第五話 愛するもの、お前の名は

 5-2 誓い

 窓から差し込む夜明けを告げる人工の明かりに、フィラの白い肩が照らし出されている。腕の中で安心しきったように眠る少女の呼吸を感じながら、ジュリアンは身動き一つ出来ずにいた。
 欲望に負けてしまったのだ、という自覚はあった。自分の意思の弱さが、取り返しがつかない犠牲をフィラに強いてしまったのだと。それがわかっていてなお、胸の中にあるのは幸福な気持ちだ。側に居続けることは出来ないのに、今さら手放すことも考えられない。ただこの手の中にある幸せを感じていたくて、時間が止まれば良いのにと馬鹿なことを願っていた。しかし窓から差し込む光は容赦なく強くなっていって、穏やかな時間の終わりを告げる。
 フィラが目を覚ましたら――覚ましてしまったら。いったいどんな顔をして、何を話せば良いのだろう。ずっと考え続けているけれど、答えは出てこない。そんなふうに何の覚悟も決められないでいるうちに、フィラが静かに目を開いた。紅茶のような色の瞳が、差し込む朝の光に透明度を増しながらジュリアンを捉える。とても近い距離で目が合って、フィラは何かを思い出すように何度か瞬きしてから戸惑ったような表情を浮かべた。どうしたらいいかわからないのだと、その表情を見ただけで伝わってくる。たぶん自分も同じ表情をしているのだろう。そう思った瞬間に、フィラの瞳がふっと笑んだ。まるで懐かしい居場所へ戻ってきたときのように、力の抜けた幸福そうな笑みを。
 幸せそうなその微笑みを見つめながら、笑うのか、と、どこか呆然と思う。
 フィラは全て受け入れてくれたけれど、行為としては無理矢理に近かったはずだ。
 ――それなのに。
 何も言えずにただ呆然とフィラを見つめるジュリアンに、彼女は笑みを深めた。
「おはようございます」
 寝起きの掠れた声が、それでもやわらかく耳に届く。まるで当たり前のことのように。――これが『日常』ででもあるかのように。
 それを聞いた瞬間、何か熱いものが胸の奥から溢れ出すような心地がした。フィラを抱き寄せて、その胸に顔を埋める。
「ジュリアン……?」
 不思議そうな声が名前を呼ぶ。
 手放せない。この声を、ぬくもりを、その存在のすべてを。
 きっと自分は彼女を連れて行く。そこが世界の果てでも、この世の終わりでも、地獄の底であったとしても。どんなに残酷な行為だとわかっていても、もう手放すことは出来ない。
 彼女のもたらすものはあたたかで幸せなものばかりだ。出来ることなら同じものを返したい。フィラの居場所が、安らげる場所が、自分の側であれば良い。他の誰でもなく、自分の側で。そして幸せに笑う彼女の隣で、生きていきたい。生きていたい。
 希望と絶望が、願いと痛みが、波のように押し寄せてくる。じっと目を閉じて、狂おしいほどの感情の波をやりすごしながら、フィラが宥めるように背中に回してくれた腕の感触を感じていた。

 どれくらいそうしていただろう。
「遅刻……に、なっちゃいますかね?」
 激しい感情の波が再び穏やかな安らぎに変わった頃、ふとフィラが呟いた。顔を上げて壁に掛けた時計を見る。
「……いや。今から準備すれば間に合うな。朝食を食べている暇はなさそうだが」
「じゃあ、準備している間に、朝食持って行けるようにしておきますね」
 フィラが何もなかったように振る舞おうとしているのは、まだジュリアンに話す準備が出来ていないことに気付いているからだろう。
「すまない」
 たぶん、きちんと言葉にしなければならないことはたくさんある。何を願い、何を選ぶのか。そのためにどんな覚悟を決めるのか。フィラはもうその全てを示してくれた。今度はジュリアンがそれに応える番だ。ちゃんと、言葉を探して。そのための時間を、フィラは与えてくれた。
「謝るところですか?」
 笑いと呆れの混じった声に、少しだけ肩の力が抜ける。
「いや……ありがとう」
「どういたしまして」
 ゆっくりと体を離しながら、敵わないな、と、そう思った。

 定刻通りの時間に届いたダストからの報告書に目を通しながら、フィラが作ってくれたサンドイッチをかじっていると、団長執務室の扉が開いてランティスが入ってきた。
「お、何だ、今日は弁当持参? 朝メシ食ってこなかったのかよ? 嬢ちゃん来てから初めてじゃねえか?」
 昨夜の内に作成を指示しておいた資料の束(ネットワーク上に載せるわけにいかないので紙の資料だ)を執務机の上に置いたランティスが、ジュリアンの様子を見て興味深そうに問いかけてくる。
「寝坊した」
 実際には一睡もしていないのだが、そうとしか言いようがなかった。
「え……嬢ちゃんも?」
 困惑したように目を瞬かせるランティスに、嫌なところに気付くなと少しだけ眉根を寄せる。
「……ああ」
 それでも正直に答えることにしたのは、相手がランティスだからだった。たぶんランティスは、ジュリアンが出してしまった答えを否定しないだろう。不思議とそう確信出来るのは、ランティスが部下である以前に友人だからだ。
「えー、あー、もしかして、手、出した……?」
 ランティスは目を泳がせた後、なぜか不安と期待がない交ぜになったような視線を向けてくる。その瞳を見返しながら正直に答えたものかまた逡巡して、しかし結局正直に答える以外の選択肢も思いつかなかった。
「……ああ」
「は……? ま、マジで!?」
 驚愕にひっくり返った声と見開かれた目で、ランティスが未だかつて見せたことがないほど狼狽しているのがわかる。
「良いのか……?」
「良いわけないだろう」
 答えながら、それでも未だに後悔できていない自分に気付いた。状況は何も変わってなどいないのに。
 サーズウィアを呼ばないという選択は考えられない。呼ばなくても自分は長くは生きられない。願いを叶えたいのなら、選べる道は一つだけだ。サーズウィアを呼んで、その上で帰ってくる。そうしなければ本当に欲しいものは手に入らない。
 そうするためには、フィラの言う通り、彼女を連れて行くしかないのだろう。一番大切なものを、最大の危険にさらさなければならない。
 ――守り抜けるのか。最後まで。
 自問の言葉が、胸を切り刻む。
 自信などない。カケラもない。
 それでもやり遂げなければ、フィラと共に生きる未来は手に入らない。

 ダストからの報告書を分析して話し合った結果、増援は必要ないという結論に達した。しかしその情報は聖騎士団内だけに留め置き、増援のために待機させている僧兵団はそのままにしてある。動きがあるとしたら一両日以内だ。そして動きがありそうな地域には、既に監視の目を置いていた。後は相手方を油断させるためにも、いつも通りに動いておく必要がある。ランティスは事務室内で機密レベルの高い事務処理を片付け、ジュリアンは今回の派遣に関連した各種の決済を終えてから訓練室に入っていた。今日は僧兵の教習ではなく、ジュリアン自身の個人訓練だ。
 ランティスにとっても意外だったのは、ジュリアンが今日はティナを連れて行ったことだ。
「良いけど……僕を戦闘に使うの?」
 急に呼び出されて困惑した様子のティナは、ジュリアンの真意を伺うようにじっとその瞳を見つめていた。
「竜化症の進行を遅らせるためにはその方が良いだろう。俺がリラの力に触れているせいだろうが、お前の魔力容量も増大しているし、今ならレーファレスよりも大きな魔力を渡せるかもしれない」
 ジュリアンの答えはいつも通りの冷静で淡々としたものだったし、内容にも特におかしいところはなかった。それでも何かが違うと思えるのは、朝のやりとりのせいだろうか。
「変わった、よなあ……」
 そうだ。何かが決定的に変わったのを感じる。今まで義務だったものが、自らの意志に変わった。もちろん義務を果たすことはジュリアン自身の意志なのだけれど、それだけでは足りないとずっと苛立ちを抱えていた部分が満たされたような気がする。その鍵を握っているのは、やはりあの少女なのだろう。
 ――それでも彼女は、俺を許すのかもしれない――
 いつかジュリアンがフィラのことをそう評していたのは、きっと間違いではなかった。ジュリアンが自らの生を望めないのは、自分で自分の存在を許せないとどこかで思っていたからだ。それを覆すほどの何かを、今まで誰も与えられなかった。フィラ以外は。
(お礼言わねえとな)
 どんな魔法を使ったのかは知らないが、与えられた立場でも義務でもなく、自分自身の望みをジュリアンに与えてくれたのならば。望むことを自らに許せるように仕向けてくれたのならば。
 そう思ってほっと表情を緩めた瞬間、狙ったように胸ポケットに入れていた携帯端末が振動した。
「おお、フェイルのおっさん」
 発信元を確認して軽い口調で出ると、深々としたため息が聞こえてくる。
「誰がおっさんです。こんな時なのにやけに機嫌が良さそうじゃないですか、ランティス君」
 皮肉げなフェイルの小言にも、にやけた笑みが深まるばかりだ。
「おう、ジュリアンがなんか生きる気になってくれたみたいでちょっと嬉しくってよ」
「坊ちゃまが……?」
 不思議そうな呟きの後に、どこか呆然としたような間が空く。
「……そう……ですか」
 沈黙の後に続いたのは、どこか虚脱したような、それでいて万感の思いが込められているような、静かな言葉だった。しかし一つ呼吸をしただけで、フェイルはいつもの調子を取り戻す。
「それは何よりでございます。ぜひその調子で今回の任務も生き延びていただかなくてはなりませんね」
 感慨にふけっている暇などない、仕事の話をするぞという断固たる意志の元に発せられただろう台詞に、ランティスは微苦笑を浮かべた。
「今回の任務、ね」
「ええ。ローレンス地区にて天魔の群れを確認いたしました。規模は――」
 続く報告は、こちらが予想していたシナリオにかなり近いものだった。
「おいでなすったか」
 話し終えた後、携帯端末を胸ポケットに放り込みながらランティスは不敵な笑みを浮かべる。
「返り討ちにしてやろうじゃねえの」
 今度はこちらの準備も万端だ。先日のような不覚は取らない。そんな自信があった。

 ダストとリサが派遣された地への増援として準備していた部隊を、急遽新たに出現した天魔の群れ討伐に振り向け、ぎりぎりの戦力で現場へ向かう。表向きにはそういうことになっているが、今回のこれは予測できていた事態だ。実際にはジュリアン以外にも数人の聖騎士が合流する予定となっており、構成する僧兵にも精鋭部隊を選んであった。魔力探査装置をはじめとした装備類も必要充分に用意されている。天魔の群れが予想を超える規模だったとしても充分に対応できる戦力だ。夕刻には全ての準備が整い、後は定刻に出発するだけとなっていた。
「フェイル」
 光王庁地下のターミナルに集合した僧兵団に訓示を垂れ、最終確認も全て終えて団長執務室へ戻ってきたジュリアンは、現地の駐屯兵に増援が着くまでの指示を与え終えたらしいフェイルに声をかける。
「お帰りなさいませ、お坊ちゃま。後はご出発まで休憩なさってください」
 立ち上がってジュリアンを迎えたフェイルは、いつも通りの落ち着いた笑みを浮かべてそう言った。普段ならばそれを断って事務仕事に戻る所だが、今日だけはどうしてもやっておきたいことがある。
「ああ。後は頼む。私は一度部屋に戻る」
 そう告げたジュリアンに、フェイルは一瞬――まるで泣き出す直前のように表情を歪めた。けれどジュリアンがその表情を確かめようと視線を戻したときには、フェイルはもういつもの慇懃な調子を取り戻していた。
「かしこまりました」
 深々と頭を下げてしまったフェイルの一瞬の表情が気にはなったが、時間も押していたのでジュリアンはそれ以上反応を確かめることなく執務室を後にする。
 出発前に何としてもフィラと話しておかなければならない。まだ語るべき言葉は決まっていなかったけれど、不思議と朝のような戸惑いは消えていた。仕事をしている間、言葉を探す時間も未来について考える暇もなかったけれど、心のどこかでゆっくりと覚悟が決まっていくのを感じていたせいだ。今まで固めたきた覚悟のような悲壮なものではなく、穏やかな水のように染み込んでいく静かな覚悟が。
 昼光灯の点った廊下を抜け、部屋の扉を開くと微かにピアノの音が聞こえる。柔らかい音色がどこか躊躇いがちな甘いメロディを奏でていた。ここのところフィラが練習していた曲よりはずいぶんとシンプルに聞こえる穏やかな音程が、ユリンの午後の日差しを思い出させる。その音の流れを遮ることがないように、気配を消してリビングへと向かう。音の上昇と共に少しだけ盛り上がった音楽はまた躊躇いがちにまどろみのような穏やかさの中へ戻っていき、そっと目を閉じるように終わりを迎えた。
 曲の終わりと同時にリビングに足を踏み入れたジュリアンは、ちょうど譜面台から目を上げたフィラの視線を受けて足を止める。
「あ……おかえり、なさい」
 一瞬目を見開いたフィラは、動揺を隠せない様子で何とか言葉を絞り出した。ジュリアンは演奏椅子に腰掛けたままのフィラの側へ歩み寄り、グランドピアノの縁に手を置いてその瞳を覗き込む。
「二時間後、天魔の討伐に出ることになった」
 いつもの調子を取り戻したくて、真っ先に口にしたのは事務的な連絡事項だ。つくづく自分でもどうしようもないと思う。
「ずいぶん、続き、ますね……」
 フィラの視線が不安げに揺れて、膝の方へと落とされた。
「予測は出来ていた。少し規模の大きい群れが出たらしいが、今回の討伐が済めばしばらくは穏やかに過ごせるはずだ」
 僅かな願望を込めた言葉に、フィラはぎゅっと拳を握りしめる。
「えっと……討伐は、いつまで、ですか?」
 不安そうに向けられた視線に誘われるように手を差し伸べ、フィラの手を取って立たせた。触れ合った体温に、いつの間にか全身を支配していた緊張が少しだけ解ける。
「予定では三日間だ」
「そう、ですか。あの……」
 迷うように繋いだ手を見つめて言い淀むフィラが本当は何を言いたいのか、もうジュリアンにも察しがついていた。
「必ず、帰ってくる。ここに。お前のいるところに」
 先回りした言葉が、自分でも驚くほど真摯に響く。気休めの約束ではなかった。これは、誓いだ。
「帰ってくる。何度でも。そしてそう出来ないときには、ついて来てほしい」
 俯いていたフィラが目を見開いて、それから呆然とジュリアンを見上げる。
「待っていてくれるか?」
 安心させてやりたかったのに、たぶん上手く笑えなかった。フィラの表情が、泣きそうに歪む。
「……はい」
 それだけ答えるのがせいいっぱいだというように、フィラはまたすぐに俯いてしまう。その手をさらに引き寄せて、細い身体を抱きしめる。いつの間にかすっかり馴染んでしまった感触に、それでも心が高揚するのを感じる。
「愛している」
 驚くほどすんなりと、言葉が滑り出ていた。