第五話 闇の竜と魔女

 5-5 続いていくもの

 車庫の中には私物も含めて十台近くの車が並んでいた。ジュリアンはその中から、ブルーグレーのいかにも高級そうな車に乗り込む。
「それ……私物?」
「ああ。公用車は神域との交錯で故障したからな」
 助手席にティナを下ろしながらジュリアンは嫌そうに頷く。今後の修理計画でもうっかり考えてしまったのだろう。
「なるほどね」
 ジュリアンの私物だという車は見た目相応に付与された魔術も高級であるらしく、神域との交錯くらいではびくともしないセキュリティが施されているようだった。
「君、実は金持ちだよね」
「五年前にもらったのをそのまま使っているだけだ」
 ジュリアンはシートベルトを締めると、エンジンをかける前におもむろにティナに魔術式と魔力を引き渡した。ごく自然に渡された上に精査する必要もないほど正確な魔術式だったので、ティナは考える間もなく魔術を発動させてしまう。発動させてしまった後で我に返った。
「な、何するんだよ!」
「バッテリーが空だと動けないんだ。そのくらい協力してもらっても良いだろう」
 雷の神とも契約しているくせに光の神にバッテリーの充電なんて魔術を使わせた張本人はけろっとした表情でエンジンをかける。
「電気関係ならレーファレスにやらせろよ!」
 魔術式でエネルギー源が守護神自身に指定されていない以上、別に光の神が電気関係の魔術を発動させたってかまいはしないのだが、何となく納得行かなくてティナは吠える。
「あいつはしばらく休ませてやりたい。出発するぞ」
「く、屈辱だー!」
 涙目で震えるティナを助手席に乗せたまま、ブルーグレーの高級車は車庫から滑るように夜空の下へと走り出した。

「それで、契約を続行するかどうか、一応確認しておきたいんだが」
 研究所跡地へ向かう道すがら、ジュリアンがぽつりと口を開く。
「気持ちとしては今すぐ切りたいね」
 まだ拗ねたままのティナがぶっきらぼうに答えると、ジュリアンは短く「だろうな」と呟いた。
「でも、フィラが光の巫女なんだったら、誰とも契約してない神が側にいるのは許されないよね」
「そうだな」
 誰とも契約していない、つまりいつ荒神になるかわからない神をそんな重要人物に付けておけるはずはない。フィラが重要人物なんて未だに悪い冗談だとしか思えないのだが、二度もリラの力を使って転移するところを目にすれば認めないわけにはいかない。
「フィラとの契約は無理そうだし、そうなると結婚相手のお前と契約してるのが一番近くにいられる可能性高いんだよね」
 ジュリアンにとっても予想通りの結論だったのだろう。無言で肯定の気配だけが返ってきた。
「お前が悪い虫なら見張ってなきゃいけないってのもあるし、続行するよ。契約」
「わかった。よろしく頼む」
 あっさり素直に言われて、ティナは思わず毛を逆立てる。
「僕はよろしくしたくないけどね! フィラのためだ、フィラのため!」
「わかってる」
 淡々と運転を続けるジュリアンを、ティナは不満げに見上げた。
「でもさ、お前にメリットってあるわけ? レーファレスがいれば充分なんでしょ、正直なところ」
「いや。お前がいればフィラの護衛はかなりやりやすくなる。守護の魔術を付けておくより契約した神を付けておく方がいろいろな状況に対応できるからな」
「ああ、そう。そういう使い方されるなら、僕にも文句はないよ」
 フィラの護衛専用ということなら、ジュリアンとティナの利害は見事に一致することになる。何よりジュリアンよりフィラと一緒に行動していれば良いというのはティナにとってはありがたいことだった。
 それきり会話は途切れてしまう。聞きたいことはいろいろあったが、話し出すタイミングがつかめないまま、車は研究所跡地に到着していた。
 崩れかけた観測塔の脇に車を止めたジュリアンは、ティナにここで待てと指示を出して、観測ドームの内側へ入っていく。ドーム中央の天体望遠鏡を取り巻くような螺旋階段を降りていくジュリアンを見送りながら、何か見られたくないものでもあるのかとティナは首をひねった。

 地下一階からはエレベーターを使うことが出来る。エレベーターに乗って最下層を目指しながら、ジュリアンはフィラにかけた守護の魔術を目印にその周囲の魔力を探っていた。さっき確かに触れることが出来たリラの魔力はどこにも感じられない。水の神器の魔力も感知できないのは、竜がしっかりと封じてくれているからだろう。感じられるのは闇の竜の魔力と、それにかき消されそうなフィラ自身の微弱な魔力。そして――
「我が師」
 小さく古楽園語で呟く。ここに彼女がいると知っていたからこそ、フィラを一人で送り込む決心がついた。彼女が何か干渉してくれたのだろう、フィラの魔力は落ち着いている。
 エレベーターが最下層について扉が開いた。僅かな緊張を覚えながらエレベーターホールに足を踏み出す。天井に設置された設備から降り注ぐ魔力光の下で蹲っていた竜が、ゆっくりと首を持ち上げた。その腹にもたれかかるようにして、フィラが目を閉じている。無事だとわかっているのに、何かに背を押されるように駆け寄っていた。ぐったりと力の抜けたその身体を抱き起こす。頬や手についた傷を跡が残らないように治癒しながら、注意深く魔力を精査した。やはりリラの魔力は封じられている。封印が緩む前のように、もうどう頑張ってみてもリラの魔力がそこにあるとは感じられなかった。
「私が封印、直したの」
 治癒が終わったところでタイミングを見計らったようにかけられた声に顔を上げる。古楽園語の古風な響きを懐かしく思いながら、竜の背に腰掛けるように姿を現したランを見上げた。
「カルマの干渉で封印が緩んでいたけど、本当はまだ解けてはいけなかった。その子にはまだ扱えないから」
 そうだろうなと思う。さっきの転移も、ジュリアンが制御していなければきっと暴走していただろう。
「我が師」
 呼び慣れた敬称で呼びかけると、ランは微かに苦笑した。
「ランで良い。私があなたに教えられること、もうないから」
「彼女が光の巫女だと、あなたは知っていたのか」
 ランは静かに目を伏せて首を横に振る。
「ううん。知らない、ようにしていた。私が知るということは、カルマも知るということだから。たぶん、ウィンドは知ってたけど」
「ウィンドは……何故……」
 知っていたなら、フィラの身に危険が迫ることもわかっていたはずだ。ウィンドの行動はジュリアンにも読めないことが多いが、フィラの保護を求めるくらいの動きはあっても良かったのではないかと思える。
「時を、待っていたんだと思う」
「時……?」
「そう。その子が選ぶ時を」
「選ぶ?」
 思わずフィラの寝顔を見下ろしていた。こみ上げてくるのは苦い感情の波だ。
 光の巫女の力を引き継ぐと決めたのは、もしかしたら彼女の意志だったのかもしれない。でもその力を引き継ぎ、記憶を失った後の彼女には選択肢などなかったはずだ。魔女とリラ教会とジュリアン自身の都合に翻弄されながら、何を選ぶことが出来たというのだろう。この後も、選択肢など与えてやれないのに。
「大丈夫」
 訝しげに顔を上げたジュリアンに、ランは静かに微笑んだ。
「時は来る。封印も解ける。いつか、きっと」
 ふっとランの気配が遠ざかるのを感じる。
「待ってくれ。封印解除の条件は、フィラが魔力を制御できるようになることじゃないのか?」
 その姿を薄れさせながら、ランはジュリアンに幼子を見守るような視線を向けた。
「そう。それも条件の一つ。だから、教えてあげて。魔力の使い方。私が、あなたにそうしたように」
 ランの姿と魔力がかき消えるのを見送って、ジュリアンは一つため息を吐く。結局、出来ることは変わらないらしい。
「フィラ」
 軽く覚醒の魔術をかけてから呼びかけると、フィラはうっすらと瞳を開いた。茫洋とした瞳が何回か瞬きを繰り返す内に輝きを取り戻す。
「あ、あれ?」
 身を起こしたフィラは慌てたように右手を開き、次いで周囲をきょろきょろと見回した。
「寝惚けてるのか?」
 突然檻から放り出された小動物のような行動に呆れて呼びかけると、フィラはようやくこちらを見る。
「団長……私、間に合ったんですか……?」
 答えがわかっていても確認せずにはいられないというような、切羽詰まった瞳だった。
「そうでなければ、俺はここにいない」
 存在を確かめるように、フィラの手が団服の袖を掴む。俯いてしまったフィラの震えるその背中に手を当てながら、「大丈夫だ」と囁いた。
「大丈夫だ。カルマはもう去った。全員無事だ」
 正確にはランティスが負傷しているのだが、それを言う気にはなれなかった。
 何度も頷きながら、フィラは自分を落ち着かせるように深呼吸を繰り返す。他に頼るものなどないというように縋り付かれながら、ジュリアンは不思議な気分を味わっていた。フィラはカルマがジュリアンに何と呼びかけたのか聞いている。魔女の言うことだと思って気にしていないのだろうか。それとも。
「怖くないのか?」
 フィラの震えが収まった頃、ふとそんな疑問を零していた。
「え……何が、ですか?」
「俺のことだ」
 顔を上げたフィラが、不思議そうにジュリアンの瞳を覗き込む。
「それ、昨日も話したじゃないですか」
「状況が違うだろ。魔女の話は聞いていたはずだ」
 問い返しながら、何故こんなことを知りたがっているのかと自分で自分が不思議に思えた。
「聞いてましたけど、でも……団長の得体が知れないのなんて今に始まった話じゃないですし」
 迷うように視線を逸らしたフィラは、そこで初めて自分が縋り付いてしまっていたことに気付いたらしく、僅かに頬を染めながらそろそろと自分の手を引っ込める。そこまで最初から得体が知れなかったのかと思うと複雑だったが、畏怖も恐怖も感じさせない反応にジュリアンは何だか妙に気が抜けたような感覚に陥っていた。
「言っておくが、俺は人間だからな」
 そんなことをこんなに軽く誰かに言ったのは、生まれて初めてな気がする。
「そうなんですか?」
 そしてそれをうさんくさがられながら、怖がる素振りを見せられないのも。
「ああ。俺の母はセレスティーヌ・レイ一人だけだ」
 今までほとんど口に出した記憶もない母親の名を告げながら、ゆっくりと立ち上がる。名前を言ったところでフィラにわかるわけもない。自分で確認したかっただけだ。もうすっかり落ち着きを取り戻したらしいフィラは、つられるように立ち上がりながら「はぁ」と曖昧に頷いた。
 ジュリアンはずっと黙って見守っていた闇の竜に向き直り、無言で感謝の意を伝える。竜は自分に出来ることがあるならいつでも協力する、とその意志を伝えてくる。その気持ちに甘えるように、もうしばらく水の神器を預かっていて欲しいと頼んだ。取り戻したとはいえ、水の神器がカルマの支配下にあることは変わらない。対処方法はあるが、それには光王庁の許可が必要だった。リーヴェ・ルーヴが了承の意を伝えてくるのにまた感謝を返し、一度騎士の礼を取ってからエレベーターへ向かう。
「ありがとうございました」
 フィラも竜に向かって頭を下げ、それからジュリアンを追いかけてきた。

 エレベーターで上がる間、フィラは自分の魔力を探って眉根を寄せていた。さっきは確かに感じられたリラの魔力が、今はどこにも見当たらない。触れることが出来たのは火事場の馬鹿力だったのだろうか。
「リラの魔力なら、また封印された。今は使うことも感知することも出来ないはずだ」
 奥の壁により掛かって両腕を組んでいたジュリアンが、視線だけをこちらに向けて言う。
「元に戻っちゃった、ってことですか?」
「そういうことだ。お前が魔力を制御できるようになるまでは、自然に封印が解けることはないだろう」
「じゃあ……練習しないと、ですね」
「そうだな」
 そんな会話を交わしている内に、エレベーターは地下一階に到着していた。ジュリアンの背中を追って螺旋階段を上り、崩れかけた観測ドームに出る。地上部だけを見ると廃墟にしか見えないのに、地下ではエレベーターがまだ動いているのが不思議だった。
 観測塔の脇に止められていたブルーグレーの高級車は、ジュリアンが近付くと自動的にロックを解除してドアを開く。同時に助手席から飛び出してきた白い塊が、フィラの腕の中に飛び込んできた。
「フィラ!」
 ティナの小さな身体を受け止めてフィラは微笑む。
「良かった。無事だったんだね」
「うん……フィラも」
 頬をすり寄せてくるティナを抱きしめながら、さっきジュリアンに「大丈夫だ」と言われたときに感じた安堵がより深くなっていくのを感じていた。柔らかな子猫の感触が、全部終わったのだと教えてくれているような気がする。
「あ、そうだ、フィラ」
「うん?」
 ティナはフィラの腕の中で器用にしっぽを動かしてジュリアンを指した。
「僕、あいつとの契約、続行することになったから」
「へっ、そうなの?」
 ジュリアンはともかく、ティナの方がそれを承諾するとは思えなくてフィラは戸惑う。
「ああ。誰とも契約していない神を光の巫女に付けておくわけにはいかないからな」
 答えたのはジュリアンだった。
「契約主があいつってのは気に入らないけど、フィラの側にいるためだから。我慢するよ」
「……ありがとう」
 一つの山を越えて、ほっとしながらもこれからどうなるのか不安でたまらない。そんな中でティナが側にいてくれるという事実は、とても心強いものだった。
「団長も、ありがとうございます」
 微笑んだフィラから、ジュリアンは視線を逸らす。
「いや……その方が、こちらも都合が良いからな」
 そう言われても感謝の気持ちは薄らがなかった。側にいれば良いと言ってくれた。ティナが側にいられるようにしてくれた。例えそれが政略上必要なことだったのだとしても、フィラに居場所と安らぎを与えてくれたことに変わりはないのだから。