるように聞こえた。恐らく同じ音が城内の全ての空間で聞こえているのだろう。
「今から三分以内に地下空洞を中心とした半径三百メートル圏内が神域と交錯する。離脱できる者は離脱、出来ない者は必ず二人ひと組で行動し、消滅《ロスト》を避けろ。繰り返す。今から三分以内に地下空洞を中心とした半径三百メートル圏内が神域と交錯する。離脱できる者は離脱、出来ない者は必ず二人ひと組で行動し、消滅《ロスト》を避けろ」
 落ち着いた穏やかな声が、それでも隠し難い緊張感を孕んで空間を震わせる。
(神域と交錯……?)
 知識のないフィラには、これから何が起ころうとしているのかさっぱり理解できない。どうしたら良いのか、一人だったらパニックを起こしているところだが、今はジュリアンが側にいる。黙って指示を待つのが一番だろう。繰り返される警報音に焦燥を掻き立てられながら、フィラはモニターを操作するジュリアンの一挙手一投足を見守った。
「フェイル」
 新たに浮かび上がったモニターにフェイルの姿が映し出される。背景に広がる草原を見る限り、フェイルはどこかフィラの知らない最短ルートで既に城外へ出て、ジュリアンと同じようにいくつものモニターを操作しているようだった。
『はい。既に圏外に脱出しております』
「僧兵の離脱を支援しろ。その後、外部から原因の調査を頼む」
『了解』
 フェイルの回答に頷きながら、ジュリアンはさらにモニターを増やす。映し出されたのはカイだ。
「カイ、場所は――城門だな。その位置から城外結界の緊急レベルを最高に上げてくれ。市街地に影響を出すな」
『了解』
 続いて浮かび上がった二つのモニターには、石の廊下を走るリサとランティスの姿が映る。
「リサとランティスはフェイルの補助。退避を完了したらフィア・ルカを呼び戻し、被害の確認と結界の補修を急げ」
『了解』
『了解』
 その回答を待ち構えていたようにフェイルを映したモニターが揺れた。
『団長は?』
 視線を向けたジュリアンにフェイルは気遣わしげな表情で問いかける。
「私は中に残り、原因を調査する」
『誰か向かわせますか?』
「必要ない。フィラ・ラピズラリにアンカーになってもらう。カルマの狙いがフィラだった場合も、私と行動していた方が対処できるはずだ。こちらからの情報はぎりぎりまで送り続ける。時間がない。急げ!」
『了解』
 フェイルの回答を確認して、それからジュリアンはようやくフィラを見た。息つく間もないやりとりに呆然としていたフィラははっとして姿勢を正す。
「フィラ、論文はどこまで理解できた?」
「え?」
 なぜ今それを尋ねられているのかはわからなかったが、理由を考えている暇もない。
「えっと、何らかの原因でその場の魔力が劇的に乱れた場合、その中で魔術を行使するのは消滅《ロスト》の危険が大変大きいので」
「そこまでわかれば上出来だ」
 原文で言えば冒頭二行くらいのところで遮られた。ジュリアンの浮かべた微笑に、簡単に安心してしまえる自分がおかしい。少し前まではまったく信用できないと思っていた相手なのに。
「今からその劇的に魔力が乱れた状態がこの場に現出する。その際、俺は何も手を打たなければ消滅《ロスト》する可能性が大きい。結界を張ってやり過ごすことは出来るが、出来るだけその状態になった原因を探りたい。協力してもらえるか」
 死ぬかもしれない、という話の割には、ジュリアンは落ち着き払っていた。
「協力って、何をすれば良いんですか?」
 だからフィラもできる限り冷静に、今求められている行動だけを聞き出そうと努める。時間はもう、あと一分もないはずだ。
「俺の存在を認識し続けていてくれ」
「具体的には?」
「魔力が乱れる際、視覚と聴覚と平衡感覚は恐らく滅茶苦茶に揺さぶられる。その状況で他者を確実に認識しておきたい場合、物理的な接触が一番効果的だ」
 何だか物凄く回りくどいが、要するに。
「掴まってろ、ということでしょうか?」
「そういうことだ」
 どこに、と訊く暇はなかった。
「来るぞ」
 言葉と同時に引き寄せられる。また抱きしめられていると思う間もなく、『それ』は来た。
 最初は音もなく床が抜けたのかと思った。強烈な浮遊感に思わずジュリアンにしがみつく。次いで訪れる、真横に吹き飛ばされるような感覚。後はもう滅茶苦茶だった。右も左も上も下もわからなくなる。しがみついていなければどこかに振り飛ばされてしまいそうだ。濁流の中で翻弄されているような感覚に、全身の神経が悲鳴を上げる。
 目を閉じたまま、それでも意識だけは手放すまいと必死で縋り付く。あらゆる感覚が揺さぶられる中で、抱きしめられた腕の感覚だけが確かだった。