第四話 イルキスの樹

 4-1 幽霊列車

 翌朝、再び顔を出したリサとクロウに、今まで通って来た地域で得た情報やクロウがまとめてくれた情報を元にしてジュリアンが分析した天魔の活動に関するレポートを渡した。それを聖騎士団に届けるついでに、光王庁周辺の天魔の討伐や国境付近での小競り合いを遊撃隊として密かに援護するよう依頼する。
 WRUとの国境に難民が押し寄せていること、それを狙って天魔が集まり始めていること、WRUの制御を離れた生体兵器が天魔の群れと合流する可能性があることから、リサとクロウにはそちらへ向かってもらった方が良いだろうというのがジュリアンの判断だった。元々リサにはジュリアンの旅を支援してもらう予定だったのだが、ここより先に行ってしまうと中央省庁区やWRUの情報を得るのは困難だし、戻るのも難しくなってしまう。この状況ではより戦力を必要としているところへ行ってもらう方が良い。

 そうして二人と別れ、居住区を後にして再び長い旅が始まる。居住区を出た後は、人家は減る一方だった。道路を囲む農場が荒野になり、避難用のシェルターすら一日に一つ見かけるかどうかになっていく。道だけはどうにか整備されていたが、ここを通る旅人がそうそういるとも思えなかった。
 その道も数日後には荒野の砂に覆われて消え、悪路をゆっくりと進んで行かなくてはならなくなる。一行は方位磁針と車の走行記録だけを頼りに、道なき道を進んでいった。ラジオはもう雑音しか拾ってはくれず、まるで世界から二人とティナと車だけが取り残されたようだ。
 そこまで行くと、もうどこの自警団の手も届かない。定期的な討伐がないせいで数を増やした天魔とも、時折遭遇してしまうこともあった。大概は気配を殺してやり過ごし、天魔が充分離れてから再び移動を開始する。
 一度臆病なはぐれ天魔と避ける間もなく行き当たってしまったときには、さすがに戦闘になった。フィラは助手席に取り残されたまま、祈るようにその場面を見守るしかなかった。もしも行き当たったのが天魔の群だったら、いくらジュリアンが強くても勝てる保証はない。戦闘魔術で消耗したジュリアンを『調律』し、その日の残りの運転を代わりながら、フィラは改めて恐怖が押し寄せてくるのを感じていた。

 最後の居住区から二十日目の夜、二人とティナはぼろぼろに朽ち果てた風霊戦争以前の鉄道ステーションの、わずかに残された壁の陰にキャンピングカーを止め、結界を張って夕食を取っていた。
 夕食を終えて片づけを始めようとしたとき、ジュリアンがふと険しい表情で立ち上がり、無言のまま魔術式を展開して焚き火を熱も残さないように消す。ジュリアンはそのまま無言でフィラの手を引いて、キャンピングカーの居住部に入った。移動しながら張り直された結界が、防御を捨ててステルスに特化したものであることに気付いたフィラは、どうしたのかと視線でジュリアンに尋ねる。ジュリアンは無言のまま、細くカーテンを開けて車の外を示した。
 目を凝らすと、遠く遙かな地平の端にぼんやりと光る線が走っている。それは地平線を逸れ、こちらへ向かって迫ってきた。距離が遠いので正確にはわからないが、輪郭が大きくなるスピードからしてものすごい速度のようだ。
「……ただの廃線だと思っていたんだが」
 ジュリアンの押し殺すような低い呟きには、苦々しい感情が滲んでいた。
「あれは……?」
 光の帯は駅に向かう線路の上を辿ってきている。近づくにつれて、少しずつその形がはっきりわかるようになってきた。遠目には普通の――こんなところを走っている時点で普通も何もないのだが――列車だ。けれどさらに近づくと、それが異形であることがわかってしまう。
 先頭車両は、天魔化した生物と同じように一部が竜素となった列車、のように見えた。美しい流線型だったのだろう表面には、ごつごつとした肉腫のようなどす黒い竜素が盛り上がっている。フロント部分は、苦痛に叫ぶ人の顔にも見える形に歪んでいた。本来ヘッドライトだったのだろう部分は真円の虚ろに輝く目となり、真っ直ぐ線路の先だけを見据えている。
 それ以外の車両は竜素には侵されていなかったが、薄緑色の魔力の光をまとっている様子はやはり普通ではない。十両ほどもあるそれが荒野を駆けている様は、幻想的だけれど禍々しいとしか言い様がないものだった。
「大陸に数体しかいない、Sランク以上の天魔だ。風霊戦争時代に使われていた旅客列車が、荒神と融合してああなったのではないかと言われている」
 いつの間に呼び出したのか、|聖騎士の剣《レーファレス》を握ったジュリアンが緊張した面持ちで説明する。ジュリアンの肩に上ったティナも、全身の毛を逆立てて窓の外を睨みつけていた。
「数代前の聖騎士団が、あれの討伐を計画したが結局断念している。現在の最大戦力をつぎ込んでも破壊するのは困難だろう。幸い知能中枢を外部から電磁的に破壊可能だったため、封じ込めることには成功した。今はただこの地方のレールを無目的に走っているだけだ。攻撃本能は残っているはずだが、気付かれさえしなければやり過ごせる」
 列車が走る轟音が近づいてきて、ジュリアンは声を立てるなと仕草で示して黙り込んだ。フィラはどきどきと鳴る心臓の音さえ聞こえてしまいそうな気がして、思わず祈るように両手を組んで息を殺す。
 大地が揺れる。カーテンの隙間から差し込んだ強烈な光が、辺りを白黒に照らし出す。耳を聾するような轟音が間近に迫り、まったく制御されることなくまき散らされる強大な魔力に押しつぶされそうな心地になる。ただ身を縮めて、まるで死そのもののような巨体が通り過ぎていくのを待つことしか出来ない。恐怖に身体が震えた。それすらも感知される要因になるのではないかと、またさらに不安がこみ上げる。ジュリアンが大丈夫だと伝えるように、そっと音を立てることなくフィラの肩を抱いた。そうされることで、少しだけ呼吸が楽になる。
 実際以上に長く長く感じられる時間の後で、ようやく地響きのような轟音は遠ざかっていった。それでもしばらくは誰も動けず、完全な沈黙が訪れるのを待つ。
 やがてジュリアンが警戒を解いたのを合図にしたように、どちらからともなくほっと息をついて離れた。
「レールの上しか走らないのに、この事態が予想できなかった理由は?」
 ジュリアンの肩の上から、ティナが待ち構えていたように小声で尋ねる。
「あれごと封じ込めた環状線はこことは繋がっていないし、結界が破られた気配もなかった。奴が結界を越えて軌道を変えるような何かがあった、ということだろう」
 ジュリアンは冷静に答えているが、それがとんでもない事態だということはフィラにもなんとなく予想がつく。
「例えば?」
 ティナは追及の手を緩めることなく畳みかけた。
「あいつの危険性を考えると人為的なものだとは考えにくいが……あれが通り抜けられるだけの大規模な神域との交錯が自然に起こったのだとすれば、環状線を外れたレールに転移出来る可能性はなくもない」
「確率は低そうだね」
 ティナは嫌そうに顔をしかめてしっぽをぱたりと動かした。
「この周辺に避難勧告を出せるよう、賞金稼ぎギルドに報告しておいた方が良いだろうな」
「出来るの?」
 電波も魔力も天魔に発見される可能性を考えると送受信は難しい、という話を思い出して、フィラも少し不安になる。
「一方的に送りつけるだけなら、時限式にしておいてここを離れた半日後くらいに送信が始まるようにしておけばいい。賞金稼ぎがよく使う手だ」
 ジュリアンは手にしていた剣を抱えるように持ち直し、肩の力を抜いて窓際に座り込んだ。
「奴が戻ってくる可能性を考慮すると、今夜はこのまま結界を維持した方が良いな」
 つられて座り込んだフィラに、ジュリアンは穏やかな微笑を向ける。安心させようとしてくれているのがわかって、フィラもそれに応えようとぎこちなく笑みを浮かべた。
「他の天魔が近づいてきた場合、この結界だけでは心許ない。今夜は俺が不寝番をする。ティナ、悪いがつきあってもらうぞ」
「良いよ。どうせ僕寝ないし」
 ティナは愛想なくそう答えると、おもむろに毛繕いを始める。たぶん、ティナも気分を落ち着かせる必要があったのだろう。
「フィラ、お前は寝ていてくれ。明日はたぶん運転を長めに任せることになる」
「わかりました」
 無理しないで、なんて言える状況でないことはわかるから、フィラは何とかそれだけ答える。
「あくまでも念のためだ。気にせず寝てくれ。明日の朝充分離れていることが確認できたら、外を片づけて早めに離脱しよう」
 ちゃんと寝て、明日ジュリアンが移動中に休む時間を少しでも長く確保すること。それが今フィラに出来る一番のことだ。
「はい。……おやすみなさい」
 落ち着かない、何かしていたい気持ちを押し殺して頷いたフィラに、ジュリアンは静かな微笑を崩さずに頷いた。
「ああ、おやすみ」
 光王庁にいた頃と何も変わらない落ち着いた声に送られて、フィラは簡易寝台に潜り込む。不寝番をするジュリアンの気配に、ふとカルマの襲撃を待っていた夜のことを思い出しながら目を閉じた。
 あのときも今も、ジュリアンには安心させてもらってばかりだ。

 何事もなく朝を迎え、ジュリアンが昨日話していたとおりに時限式の通信魔術を設置している間に、フィラは放り出したままだった焚き火や夕食の残りを片づけた。それからすぐにジュリアンの運転でその場を離れ、安全を確認したところで運転を代わる。ここに来るまでも距離を稼ぐために交代で仮眠を取りながら運転をすることはあったので、今はもうティナを話し相手に一人で運転していてもそれほど緊張はしない。
 昼過ぎに車を止め、居住部で寝ていたジュリアンを起こして昼食を取る。その後しばらく行ってからまた運転をジュリアンと交代し、眠気覚ましにと頼まれて助手席でギターを弾いた。そうしていると少しだけ、昨夜の恐怖やこの先への不安を忘れることが出来た。
 午後三時を回った頃、行く手に何か巨大な陰が見え始める。塔、というにはバランスが悪い。よく目を凝らしてみると、それは大樹だった。他に遮るもののない荒野で、遙か彼方からもよく目立って見える。あまりに巨大すぎて距離感がわからなくなるほどの、非常識な大きさの樹だった。
「あれは……?」
「次の居留地だ」
 簡潔な答えに、フィラは頭の中で旅の日程表を思い返す。
「レルファール、でしたっけ?」
「ああ。グロス・ディアの言葉で『樹の町』という意味だ」
「樹の町……」
 では、あれは本当に大樹なのだ。フィラは呆然と、まだ地平線の向こうから聳えているようなそれを見つめた。フィラの膝の上から、ティナも興味深そうに道の先の大樹を眺めている。
「グロス・ディア大陸の中央に高さ五千メートルを超えると言われる巨大な樹がある。それ自体が信仰の対象となっている神そのものだが、植物としての特徴も持っていて、その樹の枝を取って地に差すとああいう巨木に育つんだ」
「高さだけなら光王庁くらいありそうですね」
 まだ距離感がわからないせいではっきりとは言えないけれど、近づいてくる速度からしてそれくらいはありそうだった。
「この大陸に現存している樹の中ではあれが最大だ。中央省庁区にもかつてはあったんだが、枯れてしまったので今は光王庁の地下で芽が保護されている」
 真っ直ぐ巨木に向かって車を走らせながら、ジュリアンは淡々と説明を続ける。
「あの樹――イルキスの樹と呼ばれているんだが、あれは天魔に対抗する結界が今のように各地の居住区に張られていなかった頃は、唯一人類が安全に暮らしていける場所だった」
 どこかで聞いたことはあったのかもしれないが、あまり記憶にはなかった。エステルとの旅では、ここまで人里離れたところには行けなかったから、見る機会がなかったせいもあるのかもしれない。
「イルキスの樹の内部はこの世の法則ではなく、神界の法則に支配されている。つまり、樹のうろの中に入ると神界と交錯したときよりさらに神界に近い環境になっている、ということだ」
「なんで?」
 興味津々という様子でジュリアンの説明に耳を傾けていたティナが、すかさず尋ねる。
「グロス・ディアにあるオリジナルが元々植物ではなくて神だからだろう。樹のうろに入るということは、要するに神の体内に入るということだ」
「なる……ほど……?」
 ティナは不気味そうに自分の身体を見下ろしながらしかめ面をした。もしかしたら自分の中に誰かが入るところを想像してしまったのかもしれない。
「あの樹自体が力の強い神だ。しかもグロス・ディアにあるオリジナルと繋がっているためか、荒神となることもないと言われている。この辺りは昨日の天魔と、さらにもう一体厄介な天魔がいるためほとんど人が寄りつかないが、あの樹の周辺だけは光王庁とは独立した集落が出来ているんだ」
「もしかして、中央省庁区ではあまり知られてない話だったりしますか?」
 説明を聞きながら過去の記憶を掘り起こしてみてもやっぱり覚えがなかったので、フィラはジュリアンの横顔を見上げて尋ねる。
「ああ。光王庁の干渉を受け付けない集落でもあるし、かと言ってわざわざ兵を送り込むほど光王庁にも余裕があるわけじゃない。相互不可侵の独立自治区、という扱いだな。向こうとしては光王庁の支配区域にあることなど気にもとめていないのだろうが」
 話している間に、辿っていた道の舗装が少しだけましになって、ジュリアンはわずかにスピードを上げる。一向に大樹が近づいてこないので今日中にたどり着けるのか訝しく思っていたのだが、この分なら何とか辿り着けそうだ。
「風霊戦争の数年後にはあそこはもう独自の道を歩み始めていたらしい。これまで通ってきたところとは文化もかなり異なるはずだ。通信網は一応通っているし、言葉も通じるはずだが」
「あそこで車からレプカ、でしたっけ。荷馬みたいな動物に乗り換えるんですよね」
 キースが用意した日程表には、確かそう書いてあった。
「レプカを見たことは?」
「ないと思います」
 そう聞かれるということは、中央省庁区の動物園か何かにはいたのだろうか。
「博物水族館には剥製があったはずだが……サラブレッドより少し小さいくらいの草食動物だ。グロス・ディア原産でこちらの大陸に入ってきたのは二十一世紀以降だが、賢く頑丈なので機械や魔導具を導入できない農業で利用されていた」
「機械や魔導具を導入できない……?」
 いったいどういう分野なのか想像できなくて首を傾げると、ジュリアンは微かに眉根を寄せた。
「風霊戦争の頃、主にグロス・ディアから迷い出てきた神々を捕らえ、兵器として利用するために各国は密かに『罠』を張っていた」
 突然飛んだ話についていけなくて、フィラは目を瞬かせる。
「ユリンの周囲が『楽園』と呼ばれているのはその頃の名残だ。神々を捕らえるために装われた、素朴な信仰心に満ち、科学も魔術も発達していない『楽園』。レプカはそこの主要な移動手段であり、耕作用の家畜だった」
「なるほど。そうやって捕まえてたんだ。魔術によって世界律が歪められていない場所を、僕らは本能的に求めるからね」
 ティナは先ほどよりもさらに嫌そうな表情で頷くと、ぶるりと身を震わせた。