第六話 終わりの始まり
6-7 地下ジャズクラブの会合
地下にある小さなジャズクラブは、ランティス行きつけの店だ。今日はライブが入っていなかったので、閉店して貸し切りにしてもらった。マスターも充分な量の酒と料理を出した後でランティスに鍵を預けて帰ってしまったので、人目と耳を気にせずテーブル席に陣取ることが出来る。
「やあやあみんな、久しぶり久しぶり」
光王庁からランティスの車に乗り合わせてきた三人に、少し遅れて到着したアランが声をかけた。
「おう、久しぶりだな。元気してたか」
真っ先に手を上げて気さくに声をかけるのは、昔からランティスの役割だ。
「もちろんもちろん。ずっと引きこもって研究ばっかりしてたけどねえ」
アランは嬉しそうに破顔しながらテーブルの一角に腰掛ける。いつもどこか楽しそうに生きているアランだが、今日は一際嬉しそうに見えた。
「ランティスとジュリアンには最近会う機会があったけど、カイは本当に久しぶりだよね。五年ぶりくらい?」
久しぶりに集まった面々を見回して、アランは首を傾げる。
「そうですね。あの事件の前に会ったきりですから……」
「まあな、いろいろあったもんなあ」
沈痛な面持ちで頷いたカイに、ランティスとアランも小さくため息をついた。聖騎士団が壊滅したこと、その後のジュリアンたちが聖騎士団を立て直すためにしてきたこと。断片的な情報から、アランもある程度は察していたのだろう。だが、今日ランティスがこの場を設けたのは、過去を振り返るためではないはずだ。
重くなりかけたその場の空気を変えるように、ジュリアンは真っ直ぐアランを見て声をかけた。
「アラン」
「ん? なんだい?」
ほっとしたようにこちらを見るアランに、ジュリアンはテーブルの隅に置いておいた可愛らしい紙袋を差し出す。
「フィラから渡すように頼まれた」
「フィラさんから……?」
アランは不思議そうに目を瞬かせて、紙袋を受け取った。
「先日水族館を案内してもらった礼だ」
その説明に納得した瞬間、アランはぱっと表情を輝かせる。
「わあ、本当かい!? 嬉しいなあ」
アランがいそいそと袋を開くと、ふわりと甘い匂いが漂った。
「おお、美味そうだな」
「せっかくだからみんなも一緒にどうだい?」
ランティスが言うと、アランはにこにこと笑いながら開けたばかりの袋を差し出す。中身はさっき受け取る前に味見させてもらった手作りのクッキーだ。
「おう、いただくぜ」
充分な量があるのを見て、ランティスは遠慮なく頷いた。アランが最初の一枚を口にしたのを皮切りに、全員が食べ始める。
「しかし羨ましいな。こんな美味いもん毎日食えるなんてよ。俺もアリーシアを宿舎に呼べればなあ」
たぶんこの中では一番舌が肥えているランティスが、しみじみと言った。
「毎日は食べてないぞ、クッキーは」
「そこじゃねえよ」
軽口を叩くランティスに気まずさと気恥ずかしさを誤魔化すような言葉を投げると、期待通りの返事が即座に戻ってくる。
「しかしこれ袋も可愛いよねえ。女の子ってこういうのどこから探してくるんだろう」
しげしげと袋を眺めながら、アランは不思議そうに首を傾げた。
「光王庁の購買だと言っていたな」
出かける前に交わした他愛のない会話を思い出しながら、ジュリアンは何の気なしに答える。
「……聞いたのかよ」
「彼女は購買までは出歩けないのでは?」
ランティスの呆れた声とカイの生真面目な疑問を秤にかけて、ジュリアンは結局カイの方に答えることにした。
「エセルとモニカに昼食を買いにいくついでに頼んだんだそうだ」
エステル・フロベールから相続した遺産とフィラ自身がもともと持っていた財産は、こういう『生活必需品でないもの』に使われている。フィラのための支出などジュリアンの財産からすると微々たるものなのだが、そうでもしないとフィラは自分のための買い物はしなさそうだと思ってエステルの遺産に少々上乗せしておいたのはどうやら正解だったようだ。
「それ聞いてきたのか? さっき部屋に戻ったときに?」
「ああ、そうだが」
妙にしつこく聞いてくるランティスに、ジュリアンは微かに眉をひそめる。特に問題があるとも思えないのだが、何かあるのだろうか。
「いや、悪ぃ、普段から魔術理論だの政治だの宗教だの経済だのの話ばっかしてたらどうしようかと心配してたんだけどよ。大丈夫そうだな」
「そんなことを心配していたのか……」
そうなる原因が自分にあることはわからなくもなかったので、ものすごく複雑な気分になった。心配いらない、とはもちろん言い切れない。フィラとジュリアンでは育った環境が全然違う。自分でもなぜ会話が成立しているのか時々わからなくなるくらいだ。
「そうかあ、そう……結婚したんだよね」
手に取ったクッキーを見つめながら、アランがしみじみと呟く。
「あの頃は弟みたいに思ってたんだけどねえ。何かもう精神年齢とっくに追い抜かれちゃった気がするよ」
「弟……」
思わず呆然と復唱してしまった。アランと初めて出会ったのは十四歳のときで、そのときアランは既に二十二歳だったのだから、年齢差から言えばその通りなのだが。
「なんせ僕なんて十年一日のごとく研究しかしてなかったからねえ、あはは」
本人の申告通り、出会った頃からアランはこんな調子で研究以外のことには疎い。しかし、だからこそ話していて安心できる部分もある。この安定感は彼の美点の一つだろう。
「ああそうだ、研究と言えばどうなんだよアラン。こないだ打診した件は」
突然思い出したようにランティスが身を乗り出した。ランティスが何かを打診していたのは初耳だったが、フィアが行方をくらまし、ダストが離脱した直後という状況を考えれば、内容はだいたい予想出来た。
「あ、それなんだけど、今僕アザラシの研究しててね」
「……アザラシ?」
不審そうに眉根を寄せたカイの顔には、はっきりと「話の流れがわからない」と書いてある。
「そうそう、天魔のうごめく海で天魔化してないアザラシがどう生存戦略を図ってるのかっていう研究だね」
アランはカイの困惑には全く気付かず、むしろ興味を持ってくれたのかと言わんばかりに瞳を輝かせた。
「アザラシの背中にカメラと位置測定装置を背負ってもらって放すんだけど、その後データを回収するのがなかなか大変なんだ。何と言っても海中だから電波は通らないし魔術でデータ通信しようにも海の中はほとんど荒神の領域だからそれも難しくて、昔は自動で切り離して浮かび上がってきたところをGPSで捕捉して回収とかできたみたいなんだけど今はGPSなんて使えないしそもそも海に出て行くこと自体難しいから、じゃあ装置自体が自動で元の場所に戻ってくる魔術を開発しようってことになってて、でもそれを使うとなると魔竜石の搭載が不可欠だからその分機器の小型化を図らなくちゃいけなくて」
「あ〜、つまり聖騎士団の開発部に入る予定はないってことだよな?」
放って置いたらどこまでも続きそうなアランの説明を、ランティスがどうにか呼吸の合間を捉えて遮る。そこでようやくアランは話しすぎたことに気付いたらしく、苦笑しながら頭を掻いた。
「あ、うん、ごめんごめん。またやっちゃったね。そう、つまり、僕の今の研究は役に立てそうもないって言いたかったんだ」
アランはそこでふと不安そうな表情になって、ジュリアンの方を伺う。
「でも……人手不足、ひどいのかい?」
「相変わらずな」
合成品にしては美味しいワインを口にしながら、ジュリアンは頷いた。
「フィア・ルカの入団で少しは余裕が出来るかと思ったのですが」
沈んだ調子で言うカイのグラスにはミネラルウォーターが入っている。帰り道の運転を買って出たからには、最後まで水しか飲まないつもりなのだろう。アルコールが入っていなければ何を飲んでも構わないと思うのだが、万が一にも間違いがあってはいけないという信念からか、カイはこういうとき頑なに水しか飲まない。
「消滅《ロスト》、しちまったからな……」
「協力したいのは山々なんだけどね……」
深々とため息をつくアランに、ジュリアンは首を横に振ってみせる。
「いや、今まで通り、出来る範囲で構わない。開発部に入ってもらえれば天魔の動向についてのデータは渡せるが、その分研究にも制約が増えるからな」
「天魔の行動データは魅力的なんだけどねえ……」
聖騎士団の収集した精度の高いデータは、アランの研究にとっても大きなプラスになるものだ。しかしそれを交渉材料にしてこの世間ずれしていない友人を巻き込むのは、ジュリアンの本意ではなかった。
「何とか今の身分を保ったままで研究に協力してもらう道を探る方が良いだろうな」
「出来そうですか?」
カイが期待を込めた視線を寄越す。カイ自身も同じことを検討してきたはずだが、実現するにはアランの研究分野に関する知識が足りなかったのだろう。
「研究の切り分け方と渡すデータの加工方法によっては不可能ではないはずだ。守秘義務は発生するが、外部委託の形で天魔に関する基礎データを渡す方法はあると思う」
少し考え込んでから、今ここで決断する必要はないと気づいて顔を上げた。
「方法を考えておく。具体的な手続きはそちらでやってもらうことになると思うが」
視線を向けられたランティスは、なぜか少し申し訳なさそうな表情で眉尻を下げる。
「いや、悪いな。助かるぜ」
「僕も助かるよ。聖騎士団が持っている天魔のデータは、正直な所喉から手が出るほど欲しいからねえ」
アランはランティスとは対照的に心底嬉しそうににこにこしていて、カイはもう既に関係する法律を頭の中で洗い出している顔をしていた。
「さて、俺から振っといて何だが、仕事の話はここまでにしようぜ」
ランティスがにやりと笑いながらジュリアンを見つめる。
「今日の本題は人生の先輩に結婚生活について語ってもらうことだ」
困惑したようなカイの視線とどこかわくわくとした気配のアランの視線も集まって、ジュリアンは嘆息した。
「……やはりそうなるのか」
ランティスがこのタイミングでこのメンバーを集めた時点で、ある程度は予測できていたことだ。二度と集まる機会がないかもしれないこのメンバーで過ごす最後の時間を、ランティスは楽しく他愛もないものにしたかったに違いない。
「わかってたことだろ?」
今日はとことん洗いざらい吐き出してもらうぜ、と、ランティスは実に楽しそうに酒のグラスをあおった。どうせ酒が進めばランティスのいつもののろけとアランの研究話とカイの愚痴が始まるのだろう。最初に酒の肴になるくらいは我慢してやるかと、ジュリアンは覚悟を決めた。
同じ頃、フィラは聖騎士団本部の事務室でフェイル、エセル、モニカの三人と一緒に夕食を食べていた。
「しかし珍しいですよね」
フィラが作ってきたパイ包み焼きをつまみながら、エセルが言う。フェイルたちはもともと残業の予定で食堂に頼んでおいた食事を事務室に運び込み、フィラが持ってきた夕食と一緒に食べているところだ。
「だよねえ。団長がこうも連日プライベートの予定を入れるなんて」
同じくパイ包み焼きに手を伸ばしながら、モニカも同意する。食堂から届けられたサラダを全員で分けて食べ終わってしまった後、なぜかエセルもモニカも食堂発の合成肉のシチューよりフィラが持ってきた残り野菜と合成ひき肉のパイ包み焼きの方に先に手を出した。
「確かにやっと余裕出来てきたとこだけど、前なんて余裕あってもプライベートの時間取ってなかったよね?」
「ユリン行く前とかそもそも余裕あったっけってレベルだけど。あっこれマジ美味しい、さっくさく。さすがフィラさん」
「あ、ありがとうございます」
話の途中で突然誉められてフィラは思わず姿勢を正す。
「団長に就任されてからはそもそもプライベートの時間がほぼございませんでしたからね。そういった時間を大切になさるようになったのは良いことでございますよ」
フェイルも頷きながらパイに手を伸ばした。合成肉のゴム臭さをどうにかハーブとスパイスと野菜の食感で誤魔化したものなので余ったら持って帰るくらいのつもりだったのだが、この調子だと綺麗になくなりそうだ。
「あ、そうだフィラさん」
エセルが何か言いかけたところで、事務室の扉が静かに開かれた。
「失礼いたしま……あれ? フィラさん、お久しぶりですね」
入口に立っているのは、中央省庁区へ移動する途中に見かけたきりだったレイヴン・クロウだ。重傷を負っていたはずだが、もう負傷のあとは見当たらない。
「クロウさん! お怪我はもう大丈夫なんですか?」
それでも問いかけずにはいられなくて、フィラは思わず席を立った。
「ええ、おかげさまで。しかしあの時は大活躍だったそうですね」
クロウは切れ長の瞳を細めて淡い笑みを浮かべる。
「大活躍……」
いろいろやらかした自覚はあったので、フィラは少したじろぎながらクロウの表情を伺った。
「水の神器を拳銃で撃ち落としたとか」
あくまでもにこやかにクロウは言う。しかし、怒っているのか褒めているのか、その笑顔から真意は窺い知れない。拳銃の撃ち方を習っていたときから、フィラにはクロウの感情がほとんど読み取れなかった。
「うっ、いや、でもあれは……すごく、怒られましたし……」
一番やらかしたはずの場面だったので、フィラは肩を落として口ごもる。
「そうですね。大変な無茶だとは思いますが、結果としてはそのおかげで勝利出来たわけですから。僕の指導とお渡しした拳銃が少しは役に立ったようで嬉しく思います」
相変わらずさらりと辛辣な評価を混ぜつつ、クロウは春の陽射しを思わせる穏やかさで微笑んだ。
「何とかなったのはクロウさんのおかげだと思います。本当にありがとうございました」
「恐縮です」
深々と頭を下げると、クロウも礼儀正しい会釈を返してくる。それからクロウはおもむろに姿勢を正すと、フェイルに向き直った。
「ああそうだフェイルさん、主治医の許可が出ましたので、今日からは戦闘のある任務にも参加できます」
あんな怪我をした後なのに平然と告げるクロウに、フェイルがパイを食べる手を止めて軽く頷く。
「それは助かりますね。フィアさんの抜けた穴が未だに埋められておりませんでしたから」
フィアの消滅《ロスト》が嘘だと、このクロウは知っているのだろうか。それとも真実だと思っていて、それが当たり前のことだと受け入れているのだろうか。日常会話のような気軽さで行き来する言葉からは、判別がつけられない。
「フィアさんの代わりは務められないと思いますが、精一杯力を尽くしますよ」
「よろしくお願いいたします」
フェイルとクロウはどこか似通った――感情の読み取れない笑みを交わし、頷き合う。
「フィラさんも、もし訓練の再開が必要でしたらいつでもその二人を通して声をおかけください」
どちらかと言えば鋭い顔立ちに春の陽射しのような穏やかな微笑を浮かべて、クロウはそう言った。