第六話 グロス・ディア

 6-1 ガラスの森

「時差から考えると夜明け前くらいか……」
 ジュリアンが呟いて周囲を見回す。辺りの風景に見惚れていたフィラは、その声ではっと我に返った。燐光を発するガラスのような木々は透明なので向こう側を見通せるけれど、重なり合ってしまえば深い海のようにその向こうの風景を隠してしまう。前後左右、どちらを見回しても、ただ光る森が続いているだけで、その向こうまでは見渡せなかった。
「どっちへ向かえば良いんですかね?」
 通り抜けてきた『門』は既に影も形も見当たらない。リョクが不安そうに空気の匂いをかいだ。
「恐らく向こうだな」
 ジュリアンは落ち着かせるようにリョクの首筋を叩いてやりながら、視線だけで行く先を示す。いつの間にか、ジュリアンの髪の色は元に戻っていた。ここまで来ればもう変装する必要はないから、さっさと魔術を解除してしまったのだろう。
「目的地までどれくらい距離があるかはわからないが、急いだ方が良さそうだ。何が起こるか予想は出来ないから、出来るだけ俺から離れないようにしてくれ」
「はい」
 頷きながら、フィラは改めて気持ちを引き締めた。とても綺麗な風景だけれど、ここは未知の世界なのだ。グロス・ディアは荒神の侵入を防ぐ結界に覆われているという話だったが、ここはまだ結界の外のはずだから、天魔や荒神がいるかもしれない。
 真珠みたいな不思議な色の小石を踏みしめながら、ゆっくりとジュリアンが示した方へ進む。
 三十分ほど歩いた頃に夜が明け始めた。透明な木々が放つ光はやわらいでいき、代わりに天上から降りそそぐような金色の光が満ちていく。ユリンで見て知っている太陽の輝きとは別のもののようだった。不思議に思って上を見上げると、木々の向こうで空全体が輝きを放っているのが見える。夜の間は暗くてわからなかったけれど、明るくなった今は透明な梢を通して一面を柔らかな黄金色の光を放つ何かが覆っているのが見えた。世界を閉ざしている灰色の雲とは明らかに違う何かだ。
 思わず立ち止まって目を細めていると、何かがひらりと木々の間を縫って舞い落ちてきた。
「これ……」
 手の上に落ちてきたのは、透けて見えそうなほど薄い金色の葉だ。絹を思わせる手触りのそれは、よく見れば森のあちこちにも降りそそいでいる。ただ、不思議なことに地面の上には見当たらなかった。
「レルファーの葉、みたいだな」
 隣から葉を一瞥したジュリアンがそう鑑定する。
「もしかして、ここって全部レルファーの木の下なんでしょうか?」
 ガラスの木々の向こうに見える金色が、すべてレルファーの葉なのだとしたら、それは本当にとてつもない大きさの木だ。だってここから見上げている限りでは、金色の雲にしか見えない。
「そうなんだろう」
 冷静に答えているけれど、ジュリアンも驚いてはいるようだった。
「文献で見ただけでは想像もつかなかったな」
「高さ五千メートル、でしたっけ」
 その頂上は、灰色の雲さえも突き抜けているのだろう。そして葉がここまで茂っているということは、レルファーがグロス・ディア大陸全土を覆い尽くすほど枝を広げているということだ。
「枝が落ちてきたりなんてことは……」
「それは……大丈夫なんじゃないか? レルファーは純粋な樹木ではなく神だから……そう信じたいところだが」
 せっかくの感動的な風景の中で大惨事を想像してしまった二人は、目を見合わせて考えなかったことにしようと無言で意志を通じ合わせる。
「その落ちてきた葉っぱ」
 黙ってそのやりとりを聞いていたティナが、呆れた表情で口を開いた。
「栄養を与えるために落ちてきたんだって言ってるよ。枝は落ちないってさ」
「これ、喋るの?」
「いや、喋んないけど。なんとなくそういう意思を感じる程度にはヒューマナイズされてるみたいだね。とりあえず下に落としてあげなよ」
「う、うん」
 フィラは言われるままに手を傾けて、そこに乗せていた黄金の葉を落としてやる。ひらひらと舞い落ちた葉は、吸い込まれるように真珠色の地面に吸い込まれていった。それで辺りに降ってきたはずの木の葉が見当たらないのかと、フィラは納得する。
「森が豊かなわけだ」
 ジュリアンがぼそりと呟いて、それから気分を切り替えるように前を向いた。
「行こう。出来れば暗くなる前に結界の中へ入っておきたい。何事もなく入れると良いんだけどな」

 ガラスの森は見通しは良かったけれど、時折行く手を阻むように灌木が生い茂っていて、何度も迂回しなくてはならなかった。方位磁針は役に立たないし、太陽の方角すらわからないので、頼りになるのはジュリアンが感知する魔力の流れだけだ。それも時々立ち止まって魔力を探り、ティナと相談しながら進む方向を決めているから、かなり複雑な流れがあるのだろう。魔力が音として聞こえないここでは、フィラはただ何か空気が濃いような感覚としてしか魔力を感じられない。
 ガラスの植物は美しかったけれど、代わり映えのしない風景を見続けていると少しずつ不安になってくる。この森はどこまで続いているのだろう。本当に前に進めているのだろうか。そう思うたびにジュリアンの落ち着き払った横顔を見上げて、フィラは心を静めた。何も役に立てない自分は情けなかったけれど、地図も何もないし今までみたいに運転を代われるわけでもないから、出来るのは迷子にならないように気をつけることだけだ。

 そんな風に彷徨っている内に、段々頭上から降りそそぐ金色の光が淡い茜色に変わり始めた。
「夕方……ですかね?」
「時間的にもそうだろうな。そろそろ休むか」
 一日天魔どころか生き物一匹見かけなかったが、それが夜も続くとは限らない。慣れない環境で暗くなってから動き回るのは危険だということは、フィラにもよくわかっている。
 それから間もなく小川が森を横切っているのを見つけたので、そのほど近くにリョクが背負っていたテントを張り、その辺の石と落ちていた木の枝を集めてきて焚き火を作った。フィラが夕食を調理している間に辺りを見回ってきたジュリアンは、戻ってきてからどこか複雑そうにため息をついた。
「やはり生き物の気配がしないな」
「そうですよね……」
 鳥の声どころか、虫一匹見かけていない。さすがにこれは不自然だ。
「みんな結界の内側に避難してるのかなって思ってたんですけど」
「それで虫までいない、というのは考えにくいよな」
 手渡された皿を受け取りながら、ジュリアンはフィラの隣に腰を下ろす。
「正直なところ、本当に結界が張られているのかどうかもよくわからない。明日になれば何かわかると良いんだが」
「そうですね……。この土地自体、なんだか夢の中にいるみたいな……現実感がない感じですし」
 たぶん、わけがわからない状況に慣れてしまっているフィラよりも、状況を把握して対応しなければならない立場にいるジュリアンの方がつらいはずだ。そう思ったら何と話題を続けたら良いのかわからなくなって、フィラは内心慌ててしまう。
「あ、えっと、それにしてもここの植物、レイ家の中庭の立体ホログラムと似てますね」
 今は考えても仕方がなさそうだから、他の話題で気分を切り替える方が良いかもしれない。結局そんなことしか思いつけなくて、食事に向かいながらふと思っていたことを言ってみる。
「ああ……そういえばグロス・ディアにある妖精の森の植物をモデルにしたとエリックから聞いたことがあったな」
 ジュリアンはゆっくりとマグカップに入ったスープを飲みながら、何か考え込んでいるようだった。
「……ということは、ここは精霊の門地方なのか」
「精霊の門地方?」
 首を傾げるフィラに、ジュリアンは静かに頷く。
「グロス・ディアの詳細な地図は俺たちがいた大陸には現存していない。もともと他国の人間の出入りは厳しく制限されていたから、グロス・ディア国内の状況については風霊戦争以前でもあまりわかっていなかったようだ」
 だからこれから話す情報も決して正確ではない、と前置きしてから、ジュリアンは説明を始めた。
「他国と国交を樹立したのは、グロス・ディアでもごく一部の地域にしか影響力を持っていない一都市だった。砂漠地帯のオアシスを中心に発展した商業都市フェラル市だ」
 なぜか幻影の魔術は使わず、焚き火から引っこ抜いた木の枝で小石をどけた地面にドーナツのような図を描きながらジュリアンは話し続ける。
「中心の円がレルファーですか?」
「ああ。その西側が砂漠地帯だったらしい。精霊の門地方はその南にある『妖精の海』という塩水湖を隔てた土地にある」
 ジュリアンは内側の円の左側とその下にもう一つずつ円を描き、その間を遮るようにブーメラン形の湖を描いた。
「精霊の門地方はほとんどが不思議な植物が茂る妖精の森に占められているらしい、とフェラル市からもたらされた文献を翻訳した資料に書いてあった。その植物の詳しい植生や形状については伝えられなかったらしいが、ガラス細工のようだという噂だけは流れていて、レイ家の中庭はその情報を元に作ったんだそうだ」
 フィラは地面に描かれた地図を見ながら、これからの旅程を考えてみる。
「私たち、レルファーのところに行かないと行けないんですよね?」
 イルキスの神とジュリアンの会話から、なんとなくそうじゃないかと思っていたことだ。
「そうだな。どこかで入り口を見つけて、レルファーの内部に入り込む必要がある」
 そうすることでレルファーの内部に蓄えられた魔力を動かし、サーズウィアを呼ぶという大規模な魔術が発動するきっかけを作ることが出来る。ジュリアンの説明を聞きながら、フィラはサーズウィアを呼ぶ時が来るという、そのことはあえて考えないようにして、次にしなくてはならないことに目を向けた。
「つまり、湖を越えなきゃいけないってことですね。渡る手段が見つかると良いんですけど……」
 そうでないと、またずいぶんと遠回りをする羽目になりそうだ。
「そうだな。人魚が棲んでいるという噂もあるから、本当にそうだとしたらあまり刺激せずに通過したいものだが」
「人魚……ってあの、上半身が人間の……?」
 物語の中だけの存在みたいに思っていたけれど、そもそも今目の前にある風景だってとても現実とは思えない。人魚が実在していたとしてもおかしくはなかった。
「ああ、下半身が海生哺乳類の……本当にいるかどうかは五分五分だと思うが」
 後を引き取ったジュリアンの言葉に、フィラはふと首を傾げる。
「海生哺乳類? 魚じゃなくて?」
「普通に考えたらそうだろう」
「普通……?」
 どこの世界の普通だろう、と考えて脳内に浮かんできたのはアランのにこにこ顔だった。それでなんとなくいろいろと腑に落ちてしまう。
「君たちの会話って噛み合ってるのか噛み合ってないのかよくわからないよね」
 その様子をリョクの背中の上から見守っていたティナが、半眼でぼそりと呟いた。
「確かに……湖を越える手段についての話だったな」
「……結局、行ってみないとわからないってことでしょ?」
 自分でツッコミを入れておいて、ティナは身も蓋もなくまとめてしまう。
「ああ。本当に妖精がいるなら道案内でもしてもらいたいところだが」
「妖精もいるんですか?」
 確かにこの幻想的な雰囲気は、妖精が現れてもおかしくない感じだし、人魚がいるなら妖精だっていても良さそうな気はした。
「この森の住民の姿として伝えられたものが、当時妖精の姿としてイメージされていたものに近かったので、グロス・ディアの言葉を訳すときに『妖精』という言葉が使われたんだ」
「なるほど……じゃあ、会えるかもしれませんね」
 そんな場合ではないとわかっているけれど、小さい頃絵本で見たおとぎ話の住民と出会えるかもしれないと思うと心のどこかがわくわくしてしまう。その胸中に気付いたのか、ジュリアンがふっと目元を和らげた。わかりにくいその微笑は、グロス・ディアに来て初めて見るジュリアンの笑顔だ。それにつられるようにほっと肩の力を抜きながら、やはり二人とも緊張していたのだと、フィラは改めて気付いた。