第二話 再生されし子等

 2-1 魔竜石工場跡地

 踊る子豚亭の裏口から出た二人とティナは、人目を避けるように裏路地を歩き、バルトロの家の隣の教会へ向かった。辿り着いた教会は無人で、午後の穏やかな光の中、蜂の羽音すら聞こえるような静寂に包まれている。鮮やかな新緑に彩られた裏庭を抜け、バルトロの地下工房へ続く階段とは別の、裏手に流れる小川へ下る階段を降りた。柳の木陰に潜り込んでいくような石の階段の下は、おそらく近所の人々が利用しているのだろう洗い場になっている。そこで人目を避けるように影の中に身を隠していた人物が、二人が降りてくるのを見て片手を上げた。
「やっほ〜」
 緊張感のない軽い挨拶をしてきたのは、もちろんリサだ。
「さっすが、時間通りだねー。一通り見てきたけど、天魔の侵入なんかもなかったし、特に問題はなさそうだったよ」
 リサが偵察しに行ったのは、ユリンから脱出するルートとしてキースたちが指定してきた、風霊戦争時代の地下シェルターをつなぐ隧道だと聞いていた。
「ゼーゲブレヒト卿のやることだ。漏れはないだろう」
「だよね。さすがにランベール様の右腕と言われてるだけあるわ」
 現ユリン領主の、恐らくは結界運用の腕を褒め称えてから、リサはくるりとターンする。
「じゃ、早速行きますか。結界メンテナンスも時間通り始まりそうだしね」
 リサはそう言って、教会の土台にもなっている川縁の石壁に片手をかざした。リサの流し込んだ魔力に反応して、石壁に刻まれていた魔術式に虹色の光が走る。重い音を立てて開いていく石壁を、フィラは呆然と見つめた。
「こんな所に入り口があるなんて知りませんでした……」
 開き方の特徴を見ていると、領主の城にあった鍵盤が鍵になっている隠し扉と設計者は一緒なのかもしれない。
「隠されてはいるが、こういう地下シェルターへの入り口は街のあちらこちらにある」
「ここは踊る小豚亭から一番近い生きてる入り口だね」
 ジュリアンが魔術で明かりを灯したのを合図に、リサはごく気軽に歩き出す。入ってしばらくは、石造りのアーチと石畳の古い隧道になっていた。数十メートルほどで隧道は暗渠と交わり、水路脇に設えられた作業用の細い通路を一行は進む。
「もしかして、あの地下大空洞に繋がってるんですか? えっと、魔竜石の生産工場跡地……でしたっけ」
「ああ。そこを通って、ユリンを脱出する」
 以前、ジュリアンと一緒に神域との交錯に巻き込まれて、カルマに襲われた場所だ。今はカルマが侵入して来るはずないとわかっていても、やはり思い出してしまうと緊張する。
「あそこ辛気くさいよね〜。やったら広いから掃除も大変だし」
 ぼやくリサの言う『掃除』が、本当の掃除なのか天魔の掃討の話なのか悩んでいるうちに、左手に頑丈そうな扉が見えてきた。
「こっからしばらく階段よ〜。膝に来ると思うけどがんばってこー!」
「我が主は本当にうるさいですね」
 リサが拳を振り上げた途端、ふいに空中から姿を現したフィーネが、それだけ言ってまたふっと姿を消す。
「……仲良くやっているようだな」
 そのタイミングの良い一言に、ジュリアンが呆れたように目を眇めながら呟いた。
「あっはは〜。まあね、ばっちりだね。イイ感じにくそまじめで良いよ、フィーネは」
 ――不本意です――
 今度は頭の中にフィーネの声だけが響く。
「フィーネさんは姿を現したり消したり、結構するんですね」
 ティナも姿を消したり現したりは出来るはずなのだが、あまりやろうとしない。
「だって疲れるし。もともとの魔力もヒューマナイズの進行具合も違うんだよ。僕はあんなにほいほい世界律を無視できないから」
 自分が言われていると気付いたティナがジュリアンの肩の上から不満そうに答える。
「そういうものなの……?」
 ――そうですよ。さらに世界律から離れると荒神になります。世界律を守るために力を欲した結果が世界律からの乖離なのですから、皮肉なものです――
 フィーネの声が聞こえたけれど、フィラ以外の二人とティナは反応しない。聞こえなかったのか反応しなかっただけなのかはわからなかった。
 そんな会話を交わしている間に、リサはまた魔力を定められたとおりに流して扉を開く。扉の奥は螺旋階段の踊り場になっていた。ジュリアンに続いて中に入ると、螺旋階段が上にも下にも延びているのがわかる。この上がどんな施設なのか、地下を通ってきたせいで地理がさっぱりわからない。推測するのを諦めて、フィラはジュリアンに促されるままにリサの後に続く。リサを先頭に、フィラを挟んでティナを肩に乗せたジュリアンを殿《しんがり》にして、一同はゆっくりと階段を下り始めた。
 先の見えない螺旋階段を下りながら、フィラは以前同じようにジュリアンと一緒にずっと階段を降りていったときのことを思い出していた。この世界の歴史を、どうして世界がこうなってしまったのかを、教えてもらったときのことだ。あの時は神域と交錯していたせいで雰囲気が今とは全然違うけれど、何だかその行動をなぞっているような気分になる。ジュリアンも同じことを考えているのだろうか。鼻歌を歌いながら前を行くリサを追いかけながら考えたけれど、背後を静かに――けれど気配は殺さずについてくるジュリアンは、何も言わなかった。
 どれくらいそうやって歩いただろう。石組みの階段が鉄板と鉄パイプの無機質なものに変わり、周囲の壁も剥き出しのコンクリートに変わった。もうすぐあの地下大空洞だ。
「こっからまた延々と降りなきゃいけないんだよね〜」
 周囲の壁が消える頃、リサが大げさにため息をついて言った。
「世界の果ての崖下まで降りる必要があるからな」
 雲海を見下ろす世界の果て。その雲の遙か下の大地が、この旅の始まる場所になるはずだった。
「結界出ちゃえばエレベーター使えるから、そこまではね。そこまでだけでも大変なんだけど」
 ユリンの街には似合わない、無骨な鉄パイプの手すりの向こうのコンクリートの壁が消える。地下大空洞――魔竜石の生産工場跡地だ。魔力光に照らされて、石と化した竜の姿が闇の中にぼんやりと浮かび上がる。前に来たときは暗くてよく見えなかったけれど、今度は明るい魔力光のおかげで、一定間隔で何体も並んでいるのが見えてしまった。以前来た時よりもはっきり見えるだけに、より不気味で悲しい光景だ。これから目指すグロス・ディアに固有の生き物だと聞いていたけれど、でもダストやジュリアンは人の手で作り出された半人半竜だった。だとしたら、ここにある竜たちの化石も、もしかしたら……
 考えるとますます背筋が寒くなる。少しだけ身震いして、フィラは考えても仕方のないことを頭の中から追い出そうとした。
 そうしているうちに階段は終わり、直径二十メートルほどの広い足場に到着する。
「……ん?」
 先を歩いていたリサが、ふいに立ち止まった。
「レーファレス」
 ジュリアンが剣を呼び出しながらフィラを庇うように前に出る。余りにも自然で穏やかな動作だったけれど、その意味するところは一つしか考えられなかった。ジュリアンの肩の上で、ティナが毛を逆立てる。慌てて周囲を見回すけれど、何も異変は見当たらない。
「……どゆこと? 気のせいじゃなかったよね?」
 やはり注意深く辺りを見回しながら、リサが低く呟いた。いつになく厳しい表情には、隠してはいるけれど何か愕然としたような気配が滲んでいる。
「ああ。これは」
 ジュリアンが途中ではっと言葉を切ってフィラの腕を引き寄せるのと、リサが「フィーネ! 安定!」と叫ぶのが同時だった。次の瞬間、世界が揺れる。上下左右に揺さぶられ、床に足をついているのかすらわからなくなる。覚えのある、神域と交錯するときの揺れ方だった。何故、という疑問すら、激しく揺さぶられる感覚に掻き消される。
 抱き寄せてくれたジュリアンに縋りながら、フィラは交錯が終わるのを、ただ待った。
 前回よりは、揺れていた時間は短かったように思う。まだ少し視界が揺れているのを感じながら、フィラはそっと目を開く。
「……で、前回の交錯もあんたの仕業だったわけ?」
 とげとげしい声の方を見ると、リサが前方の何もない空間を睨み付けていた。あの時と同じ、神域との交錯を表す、緑色の燐光が漂う空間を。
「違いますよ」
 穏やかな声と共に、リサが睨み付けていた空間が歪み、透明な輪郭が現れた。そして透明な輪郭は見る見るうちに色付き、フィラのよく知っている姿を――レイヴン・クロウの姿を形作る。
「さすがに団長の目を誤魔化せる自信はありませんでしたから。僕は手引きをし、魔術式をカルマに渡した。それだけです。あの時やったことはね」
 見慣れた団服も穏やかな微笑もそのままなのに、クロウの目は笑っていない。まるで見知らぬ人のようで、カルマと対峙したときとは質の違う恐怖にフィラは立ち竦んだ。クロウの全身から不協和音が響いている。その身体を内側から喰い破ろうとしているような、凶暴な響きの――強大な魔力だった。
「……WRUの、『再生されし子等』か」
 フィラを抱えたまま剣を構えながら、ジュリアンが低く問いかける。
「ご名答。ここまで隠し通すのは大変でしたけどね。でもまあ、ダストさんやリサさんに比べれば、僕の力なんて微々たるものですから」
 クロウはそう言って微笑むけれど、その全身から発する音圧はとても『微々たるもの』などというレベルではない。神域の中では魔力を音として捉えてしまうフィラには、ジュリアンが交錯した瞬間とっさに制御してくれていなければ、きっと耳がつぶれるほどの音として聞こえていたはずだ。身構えるジュリアンとリサの緊張感からも、それが確かなのだと確認できた。
「つーかあんた、マジ最悪じゃない? さんっざん心配かけといて騙し討ちとか」
「これくらいのことはリサさんだって出来るでしょう」
 怒りを露わにするリサに、クロウは肩をすくめて周囲を見回す。この状況――前触れのない神域との交錯。それは、話に聞いていた、クロウが行方不明になったときの状況と同じだ。
「ミニ・サーズウィアなんて私は呼べませんー」
 フィラの懸念を肯定するように、リサが突っぱねるように言葉を返した。
「そこじゃないですよ。騙し討ちの方です」
 リサやジュリアンよりも、クロウの方が余裕があるように見える。神域と交錯している状態では、確か魔術をまともに使うのは難しかったはずだ。クロウがそれをわかっていてこの状況を作り出したのだとしたら、たぶん彼はそれに対処できる手段を持っているのだろう。つまり、不利なのは間違いなくこちらだ。
「さて、どうします? 僕としては、やることは一つなんですがね」
 クロウが切れ長の瞳を細めると同時に、フィラでもそうとわかるほどの殺意が吹き付けてきた。
「どうするって、帰って寝る。つーかそうしたい」
 うそぶくリサの声音にも、いつものような余裕はない。
「同感ですが、お互い帰る場所などない身分でしょう」
「まあ確かに今となっては住所不定無職だけどさ……」
 リサはちらりとジュリアンへ目配せした。
「しょうがない、戦うとしますか。魔術使えないなら君にはフィラちゃん守るのに専念してもらった方がよさそうだしぃ。気は進まないけどー」
「リサ」
 フィラの肩を抱くジュリアンの手に、微かに力が入る。
「……何とか隙を作れないかやってみる。逃げて」
 ほとんど唇を動かすことなく小声でそう告げた次の瞬間、リサの姿は目の前から掻き消えていた。