第六話 町を出る日
6-1 エセルとモニカ
朝食にジュリアンは現れなかった。食べ終わったランティスが一人分の食事を持っていったので食いっぱぐれるということはないだろうが、昨日の疲労困憊した様子を思い出すと少し心配だった。
朝食の片付けが終わった後、フィラは夜中に戻ってきたらしいフェイルに手伝って欲しい仕事があると言われて、団長執務室の近くにある事務室へ連れて行かれた。
「あれ、今日はフィアさんが内勤?」
「やったー! 早く帰れる!」
フェイルに連れられてきたフィラを見て、事務室にいた二人の女性僧兵が嬉しそうに声を上げる。一人は青縁眼鏡に短い黒髪の女性で、もう一人は赤縁眼鏡にふわふわの長い茶色の髪の女性だった。事務室の中には、五つのデスクが向かい合わせに並べられていて、それぞれ積層モニターを備えた端末が置かれている。二人の女性はそのうちの二つのデスクに並んで座っていた。
「そうは参りませんよ。残念ながらフィアさんは別の任務で出ております。こちらはフィアさんの双子の姉のフィラ・ラピズラリさんです。二年前から記憶がなく、その後はユリンで暮らしておりますので、端末操作は覚束ないかと思われますが、猫の手も借りたい状況でしたのでね」
フェイルが真意の読めない微笑を浮かべて二人を牽制する。
「いや全然良いっす、リサさんじゃなきゃもう誰でも」
「新人だと思えば良いんでしょう、リサさんに比べればまったく問題ありません」
赤縁眼鏡と青縁眼鏡がそれぞれ何やら情け容赦のないことを言っている。リサは一体この二人の前で何をやらかしたのだろう。考えていたら、二人の僧兵はいきなり立ち上がった。
「ていうか新人だったら良かったのにー!」
「後輩欲しいよ〜!」
「申し訳ありませんね。予算の関係で」
手を取り合って嘆く二人に、フェイルは慣れた様子で首を振りながら奥の席に着く。
「わかってますぅ、予算管理私なんで!」
赤縁眼鏡の僧兵がフェイルに向き直ったところで、事務室の扉がノックされた。
「失礼する」
その声が聞こえた瞬間、二人の僧兵はぴりっとした緊張感を纏って席に着き、端末を操作し始める。誰かと間違えようもないくらい聞き覚えのある声だったので、フィラは立ったままジュリアンが入ってくるのを迎えた。
「団長。フィラさんへの指示、よろしくお願いします」
「ああ」
ジュリアンはフェイルに軽く頷いて、フィラの前の席に座る。
「あの、大丈夫ですか?」
ジュリアンが端末の電源を入れている間に、思わず問いかけていた。
「何がだ?」
「昨日ずいぶんお疲れだったみたいなので……」
こちらを見上げた青い瞳に、視線だけで座れと指示されて、フィラは隣の席におずおずと腰掛ける。
「ああ。問題ない。よく眠れたからな。おかげさまで」
「ど、どういたしまして……?」
思い当たる節が『調律』しかなかったせいで、ついでに余計なことまで思い出してしまって、フィラは頬が熱くなるのを感じながら視線を逸らした。
「何で疑問形なんだ」
言いながら端末に向き直って何か作業を始めたジュリアンに、僧兵二人が何か緊張と好奇心がない交ぜになった視線を送っている。ジュリアンはその視線を一顧だにすることなく、作業に集中していた。複数の積層モニターが次々に浮かび上がり、表やグラフがモニターの間を飛び交い、見る間に一つの文書を形作っていく。正直、何をやっているのかさっぱりわからなかった。
五分ほどでジュリアンは手を止め、作製した文書が表示されているモニターをフィラの方へ押しやった。
「この手順に従ってデータの集計とグラフ化を頼む」
「は、はい」
一手順ごとに画面遷移と注意事項が効率よくまとめられた手順書は、ぱっと見ただけでもとても即興で作ったようには見えないのだが、実際今目の前で作られたものなのだから何とも言えない気分になる。
「わからないところがあったらその都度そこの二人に聞くと良い」
視線を向けられた二人の僧兵が、同時にびくりと背筋を伸ばした。
「フェイル、後は頼む」
「かしこまりました。団長は今日は討伐へ?」
立ち上がったジュリアンに、フェイルは慇懃に頷いてみせる。
「ああ」
「魔力の回復は間に合っていらっしゃいますか」
フェイルの細い瞳に、少しだけ気遣わしげな表情が見えた気がした。
「問題ない。昨夜は調律してから睡眠を取ったから、充分回復している」
ジュリアンはゆっくりと一同を見渡し、穏やかな隙のない笑顔を作る。
「では、私はこれで」
「お疲れさまです」
僧兵二人の敬礼に見送られながら、ジュリアンは事務室から出て行った。
扉が閉まってからきっちり三秒後。
「はー……緊張したー」
赤縁眼鏡の僧兵がデスクに突っ伏す。
「いやでも……今日はなんか……雰囲気……違った……?」
背もたれに脱力したように体重を預けながら、青縁眼鏡の僧兵の視線はフィラの方へ向けられていた。
「フィラさんは……聖騎士、じゃないですよね? 僧兵?」
「いえ、私は……」
「フィラさんは団長の婚約者でいらっしゃいますよ」
言い淀んだフィラの後を、フェイルが笑顔で引き取った。言ってしまって良いのだろうかと、フィラはぎょっとする。
「はぁ!?」
「フェイルさん、表情一つ変えずに冗談言うのやめてくださいよ」
同時に前後に身体を起こした二人は、まったく同じ角度でフェイルに食ってかかった。
「冗談ではございませんよ。何なら後で団長に直接聞いてみては」
「無理っす」
赤縁眼鏡の方が即答で遮る。その様子から、二人がフェイルとは気安い関係を築いていることが伺えた。
「え……本当?」
青縁眼鏡の方が、フレームを押し上げながら怖々と尋ねてくる。
「本当、です」
我ながら信憑性がないと思いつつも、事実なのだから仕方ないと腹をくくってフィラは頷いた。
「フィラさんて……フィアさんと同い年だったら十六、だよね?」
「はい」
「若いな〜。うちらより十歳下か……団長いくつだっけ?」
「二十一歳だね。つまり、うちらと団長の年齢差イコール団長とフィラさんの年齢差」
小首を傾げた赤縁眼鏡と目を見合わせてから、改めて青縁眼鏡はフィラに視線をやった。
「……ありだな」
「完全に負けてるもんね、うちら。団長に」
「だよね」
フィラに向けられていた視線が、手元の手順書に下りていく。
「……五分くらいで作ってたよね、それ。ちょっ……と見せてもらっても良い?」
「え? はい、どうぞ」
複雑そうな表情の二人に向かってモニターを押し出すと、二人は同時にモニターを覗き込んで黙り込んだ。
「うわー……」
ややあってから、青縁眼鏡の方が引きつった表情で呟く。
「無理無理無理」
赤縁眼鏡も同じような表情で「無理」という言葉をひたすら繰り返した。
「ないわー。あれが年下とかないわー」
「あれを目標にするのはやめよう! 不毛すぎる!」
あれってやっぱりジュリアンのことだろうか。そこはかとないぞんざいさと尊敬の念が入り交じった感想からは、ジュリアンに対する好意も感じられて、フィラはほっとする。何だか妙に恐れられているみたいだが、嫌われてはいないようだ。
「持って生まれたものってあるよね、絶対。あ、ありがとう」
「いえ……」
フィラにモニターを押し戻しながら、青縁眼鏡の方がフェイルに向かって首を傾げる。
「フェイルさん、ところで自己紹介ってした方が良いですか?」
「ああ、そうですね。お願いします」
頷いたフェイルに、僧兵二人は立ち上がってフィラに向き直った。
「エセル・ベックフォードです」
青縁眼鏡の方がフレームを押し上げながら言う。
「モニカ・チェンバーズです」
赤縁眼鏡の僧兵も小首を傾げて名乗った。
「フィラ・ラピズラリです。よろしくお願いします」
フィラも慌てて立ち上がり、深々と頭を下げる。
「こちらこそよろしく」
「昼休みに教えてね。馴れ初めとか」
エセルとモニカは親しみの籠もった笑みをフィラに向けて着席した。
「さ、仕事を始めますよ。三日分の通常業務の他、今回の騒動に関する仕事も大量に舞い込んでいますから、迅速にお願いいたします」
「いえっさー」
フェイルにおどけた返事をした二人は、しかしさっと仕事モードに切り替えて端末に向かう。
「あ、わかんないとこあったら聞いてねー。何でも答えるから」
戸惑いながら手順書に視線を落としたフィラに、モニカが笑いかけた。
手順書が懇切丁寧だったおかげで、端末の基本的な操作以外に尋ねることもなく、午前中が終了した。エセルとモニカが食堂に昼食を取りに行っている間、フィラはフェイルと二人で事務室に残された。
「今日こちらで昼食を取ることにした理由は、あの二人に貴方のことを説明したかったからです」
フェイルは普段から細い瞳をさらに細めて、真意の見えない笑みを浮かべる。
「あの二人は若いですが、リラ教会の最高機密に触れられる立場にあります。フィラさんが光の巫女であることも、彼女たちには話して良いことになっております。ただ……」
物思わしげに言葉を切ったフェイルに、フィラは首を傾げた。
「……ただ、貴方が四日前に礼拝堂に転移してくる前に、団長が貴方の転移能力について知っていたことは伏せておいてください。それ以外のことについては、話して構いません。光王庁の関係者にも、そのように」
「は、はい」
戸惑いながら頷いたフィラに、フェイルはにこやかに頷いてみせる。
「ご心配には及びません。基本的には説明は私か団長がいたします。フィラさんは聞かれたことに答えるときだけ、気をつけていただければ」
「がんばります……」
「貴方が礼拝堂に転移してくるまで、団長は転移能力についてご存知なかった。その一点のみ気をつけていただければ大丈夫ですから」
もう一度念を押されたところで、僧兵二人が戻ってきた。
「お待たせ〜! 今日のメニューは人工肉のステーキですよー。ワオ、豪勢! 合成だけに!」
「そのギャグつまんない」
よくわからない冗談を言いながらフェイルの前に持ってきたトレイを置いたモニカに、エセルが冷静に突っ込みを入れる。
「はい、フィラさんの分」
「ありがとうございます」
エセルはフィラの前にトレイを置くと、自分の席に戻った。全員が席に着いたのを見て、フェイルが両手を組む。フェイルが短く祈りを唱える間、二人の僧兵も両手を組んで瞳を閉じていた。フィラも慌ててそれに倣う。
「それでは、いただきましょう」
フェイルの言葉を合図に、おのおの食事を開始した。
「で、フェイルさん。ずっと気になってたこと、話してもらえるんでしょうか?」
一口食べた後で、待ち構えていたようにエセルがフェイルに水を向ける。
「団長とフィラさんのご関係について、ですね?」
忙しなく頷く二人の僧兵に、フェイルは相変わらず真意の見えない笑みを浮かべた。
「どこからお話しいたしましょうか」
「最初からお願いします!」
即座にモニカが答える。
「そうですね……フィラさんがピアノの練習のために礼拝堂に通っていたことはご存知だと思います。お二人が知り合ったのはその頃ですね。とはいえ、ユリンの住民とは我々は深く関わることは出来ませんから、状況が動いたのは四日前です」
「神域との交錯の前日ですね」
「その通りです」
エセルの確認にフェイルは静かに頷いた。
「四日前の深夜、フィラさんは礼拝堂に転移してきました。転移の魔術を事前の準備なしに扱った例はほとんど確認されておりません。また、フィラさんの証言から転移の直前にカルマの干渉を受けた可能性が浮上しました」
「うわ……」
僧兵二人は恐ろしそうに息を呑む。
「カルマに狙われているとなればもちろん、我々で保護しなければなりません。転移出来る理由も、カルマに狙われている理由も調べる必要がありました。その対処をしているうちに、神域との交錯があったのです」
「あれは大変でしたねー」
「フェイルさん私たち見捨ててさっさと避難しちゃうんだもん」
「私は皆さんの避難を支援しなければなりませんでしたから」
僧兵二人の冷たい視線を、フェイルは笑顔で受け流した。
「神域との交錯の間、フィラさんは団長と行動を共にしていました。その間のことは詳しく聞いてはおりませんが、交錯が終わった直後、お二人はカルマに襲撃されたそうです」
よく無事だったなという表情を、二人は同時に浮かべる。
「結局、カルマはその場では団長に敵わないと見て、ダストさんを暴走させて撤退しました。それでユリン結界内へのカルマの侵入が確かなものとなりましたので、我々はカルマの再襲撃に備えることになったわけです」
「ユリンの全住民避難なんて、カルマ襲撃じゃなきゃ考えられない事態ですよね」
「ええ。力の大半を失っているとはいえ、一度は聖騎士団を壊滅させている荒神ですから」
エセルの言葉に深く頷いたフェイルは、一口水を飲んでから話を続けた。
「私が援軍を求めに行き、皆さんが眠っている間に、カルマとの対決は終わりました。その戦いの中でフィラさんが発現された力が光の巫女のものだったので、団長がプロポーズしたと。流れとしてはそんな感じでございますね」
「光の……」
「巫女……?」
エセルとモニカは顔を見合わせて呆然と呟く。
「ええ、恐らく、間違いはございません」
「そりゃ、カルマが狙ってるんだったら……いや、でも」
エセルに戸惑ったように見つめられて、フィラは落ち着かない気分で身じろぎした。
「先代の巫女とは……知り合いだったんですか?」
「わかりません」
モニカの疑問にフィラが答える前に、フェイルが即答する。
「それはこれから、光王庁が調査するでしょう。もっとも、神域との交錯で遮断された通信線がまだ回復しておりませんので、このように機密レベルの高い情報はまだ報告できておりませんが」
「魔術使った無線通信だと傍受される可能性がありますもんね……」
「ええ、ですから、機密情報専用回線が回復するまでに報告書を作成する必要があるのです。水の神器が失われていることを知っている者向け、それに加えて光の巫女が行方不明であることを知っている者向け、両方を知らない者向け。その三パターンですね」
「うわっ、仕事の話だった!」
二人は同時にすっぱい表情を浮かべた。
「それにしても……」
エセルが眼鏡のフレームを押し上げながらフィラを見つめる。
「政略結婚なんですね」
「フィラさん、大丈夫?」
「え……?」
いたわるような眼差しを向けられて、フィラは戸惑った。
「だって今時政略結婚て」
「ちょっとがっかりしました。団長に」
二人の中でジュリアンの株ががた落ちしているらしいことに気付いて、フィラは慌てふためいた。
「いや、でも、私も他に、行き場がなくて。それに、団長は……」
思い切り挙動不審になってジュリアンを弁護しようとするフィラに、二人は妙に暖かい微笑を向ける。
「何かあったら相談してね? もし不埒な真似しやがったら例え団長であろうともぶん殴ってやるから」
「いや、それは無理……地味な嫌がらせがせいぜいでしょ」
拳を握りしめるモニカと、いさめているふりをして不穏なことを言ってのけるエセルを交互に見つめながら、フィラは呆然と口の中で「不埒」という言葉を繰り返した。
何かジュリアンにものすごく謝らなければいけない状況のような気がした。