第三話 不確定要素の雨

 3-3 赤い瞳の竜

 剣を構えたまま、ジュリアンはフィラの手を引いて少し先の足場が広くなっている所まで移動した。円形の広場は、何か作業をするために作られたものなのか、直径二十メートルほどの大きさがある。さっきの魔竜石と同じくらいの大きさの魔竜石が、広場を挟んで反対側にもう一つ浮かんでいた。ジュリアンは素早く周囲を見回し、広場に入ってすぐの位置で足を止める。
 やがて薄緑色の光が闇に溶け込むように消えて、辺りを照らすものはジュリアンが作り出した魔法光と、魔竜石に時折走る虹色の光だけになった。息が詰まるような緊張感の中で、フィラは鼓動が数えられるほどの動悸を感じながら、ジュリアンの見つめる先――広場のもう一端の、さらに先へと続く足場を見ていた。そこに、周囲の闇よりもなお濃い漆黒が霧のように集っていく。ジュリアンはフィラを背後に庇い、繋いでいた手を放して剣を構えた。
「フィラ・ラピズラリ――愛する者」
 凝った闇は吹き抜ける風のような、高いとも低いとも、遠いとも近いとも取れる不思議な声で呼びかけた。
「やっと会えましたね」
 闇は裾の長い黒衣の女の形を取り、真っ白い血の気のない女の顔が浮かび上がるように現れる。
「でもお前はまだ目覚めていない……もう少し待つ必要がありますね」
 目を細めて満足そうに微笑む魔女の瞳には、酷薄な光が宿っていた。こちらを圧倒するような冷え冷えとした空気に身が竦む。魔女は身構えつつ隙を探すジュリアンを無視してフィラに話しかけ続けた。
「その男を守りたいと思いますか?」
 真っ直ぐ見つめられながらも、その言葉が自分に向かって投げつけられたものだとは思えない。だってどう考えても、守られているのはフィラの方だ。
「そう思うならば、お前は目覚めなければならない」
 何を言っているのかわからない。わからないけれど、全身に鳥肌が立つような恐怖を感じる。
「……試してみましょうか」
 魔女の笑顔が愉悦に歪んだ。
「今、お前が目覚めることが出来るのか」
 ゆったりとした仕草で、魔女は右腕を持ち上げる。ジュリアンが動いたのは、その瞬間だった。駆け寄って斬りつける動作を、フィラは目で追いきれない。一つに結んだ金髪の軌跡だけが、稲妻のように見えた。斬りつけられた魔女の姿は一瞬黒い霧に戻り、少し離れた場所でまた一つに集まる。間髪入れずジュリアンの放った雷光がその霧を散らす。しかしジュリアンは追撃はせずに、すぐにその場から飛び退いてフィラの前に立った。かざした手の前に、半球状の透明な膜が現れる。雲散した霧が、槍状に変形してその膜に突っ込んでくる。ぶつかり合った膜と槍は鋭い金属質の音を立てて、同時に細かい緑色の光の粒子になって砕け散った。
「守りながら戦うのはつらいでしょう。そのままでは竜になってしまいますよ、宿命《さだめ》の子」
 その光の向こうでいつの間にか形を取り戻していた魔女が、心から楽しそうに言う。言いながら振るった腕から、また漆黒の槍が生まれて飛んできた。ジュリアンは片手をかざしただけでまたさっきの膜を作り出し、それを防御する。それと同時に、もう片方の手に握られた剣が、ちかりと光った気がした。魔女の背後で、魔竜石が光る。細波のような虹色の光に、魔女は気付いていない。魔女がもう一度手を振り上げる。黒い霧の槍が生まれる直前、背後の魔竜石が弾けたかのように光を発した。空間を割り開くような雷鳴、魔女を呑み込む雷撃の奔流に、フィラは思わず悲鳴を上げて両手で目を覆った。眩しくて見ていられない。
「しぶといこと……」
 忌々しげな魔女の声がどこか遙か遠くから響いてくるように聞こえた。
「ここで戦うのは得策ではないようですね。ならばフィラ。見せてあげましょう。その男が恐れているもの。自分自身の、真の姿を」
 張り詰めていたジュリアンの気配が、さらに緊張感を増すのを感じる。遠ざかった魔女の気配を読み取ろうとするように、ジュリアンは素早く周囲に目を配る。けれどまたあの黒い霧が現れることはなく、辺りは静まりかえったままだった。
「魔女は……どこに……?」
 思わず問いかけた瞬間、ジュリアンがはっと息を呑んだ。
「……ダスト」
 愕然としたように、呟く。踵を返すと同時に、その手の中から剣が消えた。焦ったような仕草で襟を口元に引き寄せ、ジュリアンは口を開く。
「ダスト! カルマがそちらへ行く! 交戦するな! 暴走を避けることを最優先で考えろ!」
 返答を待つこともなく、ジュリアンはフィラの手を引いて走り出した。
「戻るぞ」
 フィラがついて行けるぎりぎりのスピードで走りながら、ジュリアンの表情に焦燥が滲む。狭い足場を駆け抜け、先ほど下ってきた階段を通り過ぎ、その先へ先へと走る。息が切れても足がもつれても、必死でついていくしかなかった。既に足手まといになってしまっていることはわかっていたけれど、それでも――きつく握られた手からジュリアンの焦燥が痛いほど伝わってくるから、フィラも崩れそうになる足を叱咤して走る。
 しばらく走ると、足場は高い壁に遮られて終わっていた。上も下も右も左も果ての見えない広大な壁面には、足場の終わるところだけ小さな扉が設えられていた。ジュリアンが扉の横の装置に手をかざすと、『ピッ』という電子音と共に扉が横へスライドして開く。入った先は真っ白な壁の小部屋だった。フィラにはまるで用途のわからないコンソールやモニターが静かに稼働している。
 ジュリアンは無言で部屋の奥の扉に駆け寄り、さっきと同じように脇の装置を操作して扉を開いた。その先はさらに狭い小部屋。引きずり込まれるようにしてフィラが入った途端、背後で扉が閉まる。すぐに身体が下に押しつけられるような感覚がして、フィラは小部屋そのものが上へ向かって移動していることを知る。これの名前は『エレベーター』だ。埋もれた記憶の中から、その単語だけが浮かび上がってくる。肩で息をしながら反射的に階数表示を探したフィラは、操作盤に拳を叩き付けた姿勢のまま動かないジュリアンの表情を見て呼吸を止めた。
「間に合ってくれ……!」
 絞り出された声は、表情と同じくらい悲痛だった。かける言葉も見つからないまま、フィラもただ早く、早くと祈る。

 実際には、エレベーターの上昇にかかったのはフィラの呼吸も整わないほどの短い時間だった。上がった先は城内の廊下のどこかで、出た途端にまたジュリアンはフィラの手を引いて走り出す。エレベーターの扉が開ききることすら確認できないまま、フィラはまた全力で走ることになった。酷使された肺が痛い。膝にももう力が入らなくていつ崩れ落ちてもおかしくないくらいだけれど、それでも足を止めるわけにはいかないという気力だけで走り続けた。
 長い廊下と回廊を抜け、向かった先は東側の裏口だった。神域と交錯している間にずいぶん時間が経っていたらしく、空はもう夜の色をしている。城壁越しに、空が薄赤く染まっているのが見えた。夕日の赤よりも凶暴な色。何かが燃えるきな臭い匂い。聞こえるのは聖騎士たちの怒号の声と、獣の咆哮。
 何が起こっているのか考える間もなく、焼け落ちた裏門の木戸をくぐり抜けて外に出る。
 広がっていたのは、火の海だった。果てのない草原が、見渡す限り炎に包まれている。その炎の中心に、白銀の鱗を持つ竜がいた。闇の塊のようなリーヴェ・ルーヴとはまるで違う、流線型の二本の角とコウモリに似た大きな羽を持つ、見上げるほどの大きさの優美な姿の竜。けれどその赤い瞳は怒りと殺戮の衝動に暗く染まり、咆哮のたびに周囲に吹き上がる炎が空を焦がしている。
 カイとリサとランティスは前線にいた。さっき魔女と戦ったときにジュリアンが使っていたような結界を張り、竜が周囲に及ぼす破壊を最小限にとどめようとしている。城壁にほど近い位置では、フィアとフェイルがほとんど半身を焼かれたような状態のレイヴン・クロウを治療していた。ずっと遠くの方では、僧兵たちがユリンの町に向かいそうな炎の舌を水の魔術で食い止めている。
 地獄のような光景だった。
「マジでシャレんなってないって。ダストー、ちょっともう、勘弁してよー」
 リサが竜に向かって泣き言を言っている。
「ダスト……さん……?」
 あの竜が、そうなのだろうか。呆然とするフィラをフィアに託して、ジュリアンは竜の方へ駆けていく。
「カイ! ランティス! リサ! そのまま結界を維持しろ! ダストは私が止める!」
「了解!」
 三人は一斉に応え、それぞれ三方に別れて竜を取り囲みながら結界を張り続ける。
 空気を震わせる竜の咆哮には、もはや理性も知性も感じられなかった。目の前の生物に襲いかかることだけを、本能的に求めている。ジュリアンはカイが一瞬開いた結界の隙間を抜け、竜と対峙した。その右手にはもう、駆け寄りながら出現させた剣が握られている。
 ほとんど咳き込むように息をしながら、フィラはもう見ていることしか出来ない。喉が、肺が、足が痛い。でも何よりも胸が締め付けられるようで、泣きだしてしまいたい。
 どうして。どうして。どうして。
 ただその言葉だけが頭の中で回り続ける。魔女が何かしたから、ダストは竜になってしまったのだろうか。わかることは何もない。しかし、これがもし魔女がフィラに『見せる』ためだけにやったことだとしたら。
(こんなの、酷すぎる……!)
 こんな風に何もかもを無秩序に破壊しようとするのが、ダストの望みであるはずがない。厳しいようでも、ダストとの僅かな会話の中で感じたものは、紛れもない人間的な彼女の優しさだった。
 竜が吼える。ジュリアンを睨み付ける瞳には、赤い殺意しか映っていない。けれどその声には、泣き叫ぶような切迫感が含まれている。
 ジュリアンが地を蹴った。竜はその巨体からは想像も出来ないスピードで身体をひねり、長い尾でジュリアンを打ちのめそうとする。しかし、ジュリアンの方が速い。空を切った竜の尾は激しく地面を打ち、草の根で固められていたはずの大地はその勢いに抗しきれずに激しい土煙を上げた。
 視界を遮る土煙を必死で透かし見ながら、フィラはジュリアンの姿を探す。竜がまた一つ吼えて、土煙の中に炎と黒煙が噴き上がった。
圧倒的な破壊の力は、きっとフィラが失ってしまった記憶の中にもないものだ。熱風が物理的な圧力を伴って吹き付けてきても、まるで現実感がなかった。
「結界が……保たないぞ……!」
 ランティスが切羽詰まった叫びを上げる。
「ああもうダスト! 手加減くらいしてってば!」
 ダストに人としての意識がないことなどお構いなしのリサにも、焦りの色が見え始めた。
 渦巻いて空を灼く火柱の中心で、竜がひときわ高い咆哮を上げる。巨体が立ち上がり、黒煙を透かしてそのシルエットが浮かび上がった。白いばかりのその体の上に、ちらりと動くものが見える。ジュリアンだ。いつの間にか竜の背に登っていた。振り落とそうと身を捩る竜の、その動きを利用して頭に飛び移る。動き続ける竜の角を掴んで姿勢を安定させ、手にした剣を振り上げた。その剣が竜の眉間に突き刺さっていくのが、不思議とよく見えた。
 竜が悲鳴を上げる。空気を切り裂くような鋭い叫びは、やがて渦巻きながら地底へ吸い込まれていく水のような低い呻きに変わり、竜の身体がぐらりと傾いだ。ゆっくりと倒れていく身体が、砂が崩れるように小さくなっていく。噴煙と粉塵の中へ、ジュリアンが飛び降りるのが見えた。
「フィラ、来てください!」
 背後から走ってきたフィアが駆け抜けざまにフィラの手を取って、竜が倒れた方へ一直線に向かう。竜が倒れると同時に結界の維持を解いたランティスとカイとリサはもう既に消火に向かっている。
 噴煙の中心には、ダストが横たわっていた。血の気のない彼女の傍らでは、ジュリアンが跪いて彼女の団服の襟を握りしめ、祈るように瞳を閉じている。
「団長、代わります!」
 フィアが一言告げてジュリアンと場所を交代する。立ち上がったジュリアンは、けれどすぐにぐらりと姿勢を崩した。とっさに駆け寄って身体を支える。
「すまない……少し、消耗しすぎた」
 フィラの肩を借りてどうにか自力で立ちながら、ジュリアンは憂いに沈んだ視線をダストに向けた。フィアの治療を見守る彼が、何を考えているのかはわからない。
「担架!」
 しばらく治療を続けてから、フィアは背後に振り向いて叫んだ。すぐに僧兵が二人、担架を抱えて走ってくる。しかし年若い二人の少年兵は戸惑ったようにジュリアンとフィラの側で立ち止まってしまった。
「あ、あの、大丈夫なんでしょうか?」
 一人が恐る恐る尋ねる。
「問題ない。もう魔力の乱れは通常の範囲内に収まっている」
 冷静な声音で答えたのはジュリアンだった。
「早く! 救護室に運んでください!」
 常になく厳しい口調のフィアに、僧兵二人は一瞬身を竦ませ、すぐに駆け寄ってダストを担架に乗せた。
「フィラ、これで団長の……竜化症の応急処置をお願いします」
 僧兵二人が動き出す合間に、フィアが透明な鉱石のペンダントを渡してくる。
「え……?」
 戸惑っている内に、フィアはさっさと僧兵二人を誘導して城の方へ立ち去ってしまった。
 これで、と言われてもどうしたら良いかわからない。困惑するフィラの肩を、誰かが背後から叩いた。
「やり方教えたげる」
 いつの間にか隣に来ていたリサが、頬についたすすを手袋で拭いながら言う。
「左手でそれ握って。右手はジュリアンに触っといて。慣れてないなら手首とか、脈取れる辺りが良いかも。で、私が魔術発動させるから、発動したら調整」
 座れ、という仕草に従ってジュリアンと共に地面に座り込みながら、フィラは首を傾げた。
「調整って……?」
「えーっとね」
「その魔竜石から聞こえる音に俺の音を合わせれば良い」
 回答に迷うリサを遮ってジュリアンが答える。
「あー……フィラちゃん聴覚型か。なるほどね。それでフィアちゃんが頼んでいったんだ」
「いや、知らないと思うが」
 リサと会話するジュリアンの様子は、もういつもと変わらなかった。それでもきっと無理をしているのだと思える。また胸が締め付けられるように苦しくなるのを感じながら、フィラはリサに言われたとおり、ペンダントとジュリアンに触れた。
「んじゃ、行くよ」
 リサが横からペンダントに触れてすぐ、神域で聞いた金属が触れ合うような魔力の音が聞こえてくる。ジュリアンに魔術をかけてもらったときのことを思い出しながら、フィラは音を合わせ始めた。