第六話 町を出る日

 6-4 景気づけにプリン

「フィラちゃんおはよー」
 フィラが着替え終わったところで目を覚ましたリサが、眠い目をこすりながら挨拶してくる。昨夜戻ってきたときにはリサはもう眠っていたので言葉を交わしていなかったのだが、もう記憶を取り戻しているようだ。
「昨日さ〜……何でいなかったんだっけ?」
「リサさんが記憶を失ってしまったので、戻るまで団長と一緒にいたんですよ」
「あー……そっか。ごめん。そういやなんか寝る前にカイ君にえっらい怒られた気がするわ」
 気がする、で済ませられてしまったらカイも報われないだろうなとフィラは何だかほろりとした心持ちになる。
「でもさー、私が寝るまで帰ってこなかったよね?」
「あ……それは、その、踊る小豚亭に連れて行ってもらっていたので……」
 カイから逃げたことは伏せておいた方が良さそうだと思って、とっさにそんな風に話していた。
「それ、デート?」
「は? はい?」
 思わず二回聞き返してしまった。
「デート?」
「いや、まさか。踊る小豚亭に行って、ココア飲んでピアノ弾いて別れを惜しんで書き置きして帰ってきただけですよ」
「その後は?」
「その後って……普通に寝ましたけど」
「何だつまらん。あの甲斐性なしめ」
 よくわからない、というか余り意味を理解したくない罵倒を飛ばして、リサは大きく伸びをした。
「んー、ま、いっか。で、フィラちゃん今日の予定は?」
「朝食の後、ランティスさんに呼ばれてるんです。何か……礼拝堂に来てくれって」
 さっき、リサが起きる前に様子を見に来たランティスに言われたことをそのまま伝える。
「お、じゃあ朝飯食ったらリサさんが送ってってあげよう」
「お願いします」
 それからフィラはリサが団服から団服に着替えるのを待って、ジェフを手伝うために食堂へ向かった。

 朝食後、礼拝堂でフィラを迎えたのは何故か引きつった表情のランティスと、ランティスの肩の上で毛を逆立てているティナと、見たことのない壮年の女性だった。赤毛をきっちりと結い上げて、くるぶしまで隠れる黒いドレスに身を包んだ上品そうな女性だ。
「ランティスさん、そちらの方は」
「あんたがフィラかい!?」
 ランティスが口を開くどころかフィラが尋ね終わる前に、赤毛の女性は大音声で遮った。外見を裏切る乱暴な口調と声の大きさにびっくりしてランティスを見ると、彼は非常にすっぱい表情をしている。
「返事は!?」
「は、はい! 私がフィラです!」
 思わず背筋を伸ばしたフィラに、赤毛の女性は艶然と微笑んで見せた。
「そうかい。あたしはアメリ・ローウェル。ピアノの教師だ。今日からユリンに住むことになってたんだが、予定が変わってたらしくてね。ユリン市街地に入れるようになるまで、あんたのピアノを見ることになったんだよ」
 何も聞いていないフィラは救いを求めるようにランティスを見る。ランティスは女性の背後にそうっと回り、「後で話すからとりあえず逆らうな」と空中に魔術で文字を表示させた。それだけでランティスとアメリの力関係がわかるというものだ。
「さあ、さっそく始めるよ! 今練習してる曲はどれだい!?」
 アメリがまた大きな声を出したので、フィラはびくっと肩を跳ねさせた。
「え、えと、ラヴェルのソナチネです」
「よし、じゃあまずは通して弾いてもらおうか」
 偉そうに腕を組むアメリの後ろで、ランティスがティナを肩から下ろしながら、「昼前には迎えに来る」という文字を空中に描いている。
 フィラは二人に向けて曖昧に頷き、パイプオルガンの演奏台脇にある棚へ楽譜を取りに行った。

「あら、ずいぶんスパルタだったみたいね」
 フェイルと今後のことについて話さなければならないというアメリと別れて昼食の手伝いに現れたフィラに、ジェフはそう言って労るような視線を向けた。どうやらちょっと疲れた顔をしてしまっていたらしい。
「アタシも朝会ったけど、キョーレツな御仁だったじゃない?」
 強烈さで言えばジェフも結構なものなのだが、もちろんそんなことを本人に向かって言えるわけがない。
「大丈夫だったの? なんか疲れてるみたいだけど」
「大丈夫です。ちょっと声が大きすぎて無駄に緊張しちゃったんですけど、もう慣れましたから」
 フィラはジェフに微笑みかけて厨房の補助に入る。
「今日は最初だけで良いわよ。ランティスがあの人が来る前に食べてフェイルさんとこに連れてくって言ってたから」
 どうやらランティスは本格的にアメリのことが苦手らしい。フィラは乾いた笑みを浮かべながら、下ごしらえを手伝った。
 それからすぐにリサとカイが来たので、フィラは厨房を追い出され、ランティスとティナも交えた三人と一匹で一緒に昼食を食べることになった。
「急に悪かった」
 席に着いた途端、ランティスが深々と頭を下げる。
「こっちもあの人が今日来るなんて思ってなかったんだよ」
「えっと、もしかして、前に団長が言っていた第三都市の音楽学校でピアノの教師をしていた方って……」
 数日前、ジュリアンがピアノ教師がユリンに引っ越してくることになったと話していたのを、フィラは午前中にピアノを教えてもらいながら思い出していた。
「ああ、よく覚えてたな。あれからいろいろありすぎたから忘れられてると思ってたぜ」
 確かに、すっかり忘れていた。ピアノ教師というキーワードがなければ思い出せなかっただろう。
「そう。まあ、確かに今日来る予定にはなってたんだよ。でもほら、色々あっただろ? だから落ち着くまで来るなって連絡してたはずなんだが……」
 ランティスは頭を抱えて深いため息をついた。
「あのマダムはメールも見ず、俺らが想定してた列車に乗ることもクスファムに寄ることもなく、直接自分の車で来ちまったんだ。夜明け頃に哨戒してたダストが見つけて保護したんだけどよ……人の話聞かねえよなあ、あの人……」
 否定できなかった。午前中も、ピアノと音楽に関する話は聞いてくれたけれど、それ以外の話は性急に遮られてしまうことが多かった。ランティスがげっそりするのも、わからなくはない。
「一応ユリンを囲む結界は修復できたし……つーか、実は前より立派になったし、結界内の天魔もだいたい駆逐できたから、嬢ちゃんの護衛もティナだけで良いかって話になってさ。んで、あのマダムに城内うろうろされちゃ困るってんで、とりあえず対応が決まるまで嬢ちゃんのピアノ見てもらおうかって思ったんだけど……嬢ちゃんの名前出した途端俄然やる気になっちまって……」
 その後はろくに話を聞いてくれなかったのだという。
「まあ、午前中である程度満足してくれたみたいだから、フェイルのおっさんの話は聞いてくれるだろ。滞在してもらう部屋も決まったから、午後はそっちで大人しくしといてもらうわ。嬢ちゃん、午後はまたフェイルの手伝いを頼む」
「わかりました」
 午前中、アメリにはもっと練習しろと怒られたのだが、今はこっちが優先だろう。
「フェイルが助かったって言ってたよ〜。慣れてくれば作業も早くなりそうだし、仕事が正確で大変よろしいって」
「リサ、お前も見習うべきだ」
「うげっ」
 カイに横から言われて、リサの表情がものすごく嫌そうに歪んだ。
「お前の書類は不備が多すぎる」
 いつも通りの生真面目な調子のカイをそっと伺って、フィラはもう大丈夫なのかな、と考える。明日になればカイの頭も冷えると、ジュリアンは言っていた。今の様子を見る限りでは、いつもの調子を取り戻しているようだ。正直な所、カイの頭に血が上った所なんて見たことがないから想像出来ないのだけれど。
「ま、エセルとモニカも優秀だし、手伝い入ったら何とかなるっしょ。こっちもカルマ襲撃の後始末は今日で一段落つくだろうし。夜には報告書提出できるのかな?」
「そういう予定だと聞いている」
 何かを誤魔化すように小首を傾げるリサに、カイが静かに頷いた。やっぱり大丈夫みたいだ。二人のそのやりとりを見て、フィラは少しほっとする。
「光王庁の連中きっと今日は徹夜だね。明日の朝には光王庁から機密情報専用回線使って呼び出しかかりそう」
「かかるだろうなあ」
 ランティスのため息を合図にしたように、三人の視線がフィラに集まった。
「な、何ですか……?」
「嬢ちゃん、明日は、光王猊下と話してもらうかもしれねえ」
「覚悟は決めておいてください」
「大丈夫、基本的には気の良い爺さんだから」
 ランティスとカイとリサに口々に言われて、フィラはたじろいだ。
「……大変だね」
 フィラの隣の席で丸くなっていたティナが、ぽつりと言う。

 そうして午後は昨日とほぼ同じように事務室で仕事を手伝い、フェイルたちと夕食を食べ、夜はリサと浴場へ行って、その後はリサがまた記憶を失うこともなく、平穏無事に寝ることが出来た。
 翌朝、また厨房で手伝いをしていたフィラは、カウンターに立っていたジェフに呼ばれて顔を上げた。
「こっちいらっしゃい。団長がお呼びよ」
 言われるままにカウンターに顔を出すと、ジュリアンが難しい顔をして立っていた。
「団長、おはようございます」
 とりあえずにこやかに挨拶をしてみたフィラに、ジュリアンは眉間の皺を消して「おはよう」と首肯を返す。
「何かあったんですか?」
「ああ。まあ、予想通りではあるんだが、光王がお前に話を聞きたいと言ってきた。朝食後、俺の執務室に来てくれ」
「わ、わかりました……」
 顔と声が引きつった。覚悟しておけとは言われていたが、光王と言えばリラ教会のトップだ。緊張するなと言う方が無理がある。
「あと、恐らく俺の父とも話してもらうことになる」
 一瞬返事を忘れて呆然としたフィラに、ジュリアンは軽く頭を下げた。
「よろしく頼む」
「は、い。よろしくお願いします」
 どうにかぎくしゃくと返事を絞り出す。ジュリアンは何だか疲れた表情で朝食を受け取り、カウンターを後にした。
「大変そうだけど、頑張ってね。大丈夫よ、団長が一緒なら」
 自分でもそうとわかるくらい不安な面持ちでその背中を見送ったフィラに、ジェフが労るように声をかけてくれる。
「こっちはもう大丈夫だから、団長と一緒にご飯食べたら? 景気づけにプリンもつけちゃうわよ!」
「え、で、でも」
「いいからいいから」
 急な展開に慌てるフィラは、ジェフに背中を押されて厨房を追い出されてしまった。
 しかし、一緒に食べろ、と言われても困る。フィラは押しつけられたトレイを手に、呆然と食堂の中を見回した。残念なことに、他に知っている顔はない。フィラをここまで送ってきたリサも、もう食べ終わったのか、ジュリアンに護衛を引き継いでどこかへ行ってしまったようだった。朝早くジュリアンに呼び出されたティナの姿も見えない。ジュリアンは一人で隅のテーブル席に座り、黙々と食べている。
(仕方ない、仕方ない)
 自分に言い聞かせ、覚悟を決めてジュリアンの前に立った。
「あの……」
「ああ、座れ」
 どう切り出したものか迷っているうちに、先にジュリアンに指示を出されてしまう。フィラはありがたくジュリアンの正面に座らせてもらうことにした。
「厨房の手伝いはもう良いのか」
 トレイをテーブルに置き、椅子を引いている間にそんな疑問が飛んでくる。
「追い出されました……団長と一緒に食べろって。あの、これ、ジェフさんからです」
 ジェフに二つ押しつけられたプリンの皿の一つをジュリアンのトレイに移すと、ジュリアンは明らかに困惑した表情でそれを見下ろした。
「何故」
「景気づけ、だそうです」
「プリンが景気づけになるのか?」
「さ、さあ……?」
 何とも言えない沈黙の中で、しばしジュリアンと見つめ合う。
「……とりあえず、食べたら良いんじゃないか」
「そ、そうですね。いただきます」
 祈りの言葉は知らないが、なんとなく食事に向かって手を合わせてから食べ始めた。ジュリアンもそれを見て食事を再開する。
 この場でするような話題も見つからなくて、黙々と食べ続けていると、途中で食堂に入ってきたエセルとモニカがものすごく楽しそうに手を振ってきた。知り合いなのだから一緒に食べてくれるかと思ったのに、二人はぎりぎり会話が聞こえそうなくらい離れた位置に席を取ってしまう。
「昨日はどうだったんだ? ピアノ」
 先に食べ終わったジュリアンが、プリンに手をつけながら尋ねてきた。
「すごく勉強になりました。何度か怒鳴られましたけど」
「怒鳴られたのか。その割に平然として見えるけどな」
 ジュリアンの表情にちらりと面白がっているような色が浮かぶ。
「怒られて当然の出来だったんですよ。練習不足でしたから」
「ここ数日の状況では仕方ないだろう」
 それが原因ではないことは自分でよくわかっていたので、フィラはゆっくりと首を横に振った。
「いえ、その前からです。二年前の方がマシだったんじゃないかって。私の演奏、聴いたことあったみたいで」
「そうか……」
 ジュリアンは何故かまた難しい顔に戻って、そこに哲学の答えがあるとでも言うように黙ってプリンを口に運ぶ。
「中央省庁区に行ったら、そこでも練習できるように環境を整えよう」
 長い沈黙の後で、ジュリアンはぼそりとそう言った。
「え……で、でも……」
 そんなことをしている暇が、光の巫女にはあるのだろうか。いったいどういう扱いになるのかさっぱりわからないフィラには、中央省庁区での生活も見えてこない。
「罪滅ぼしだとでも思っておけ。お前からピアノまで取り上げたくない」
「それは……その、ありがとうございます」
 真剣な表情で見つめられて、顔が火照るのを感じる。視界の端でエセルとモニカがにやにやしているのが見えてしまって、さらに頬が熱くなった。ジュリアンを見ていられなくなって、慌てて視線を落とし、食事に集中する。
 それからフィラが食べ終わるまで、ジュリアンは黙って待っていてくれた。