第三話 狂った旋律

 3-4 目覚め

「やれやれ、酷い有様ですね……」
 魔力遮断室を見回して、フランシスはため息をついた。光王もランベールも既にこの場を辞していて、残っているのは担当の研究者と後始末に駆り出された機密を知る立場にいる職員たち、そしてフランシスとジェラルドだけだ。
「大失態ですよ。この期に及んでまた光の巫女が力を引き継ぐことなくロストしていたらと思うとぞっとします。次に発見するのはジュリアン・レイじゃなくてWRUかもしれないんですからね」
 あちこちに残った魔力の歪みが神域との交錯を呼び覚まさないように直していきながら、フランシスは父親に苦情を述べる。
「そもそも今回の実験の暴走自体、あの場にいた人間が全員巻き込まれていてもおかしくはなかった。ジュリアン・レイが立ち会っていて幸いでしたよ。誰にも収められなかったでしょう、あれは」
「魔力制御装置は働いていた。ジュリアン・レイなどいなくとも……」
 苦しげな父の言い訳を、フランシスは呆れたような視線で遮った。
「実験記録を見てから発言していただきたいですね。完全に制御装置は無効化されていました。止めたジュリアンの方も制御切ってますよ。一歩間違っていたら二人まとめて消滅《ロスト》していたところです。魔力圧世界最高記録をたたき出してますから、ギネスにでも登録してみますか?」
「ふざけたことを」
 反論する言葉にも力がない。これは父にとっても一世一代の賭だった。彼はその賭に負けたのだ。
「ふざけているのはそちらでしょう。申し開きのしようもない。実験記録は完全にジュリアン・レイが予測した中で最悪のシナリオを辿ったことを示しています。暴走させたのはこちら。暴走を命がけで鎮めたのはあちらです。光王ももう味方してはくれませんよ。ま、ほとぼりが冷めるまでは大人しくしておくべきですね。光の巫女に手は出せません。最愛の妻を殺されかけた聖騎士団団長が復讐に燃えないことを祈るばかりですよ」
 父が憎々しげに目をつり上げ、拳を握りしめるのを、フランシスはどこか哀れむような気分で見つめた。
「それにしても、ジュリアンが一瞬でも死の恐怖に躊躇していたら全員死んでいたところです。正直、俺も驚いています。まさかあそこまで迷いなく突っ込んでいくとはね。あんなに情熱的だとは思いませんでしたよ。おかげで命拾いしたわけですが。これでジュリアン・レイは命の恩人です」
 黙り込むジェラルドに、フランシスはふっと微笑む。
「俺たちだって死にかけたんですよ、お父さん。俺のことが可愛いなら、少しはジュリアンにも感謝の気持ちを持ってくださいね」
「誰が……政敵に感謝の気持ちなど……」
 頑なな言葉に軽く肩をすくめて、フランシスは出口へ歩き始める。
「アースリーゼを慰めてきます。父上はこちらの指揮をお願いしますよ」
「お前に指示されるいわれはない」
「指示じゃなくてお願いです」
 肩越しに振り返ってわざとらしい笑みを返してから、フランシスは今度こそ部屋の外へ出た。アースリーゼがいるのは控えの間だ。その部屋へ入り、ソファの上で身体を強張らせているアースリーゼの前に立つ。
「実際目にするとショックが大きいでしょう。泣いたって良いんですよ」
 ジュリアンが竜になる可能性があることは、アースリーゼも知っていたはずだ。しかし目の前でジュリアンが竜に変身したとき、彼女は恐怖で声も出ない有様だったのだ。言葉で聞くのと実際に見るのとでは違うのだろう。フランシスもその場にいたが、異形の姿と強烈すぎる魔力には恐怖しか感じなかった。
「泣かないわ」
 フランシスを見もせずに、アースリーゼは硬い声で呟く。
「怖がらないのは、私だけだと思っていたのに……」
 声に悔しさが滲んでいた。その横顔を見下ろしながら、フランシスは目を細める。
「フィラ・ラピズラリのことですか? あれは驚きでしたね」
 目覚めた瞬間目の前にいた怪物を、フィラは一瞬でジュリアンだと判断した。そうでなければ、あんなことをするわけがない。
「キスに意味はない。実質的に意味があったのはリラの魔力だけだけど……でも、キスで引き戻したように見えましたね。とてもロマンチックだ」
 泣くのを堪えるように、アースリーゼは顔をしかめた。幼い頃からずっと胸に秘めてきた想いを、今彼女は諦めようとしている。
「私には、あんなことはとてもできないわ。それにジュリアンも……あの子だけを見ていた」
「そうですね」
 あの場にいた誰もが、二人の間にある感情を理解しただろう。誰も間に入れないほどの、深い絆を。
(お節介焼く必要なかったかな)
 あの時は二人の間にあるのはもっと淡い感情だと思っていたのだが、どうやらそれどころではなかったらしい。
「わかっていたわ。あの人は私のものにはならないって」
 アースリーゼはすっと目を伏せて、苦い笑みを浮かべる。
「これで諦めがつくもの。むしろ、良かったんだわ」
 自分に言い聞かせるような口調だった。フランシスは何も言えずに、ただ彼女の頭を撫でる。文句を言われるかと思ったが、アースリーゼは素直にそれを受け入れていた。

 途中でエセルとモニカに着替えと夕食の材料を買ってくるように頼み、フィラを抱きかかえたまま聖騎士団本部奥にある自分の部屋へ入った。殺風景な部屋のベッドにフィラを横たえ、ぼんやりとその頬に触れた。まだどこか実感が遠い。
「ティナ」
 呼びかけるとすぐにヘッドボードの上に白い子猫の姿が現れる。
「落ち着いているようだが、少し様子を見ていてくれ」
「良いけど、どっか行くの?」
「着替えてくる」
 団服以外の身に着けていたものは完全に消滅していたので、シャワーを浴びて着替えてくる必要があった。ティナが頷くのを見て、部屋に併設されたシャワールームへ向かう。団服も一応形はとどめていたものの、ほぼ魔術は無効化されて使い物にならなかったので、廃棄ボックスに放り込んだ。さっとシャワーを浴び、新しい団服に着替え、予備の制御装置を左腕にはめてすぐにフィラの元へ戻る。デスクの前に置いていた椅子をベッドの側に引っ張ってきて座り込み、シーツの上に投げ出されていたフィラの手を握った。凶暴に荒れ狂っていた魔力はもう落ち着いていたけれど、まだ彼女が目を覚ます気配はない。
 フィラを失うかもしれないと思った瞬間の恐怖が、まだ胸の内に残っている。後先なんて考えられなかった。彼女以外の全てを放り出してしまっても良いとすら思った。制御を切って全ての魔力を解放したらどうなるかなんてわかっていたのに、自分で自分を止められなかった。彼女がリラの力を使って呼び戻してくれなければ、回りのものを巻き込んで消滅《ロスト》していただろう。本当に、何もかもがぎりぎりのところだった。今こうして二人で生きていられるのは、ほとんど奇跡のような偶然が重なり合ったおかげだ。
 ――早く彼女の声が聞きたい。
 その柔らかく優しい声で、名前を呼んでほしい。
 必死でそんなことを考えている自分がおかしかった。たぶんまだ、相当動揺したままなのだろう。フィラが起きるまでに気持ちを落ち着かせなければ、きっと不安にさせてしまう。
「大丈夫?」
 心配そうなティナの声に顔を上げる。
「……ああ」
 あまり大丈夫な気はしなかったが、かと言って何か問題があるわけでもない。
「僕、ちょっと出てて良いかな。魔力酔いがさ……」
 落ち着いてはいるが、封印を解き放たれた魔力はまだ強く渦巻いている。今のフィラの近くにいるのは、ティナにはきついだろう。
「ああ」
 ジュリアンが頷くと同時に、ティナはふっと姿を消した。二人きりになった部屋で、またフィラの寝顔に視線を落とす。その寝顔が穏やかであることに、少しほっとした。
 これからのことを考えなければならない。正式に光の巫女として認められた少女を、聖騎士団団長として保護していく、その方法を。
 ――けれど、今は。
 握った手に額を寄せて目を閉じた。今はまだ、何も考えられそうになかった。

 ぼんやりと目を開ける。最初に目に入ったのは、殺風景な天井だった。フォルシウス家の豪華で薄ら寒い部屋ではない。部屋は殺風景だけれど暖かくて、不思議と穏やかな気分だった。誰かが右手を握ってくれている。何度か瞬きしてようやく意識がはっきりしてきて、フィラは身じろいだ。
「起きたのか」
 静かな声がした方へ視線を巡らせると、フィラの右手を握ったままこちらを見ているジュリアンと目が合う。
「団長……?」
 呼びかけてみるけれど、ほとんど掠れて声にならなかった。名前を呼べなかったのは、その表情にどこかどきりとするような色があったからだ。
「気分はどうだ?」
 やはり静かに問いかけたジュリアンの表情はもういつも通りで、声も落ち着いたものだった。さっきのは何か目の錯覚だったのかもしれないと思いつつも、まだ胸がどきどきしている。
「何だか……寝てるのに世界が回っているような……」
 頭を少し動かしただけで酷い目眩がして、フィラは左手で目を覆った。
「魔力酔いだな。鎮めたからしばらく寝ていれば治まると思うが」
 しばらくの間じっと動かずに目眩をやり過ごして、それが収まったところでフィラはまたジュリアンに視線を向ける。
「えっと、何が……」
 最後の確かな記憶は、フォルシウス邸でジュリアンと会ったことだ。それ以降のことは何が夢で何が現実だったのか、よくわからなくなっている。
「リラの力が暴走した。……消滅《ロスト》、させてしまうところだった」
「暴走って、私、どうやって……」
 まったく何も思い出せなくて、もどかしい気分になった。記憶が欠落しているみたいだ。
「俺が鎮めた」
 淡々とした言葉だったけれど、それがそんなに簡単な話でないことはフィラにも察しがついた。思わず強くその手を握り返す。
「団長、団長は? 大丈夫なんですか?」
 半身を起こして必死に瞳を覗き込むと、なぜか気まずそうに目を逸らされた。
「……問題ない。竜化症も、進んではいない」
「良かった……」
 ほっとした途端に全身の力が抜けて、またベッドに倒れ込む。
「あの、ありがとうございます。助けていただいて」
 また目眩の発作に襲われて目を閉じながら、フィラはどうにか呟いた。
「いや……助けられたのは、俺の方だ。覚えていないのか?」
「すみません。ぼんやりとしか……あ……!」
 突然消えていた記憶が浮かび上がってきて、フィラはいてもたってもいられない焦燥にまた無理矢理目をこじ開ける。
「あの、団長、フィアは……!?」
 思い出したのは、アースリーゼにフィアが消滅《ロスト》したと告げられたことだ。けれど聞きながらどこかで、本当に消滅《ロスト》したなら教えてくれていたはずだと思っている。今、目の前にいる彼を目にしていると、フィラにショックを与えないためだけにそんな重要なことを隠すのは、彼のやり方とは違う気がして仕方がない。それが機密事項でさえなければ、彼はきっとどんなつらい真実でも教えてくれるはずだ。そしてその痛みを受け止めようとしてくれる。ユリンを離れなければならなかったとき、行き場がないと泣いてしまった自分にそうしてくれたように。
「……無事だ」
 一瞬息を呑んだジュリアンは、すぐに厳しい表情で断言した。
「もしかして、何か聞いたのか?」
「消滅《ロスト》したと報告書に書いてあったって……アースリーゼ様が……その、魔力を移し替える直前に」
 その言葉を聞いたジュリアンは、苦しげに眉根を寄せて目を伏せる。
「あれは……そのふりをしてもらっただけだ。お前に妹を亡くした演技をしてもらうわけにはいかなかったから、黙っていた。周囲には光の巫女にショックを与えないようにと伝えていたんだが……裏目に出てしまったな。悪かった。知るタイミングとしては最悪だ」
「いえ……私も、動揺しすぎてしまって……」
 リラの魔力が暴走したのは、そのせいもあったんじゃないかと思う。冷静にそれが真実ではないと見抜けなかったことが悔やまれる。そのために、たぶんジュリアンのことも命の危険にさらしてしまった。
「そんな話を聞いて動揺しない人間はいない。本当に……すまなかった」
 まだ繋いだままの手に、そっと力を込める。
「謝らないでください。私のためだって、わかってますから。もし先に知ってたら、アースリーゼ様に怪しまれるような演技しかできなかったはずです」
 それからほっとため息をついた。
「良かった……フィア、生きてるんですね」
「ああ。何かあったとき、お前と入れ替わってもらうために待機させている。そうでなければチャンスがあってもお前をユリンに戻してやれない」
「何か……?」
 呟きながら、自分は本当にユリンに戻りたいのだろうかと全然違うことを考える。どうしても今すぐに戻りたいとは思えなかった。
「お前が光の巫女の力を失うような何か、だ。今回はそうはならなかったが」
 ジュリアンの冷静な声を聞きながら、少しだけ泣きたいような気分になった。戻りたくないのは、ジュリアンの側にいたいからだ。繋いだ手を、放したくなかった。
 それからしばらく会話が途切れる。沈黙の中で深呼吸を繰り返しながら、フィラにもようやく自分の置かれた状況を考える余裕が出てきた。
「あの、私、これから、どうなるんでしょうか」
 リラの魔力が暴走して、九死に一生を得たことまでは理解できたけれど、それでまた元のレイ家での生活に戻れるのかよくわからない。
「悪いが、しばらくはここにいてもらう。封印は解けたが、まだ完全に制御できているわけでもないだろう。また暴走した場合、止められるのは俺だけだ」
「ここって……?」
「俺の部屋」
 何か魔力を制御するための施設か何かだろうという予想は、あっさりとした一言で覆される。
「は……? い、良いんですか?」
 一瞬止まりかけた思考をどうにか再起動して、フィラはジュリアンを見上げた。
「夫婦が同室でも別に咎められはしない」
「夫婦……でしたね、そういえば」
 冷静な青い瞳から視線を逸らして、気まずい気分で呟く。忘れていたわけではないけれど、改めて言われるとまったく実感がなかったことに気付いた。相変わらず、自分がジュリアンに釣り合うとは全然思えないし。
「レイ家に戻したかったんだが、もう少し魔力が安定するまではここにいてもらった方が良い。ここには制御補助の結界が張ってあるし、仕事中でもすぐに駆けつけられる」
 淡々と話すジュリアンにも、そういう意識はなさそうだ。
「少し休んでいろ。消化に良いものでも作ってくる」
 繋いでいた手を掛け布団の下に押し戻しながら、ジュリアンが立ち上がる。少しだけ名残惜しそうに見えたのは、たぶん自分の願望が見せた幻だろう。
「あ、はい。ありがとうございます」
 立ち上がって部屋を出て行くジュリアンの背中を見つめながら、ふと首を傾げた。
(作ってくる……?)
 まさか、ジュリアンが?
 まったく想像できなくて、フィラは考え込んだ。ユリンの城にあったような食堂がないのはわかるけれど、だからといってリラ教会の偉い人が食事を作ってくるなんて。
 しかし見回してみると、ずいぶんとこの部屋も殺風景だ。ベッドの他にはデスクと書棚とクローゼットがあるきりで、カーペットや壁紙すらもない。打ちっ放しのコンクリートが剥き出しになっている。なんとなくわかっていたことだけれど、やっぱりあまり自分を大切にしてはいないみたいだ。少しだけ、胸の内が苦しくなった。こんなところに一人でいないでレイ家の邸の方に住めばいいのになんて、余計なお世話だろうけれど。
 目を閉じたら眠ってしまいそうだったので、横を向いてじっと扉の方を見つめながら待っていると、少ししてジュリアンが戻ってきた。トレイの上で湯気を立てていたのは、野菜のたくさん入ったミルクスープだ。さっきよりは目眩もだいぶ良くなっていたので、フィラはベッドの上に起き上がり、トレイごと受け取る。膝の上にトレイを乗せ、スプーンですくったそれに息を吹きかけて、少し冷ましてから口に入れる。
「あったかい……」
 塩とこしょうで整えただけの簡単な味付けだけれど、何だかほっとする暖かさだった。久しぶりに人間らしい食事ができたような、そんな気持ちになる。
「すぐに料理人を雇うわけにもいかないが、明日にはフェイル辺りに来てもらう。俺よりはマシなものが作れるはずだからな」
 さっきと同じ位置に座ったジュリアンが、食事の様子を見守りながらそんなことを言ってきた。
「雇うって……今までは?」
 思わず食事の手を止めてジュリアンの目を覗き込む。何となく予測はつくけれど、それでもまさか、という気持ちが勝った。
「自炊だ。しかし俺のは……人に食べさせられるようなものじゃないだろう」
 気まずそうに視線を逸らすジュリアンに、フィラは食事を再開しながら小さく微笑む。
「そんなことないです。美味しいですよ」
 ここしばらく一人きりで冷たい食事をしてきたせいかもしれないけれど、久しぶりに誰かと話しながら食べる食事は暖かくて幸せな気持ちにしてくれた。それに何だか、すごく貴重な体験をしている気もする。
 とは言っても、忙しいジュリアンに料理を頼むなんてもちろんできるわけがない。どう考えてもこれは、お世話になる自分の仕事だ。
「あ、あの、良かったら、私、作りましょうか?」
 だからフィラは急き込んでそう提案した。
「まだエルマーさんに合格もらえるような腕でもないから、家賃代わりにもならないとは思いますけど、でも、居候させてもらうなら、そのくらい……」
 こちらを見つめるジュリアンの瞳が、逡巡するように何度か瞬いた。
「……良いのか?」
 フィラに、というよりは自分に問いかけているような口調だったけれど、フィラは微笑んで頷く。
「はい。それに、もうずっとお料理してなかったから腕がなまってそうで。このままじゃエルマーさんに怒られてしまいます」
「そうか」
 つられるように、ジュリアンもようやく微かな笑みを浮かべた。
「じゃあ、頼む。正直、光の巫女に付けられるような信頼出来る料理人を探せる当てはなかった」
 その言葉に笑みを深めながら、フィラはまた一口ミルクスープを口に運んだ。じんわりとした暖かさが、全身に広がっていくのを感じた。