第四話 イルキスの樹
4-3 浴場にて
巫女のいた部屋から数階分下った、やはり樹のうろをくり抜いて作られた小部屋が二人にあてがわれた部屋だった。先に届けられていた荷物をジュリアンは細かくチェックしている。歓迎の宴だけでなく夕食の提供すら断っていたし、やはりずいぶんと警戒しているらしい。その様子を見ていると、フィラも少しは警戒した方が良いのだろうかと思わずにはいられなかった。とは言っても、出来るのは単独行動を慎むことくらいだろうか。そもそも旅を始めてから単独行動などほとんど取ったことはないけれど。
そう思いながらジュリアンが確認し終えた荷物を整理していると、ふいに部屋の扉がノックされた。
「湯浴みの用意が整いました。まずはフィラ様からご案内いたします」
扉を開けると、外で待っていた三十代くらいの女性が深々と頭を下げる。
「場所はこの階か?」
妙に過保護な確認をするジュリアンは、やはりかなり警戒しているようだ。
「左様でございます」
女性は頷いたけれど、ジュリアンはどこか納得していない表情だった。入浴に必要なものを袋に詰めながら、フィラは視線でジュリアンに行っても良いか問いかける。ジュリアンは表情を変えないまま、それでも無言で頷いたので、フィラは微かに緊張しながら女性の後について部屋を出た。
短い廊下を歩いてすぐに、女性は階段を登り始める。
「あの、同じ階なのでは……」
「申し訳ございません。先ほどはうっかりしておりました。浴場は一階上でございます」
そんなことは大した問題ではないと言うように、女性はあっさりと即答した。しかし、先ほどのジュリアンの反応と併せて考えると、やはりどうにも落ち着かない。後ろをちらりと振り返ってティナがついてきているのを確認したフィラは、それで少しだけ勇気を得て駆け戻りたい衝動を押さえつけた。
案内された先は、ユリンの城にあったような大浴場だった。壁も家具も全てイルキスの樹から切り出したのだろう木材で作られている所は違うけれど、使い方は一緒のようだ。広々とした更衣室には誰もいない。
先に浴場へ続く扉を開けてそこが野外浴場だと知ったフィラは、思わず服のまま外に出て辺りを見回してしまった。イルキスの樹の一部を削って床に埋め込まれるように作られた浴槽には、樹の内部からそのまま湧き出しているらしい乳青色の湯がなみなみと湛えられている。床も磨き上げられてはいるが、やはりイルキスの樹そのままだ。そのまま目を上げると、僅かな残照に浮かび上がる荒野と空が枝々の間から一望できた。
こんな、何だか微妙な雰囲気の中でなければきっとものすごく感動していた。人工の塔とは全然違う、どっしりとして動かない圧倒的な気配の大樹。その樹の上から見下ろす世界は、今まで住んでいた所と地続きだなんてとても信じられないくらいだ。この浴場以外にも面白そうな場所はきっとたくさんあるのだろう。ジュリアンやティナと一緒にあちこち観光して回れたらきっと楽しいのに、それが叶いそうもないのが残念だった。
せめてこの野外浴場くらいは楽しみたいけれど、さっきの様子からすると一度戻った方が良いだろうか。
迷いながら更衣室に戻ると、案内してきた女性の気配はなくなっていた。ティナが来ていないだろうかと磨り硝子のはめ込まれた出口に近づくと、ちょうど同じタイミングで誰かが扉の前に立った。そのシルエットが男性のものだったので、フィラは一気に緊張する。
「フィラ」
「えっ!?」
しかしすぐに聞こえた声は、あまりにも聞き覚えのあるものだった。
「ジュ、じゃない、団長? どうしたんですか?」
「静かに。入るぞ」
驚いている間に扉が開いて、ジュリアンが人目を忍ぶように滑り込んでくる。
「どっ、どうして……!」
いくらなんでも着替えていてもおかしくないところに本人が乗り込んでくるとは思っていなかった。動転するフィラに、ジュリアンは小さくため息をつく。
「どうも様子がおかしい。確認したいことがあるから、先に入る」
「ええっ!?」
「状況を考えたら一緒に入った方が良いのかもしれないが」
周囲を警戒するように見回しながら告げられた言葉は、さっき以上の衝撃をもたらした。冗談ではなさそうなところがまた衝撃的だ。
「ま、待って下さい! そんなことしたらお嫁に行けなくなる、じゃなくてええと」
慌てて意味もなく服の前をかき合わせながら訴えると、ジュリアンは少しだけ不機嫌そうに眉根を寄せた。
「お前、俺以外のどこに嫁に行く気だ」
「こ、言葉の綾です! じゃなくて!」
余りにもわかりやすすぎてわざとじゃないかと疑いたくなるような不意打ちの嫉妬に赤くなりながら必死で訴えるフィラには構わず、ジュリアンはさっさと上着を脱いでしまった。フィラは心の中で悲鳴を上げながら後ろを向く。ほんの十数秒で衣擦れの音はやんで、「先に入っているぞ」というどう考えても理不尽な言葉が背後から投げかけられた。
「ど、どうしろと……?」
いろいろと衝撃的過ぎて気付いていなかったけれど、ジュリアンと一緒に入ってきていたらしいティナがフィラの目の前の棚に飛び乗る。
「入りたいなら早く入った方が良いよ。もし予想が当たってたら、お風呂どころじゃなくなるからね」
最後の良心だと思っていたティナまでそんなことを言い出すので、フィラは思わず頭を抱えてしまった。
「そんなに? そんなに危険な状況なの? それなのにお風呂入るの!?」
「うん。まあ、確証はないし、当たっててもたぶんお風呂に入ってる時間くらいはあるよ。急げばだけど」
そう言われてしまうと、少しだけ気持ちが傾く。フィラだって旅の間にはなかなかない入浴のチャンスを逃したくはなかった。
「ていうか何が嫌なの? 裸くらいいつも見て」
「わああ言わないで!」
フィラはとっさに手近にあったタオルをティナの頭の上からかぶせた。
ものすごい葛藤はあったのだが、むしろ何か物音がするたびにびくびくしながら一人で待つ方がつらいし、なぜこんなに警戒しているのかも聞きたい、という理由で、結局フィラはジュリアンを追いかけた。
「あの……」
しっかりタオルを巻き付けて浴場へ出たフィラは、ためらいながら浴槽に入っているジュリアンの背中に声をかける。
「ああ」
振り向きかけたジュリアンに、フィラは思わず「見ないで下さい!」と叫んだ。
「……すまない」
あっさりと視線を戻したジュリアンは、何か結界の魔術を組み立てているようだ。その背中とそこにある傷跡からフィラも視線を逸らして、宵闇に沈もうとしている灰色の空と荒野を眺める。剥き出しの腕に冷えた外気が冷たい。
「何かあったんですか?」
緊張した声音になってしまった。恥ずかしさに耐えてここまで来たのは、理由をちゃんと聞いておきたかったからだ。さすがにここまで来ると恥ずかしさより不安の方が大きくなっている。壮大な景色を楽しむ余裕なんて、もちろんどこにもなかった。
「イルキスの樹の声が聞こえないんだ」
じっと水面を見つめたまま、ジュリアンは低く答える。
「どういう、ことですか?」
「理由は不明だ。完全に加護を失っているわけではないが、弱っていることは確かだろう。巫女がイルキスの声を聞いているというのも、正直なところ信じがたい。しかし、そうだとするとこの歓待は説明がつかない」
ジュリアンは考え込むように、手のひらで水をすくってそれをじっと見つめた。
「この水はイルキスの精髄に近い。少しはその意志を感じることができるかと思ったんだが、やはり希薄だな。こちらに意識を向けていないようにも感じる。どちらにしろ、イルキスの樹自体には他意はないようだが……」
肌寒さを感じ始めたフィラは、ためらいながらジュリアンの隣に入る。
「声が聞こえないっていうのは……?」
ちらりと向けられた視線に、思い切り俯いてしまう。冷えてしまった身体がお湯で暖められる以上に、顔の方が熱くなった。何か察したのか、ジュリアンはすぐに明後日の方向を見てくれる。
「そのままだ。イルキスの樹に宿る神は、グロス・ディアのレルファー……グロス・ディア大陸の中央にそびえる大樹の神と繋がっている。つまり生まれたばかりでも会話出来る程度にヒューマナイズが進んでいるはずだ。実際、光王庁の地下に眠る若木もそうだった」
「じゃあ、グロス・ディアが今どうなっているのかとか、聞いたことが?」
向こうの様子はほとんどわからないと聞いたことがあるが、少ない情報はそのイルキスの若木から得たものだったのだろうか。
「ああ。ほとんど意味のわかる情報は得られなかったが、意志疎通は出来ていた。ここの神も本来なら話は出来るはずだ。ここに立ち寄ったのはそれも理由の一つだったんだが」
ずっとこちらを見ずに話し続けていたジュリアンは、ふと言葉を切って立ち上がり、浴槽から出た。
「しかし、先ほどからずっと呼びかけているが答えがない」
そのまま身体を洗い始めた気配を背中越しに感じながら、フィラは浴場の明かりに照らされたイルキスの梢と、もう完全に暗闇に覆われて見えなくなってしまった外の世界に目を向ける。
「様子がおかしいってことですね」
振り向けないまま、フィラはいろんな意味で緊張しながら問いかけた。
「ああ。それに、この調子であるにもかかわらず、巫女が俺たちが来ることをイルキスから聞いたと言っているのも気になる」
つまり、イルキスの樹だけでなく、ここの住民たちの反応も不自然ということだ。
「何かあるんでしょうか?」
「今の時点では何とも言い切れないな。追い剥ぎ宿のようなことがないと良いんだが」
ジュリアンは淡々と話しているが、正直ぞっとしない話だった。
「イルキスと話ができそうなら昨夜の天魔のことも情報交換が出来るかと思っていたんだが、どうもそれどころではなさそうだな」
原因を調べている時間はこちらにもない。厄介ごとに巻き込まれないうちに出て行った方が良さそうだと、ジュリアンは話を結んだ。もしも予測が当たっていたなら、レプカを借りるという目的も果たせるかどうかはわからない。そうなるとこの先の旅も困難になってくるだろう。
温かいお湯に浸かっているのに、フィラは手足が緊張で冷たくなっていくのを感じていた。
「先に上がる。見張っているから、お前はゆっくりしていて良い」
必要な話をしている間に手早く湯浴みを終えたジュリアンが、そう言い置いて浴場を出て行く。
ゆっくり、と言われてもさっきの話の後ではのんびり入浴している気分にもなれなかったので、フィラはさっさと髪と身体を洗ってしまうことにした。
更衣室の方から喧噪が聞こえてきたのは、ちょうどフィラが全部洗い終えて泡を流しているときだった。
「くそっ、なぜここにいる!」
「女は出来るだけ無傷で捕らえろ! 男は多少傷つけても構わん!」
誰かの叫び声が微かに聞こえる。耳の良いフィラには、その言葉がはっきりと聞き取れてしまった。慌てて立ち上がり、タオルで身体を隠すけれど、こんな無防備なところを襲われたらひとたまりもない。何とか服を取りに行かなくてはならないのだが、いったいどうすれば良いのか――まずは身体を拭いてしまうところからか。
焦りながらもジュリアンがいてくれるとわかっているためか、妙に冷静にそんなことを考えて実行に移していたら、急に更衣室へ続く扉が開けられた。さすがに動転してそちらを見ると、弾丸のように白い塊が飛び出してきた。それはよく見ると、大きい方の姿を取ったティナだ。口にフィラの着替えをくわえている。ティナは一直線にフィラのところへ走ってくると、無言で首を振って服を着ろと訴えた。もちろんフィラに否やがあるはずもない。素早く着替えを受け取って、髪から落ちる滴で濡れるのも構わず乱暴に服を着た。多少乱れてはいるが、これで人前に出ても大丈夫だ。その様子を見て身を翻したティナを追いかけて、フィラは更衣室へと駆け戻った。
更衣室の中は戦場だった。とは言っても、情け容赦なく魔術を振るうジュリアンに普通の人間が敵うはずもない。フィラが戻る頃には、五人ほどいたらしい襲撃者たちは、皆一方的に壁から生えだした木の根に動きを封じられていた。普段の戦い方では怪我人が出ると判断して、どうやってかはわからないけれどイルキスの力を借りたのだろう。ただ一人ジュリアンだけが、剣《レーファレス》を片手に仁王立ちしている。
「どうして、こんな……」
余りに唐突に晒された悪意に、フィラは言葉を失った。
「理由はわからないが、残念ながらついて来て正解だったようだ」
とっくに着替え終えていたジュリアンが、果てしなく不機嫌な表情でそう呟く。それから彼は見る者を震え上がらせるような冷たい視線で、木の根に足を取られて動けない男の一人を睨みつけた。
「誰の差し金だ」
言葉と同時に寸分のぶれもなく剣の切っ先が男の喉元に突きつけられる。
「み、巫女様が……客人を生け贄として捧げれば、イルキスの神が豊穣の力を取り戻すと……」
様子からして戦闘訓練など受けているはずもない男は、あっさりと圧力に屈して口を割った。
「豊穣の力を失ったというのは、子どもが生まれないとかそういった意味か」
力なく頷いた男に、ジュリアンはますます不機嫌そうに眉根を寄せ、大股でフィラに歩みよってその手を取る。ついでのように剣を持った手で髪に触れられると、濡れたままだった髪が一瞬で乾いた。普段は痛むからとあまり使わない魔術で乾かしてくれたらしい。
「巫女のところへ行って話を聞く。その上で売れる恩があるなら売っておこう」
ジュリアンの言い方は乱暴だったが、何となくそこまで追いつめられているのなら窮状から救ってやらなければ寝覚めが悪い、という意味もありそうな気がした。
「あの人たちは……?」
そのまま手を引いて更衣室を出て行こうとするジュリアンに、フィラは慌てて問いかける。木の根にがっしりと足を捕まれた男たちは、自力ではとても脱出できそうにない。
「追いかけられても面倒だ。巫女のところに着いたら解除する」
ジュリアンは不機嫌なまま、低い声でそう言い放った。