第七話 霧の向こう
7-3 タイムリミット
それから、夕暮れまでに聖都へ辿り着くために少し歩くスピードを上げたので、会話はそこで途切れてしまった。聞きたいことはまだあったけれど、なんとなくタイミングを逃したまま、一行は聖都へ辿り着く。
遠くから見下ろしたときよりも、遙かに壮大な都市だった。建物は皆どこかしっとりとした感触の真っ白な材質で出来ていて、傷一つなく磨き上げられている。複雑に枝と根が絡み合った樹木をそのまま石化させたような柱が、建物の高いアーチを支えている。枝や根の間にはめ込まれた色ガラス――に見えるけれど、もしかしたら妖精の森の木なのかもしれない――だけが、真っ白な建物たちの中で唯一色のあるものだ。
遙か頭上の歯車は、注意して見なければわからないほどゆっくりと、今も回り続けていた。その表面には、ノクタが言っていた通り複雑な魔法陣が彫刻されている。フィラが知っている魔術式は幾何学的で直線的で、針の先ほど細い線の中にさらに細かく回路が描かれているものだったけれど、ここの歯車に刻まれた魔法陣は少し離れた所からでも見えるくらい太いし、術式自体もより複雑で装飾的で曲線的だ。どこか植物の葉や蔓を思わせるそれは、まるで放射状に描かれたアラベスクのようだった。そのアラベスク模様の中を、オパールのようにちらちらと光る魔力が流れていく。無人の街の中でも、魔力は変わらず流れ続け、歯車を回しているのだ。
音もなく回る歯車と白い建物の間を進む内に、レルファーの葉が茜色に染まり始めた。白い街は瞬く間に同じ色に染まっていく。
「目的地は大神殿です。その地下に結界が生きているシェルターがあります」
ノクタの声に従って、一行は聖都の白い石畳の道を奥へと進んでいった。街の一番奥にあるのは、巨大な石の森みたいな神殿だ。やはり真っ直ぐに伸びた樹木のような柱が、見上げれば首が痛くなるくらい高くそびえている。一見不規則に立ち並ぶ柱は遙か上空でたくさんの枝にわかれ、複雑に絡み合ったそれらの間にはやはり色ガラスがはめ込まれていて、レルファーから降り注ぐ光が差し込んでいた。
壁も扉もないまま石柱の森に入ってしまったけれど、しばらく行くと巨大な歯車に覆われた天井まで届く大きな壁面が行く手を遮る。
「この向こうにある階段を下ってください。そこならば、風の神も手出しは出来ないはずです」
その言葉に従って壁の前まで行くと、注意して見なければわからないほどゆっくりと回っていた歯車が急にスピードを増した。何かの魔術が発動したらしく、歯車に描かれた魔法陣を虹色の光が駆け抜ける。そしてさほど間を置かずに、歯車の後ろに隠れて見えなかった切れ目から壁が両側に分かれ、スライドして開いていった。
「すごいハイテク……みたいですけどジュリアンから見たらローテクみたいですね」
「まだ何も言ってないぞ」
思わず漏らしたため息にジュリアンがちらりと視線を寄越したのでそうつなげたら、そんな不満そうな声が返ってくる。
「まだってことは言いたかったと……」
「一応呑み込むつもりだった」
呆れていることは隠さなかったのに、ジュリアンは平然としていた。
「君たち、コントしてないでさっさと入ろうよ」
緊張感なくやりとりする二人に、ティナが疲れた声で突っ込む。
開いた扉を進むと、背後でまた歯車が回って扉が閉まった。同時に内部の壁が淡く発光して、周囲が仄かに明るくなる。広大な広間だ。やはり高くそびえ立つ柱から伸びた枝が絡み合う天井の向こうからはレルファーの残照が淡く差し込んでいるけれど、その光だけではまともに行動することは出来ないだろう。
広間の奥には、不思議な形の塔が建っていた。扇形に広がった階段を上った先に、細い巻き貝のような白く輝く螺旋が三メートルほどの高さにそびえている。
「あれは……祭壇か?」
「そうです。三度目のサーズウィアが来るまでは、あそこに光の神が祀られていました」
では、今はどうなのだろう。フィラは無意識に自分の胸に手を当てていた。光の神、と言われると、どうしても自分の中にあるはずのリラの力を思い出してしまう。
「地下への入り口は右手です」
しかしノクタにはそれ以上説明する気はないらしく、あっさりと道案内を再開してしまった。いろいろと聞いてみたい気はするけれど、今日はずいぶんな強行軍だったから、出来るだけ早く身体を休めた方が良さそうだ。
ノクタの案内に従って、一行は細い柱の間にあった入り口を抜け、地下へ向かう傾斜の緩い階段を降りていった。地下の通路や部屋も、やはり少ししっとりとした感触の白い石で作られている。降りてすぐの所に十五メートル四方くらいの広間があって、大きい方のティナにそっくりの像を戴いた噴水が中央で水を湛えていた。その広間にリョクを残し、広間から伸びた五本の通路の内の一つに入ってすぐの部屋を使うことにする。
「どうやら巡礼を泊めるための部屋みたいだな」
フィラが広々とした部屋を見回して呆然としている間に、ジュリアンは端に置いてあった書き物机らしき家具から不思議な光沢の紙を取り上げてそう呟いた。緩やかな曲線を描く机の形も、円形の寝台も何だか独特で不思議な印象の様式だ。
「天魔や荒神の襲撃に備えたシェルターだったようだが、ほとんど使われることがないので巡礼に解放していたらしい。設備は自由に使って良いと書いてある」
「私たち……巡礼に入りますかね?」
リョクから下ろして持ってきた荷物を解きながら、フィラは首を傾げる。
「似たようなものなんじゃないか、たぶん」
「少なくとも気にする人はいないでしょ。ていうか誰もいないし」
ジュリアンとティナに口々に言われて、それもそうかとフィラは苦笑した。
その後食事を取り、噴水の水を借りて身体を洗い、寝る用意をして人心地ついてから、また少し話すことになった。
「レルファールを出てきたのが一昨日だなんて、何だか信じられない気がしますね」
円形のベッドに腰掛けて、フィラは小さくため息をつく。部屋の家具には埃もほとんど積もっていなくて、やはりつい数時間前まで人がいたみたいだった。
「ものすごく遠くまで来てしまったからな」
隣に腰掛けてレーファレスの手入れをしていたジュリアンが静かに答える。
「レルファールもそうだが、お前と出会ってからまだ一年経たないというのも驚きだ」
「そうでしたっけ?」
思わず目を瞬かせてしまったけれど、去年の今頃何をしていたかというとよく思い出せない。
「今日って何月何日だったかな……」
「六月五日。……そういえば、お前明日誕生日なんじゃないか?」
「そういえば……」
完全に失念していたフィラは、呆然と呟いた。むしろジュリアンが覚えていたことの方が驚きだ。ユリンで穏やかな生活を送っていた一年前の自分より、そちらの方が気になってしまった。
「ジュリアンは七月生まれなんでしたっけ?」
「ああ。話したことあったか?」
ジュリアンが手を止めて、フィラをじっと見下ろす。
「お母様から聞いたんです。名前の由来」
その視線が何だかくすぐったくて、フィラは小さく笑った。
「七月生まれだっていうのもあるけど、お父様の歴史上で一番好きな人物がユリウス・カエサルだからだって」
「……初耳だ」
ジュリアンはぼそりと呟いて、それから少し気の抜けた笑みを浮かべた。
「日付までは聞いてなかったんですけど、教えてもらっても良いですか?」
「十六日」
十六日、と口の中で繰り返して、フィラはジュリアンを見上げる。
「それまでに帰ってお祝い出来ると良いですね」
「明日にはさすがに間に合わないけどな」
ジュリアンは妙に残念そうにため息をつきながらそう言った。けれど、すぐに何かに気付いたようにその表情が強張る。
「……早く、終わりに出来ると良いんだが」
「そうですね」
フィラが何か言うより早く聞こえたのはノクタの声だ。きつく右手を握りしめたジュリアンの表情は、ノクタの言葉にますます険しくなった。
「早めにたどり着いていただかないと、思った以上に竜化症の進行が」
「ノクタ」
右手を見下ろしたまま、ジュリアンは厳しい声でノクタの言葉を遮る。斬りつけるようなその調子に、フィラは思わず肩をびくりと揺らしてしまった。
「すまない。少し席を外してくれないか」
余裕のない言葉と表情に、フィラは何かが足下から崩れていくような錯覚を覚える。歩んできた薄氷が、ついに足の下で割れ始めたような。
「僕が持って行くよ」
ティナにノクタを渡すように促されて、フィラはのろのろと胸ポケットから闇の匣を取り出した。
「終わったら呼んで」
ティナはそう告げるとさっとフィラの手からノクタをくわえて部屋から出て行く。それを見送りながら、フィラは現実から意識が逃げていきそうになるほどの緊張と戦っていた。
「フィラ」
さっきまでの厳しさを忘れさせるような穏やかさで呼びかけられて、フィラはゆっくりと顔を上げる。間近から覗き込むジュリアンの優しい瞳に、呼吸が止まった。
「ありがとう」
「何、が……」
まともに息を吸うことも出来ないまま、あえぐように問い返す。
「いつも通りにしようとしてくれていただろう」
小さく息をのんで、そしてすぐに俯いた。膝の上でぎゅっと両手を握りしめる。いつも通りに。そうだ、そうしようと思っていた。一度止めてしまえば、泣きわめいてしまいそうで。でも、そんなことをしてもジュリアンを困らせるだけ。フィラが泣いても、何も変わらない。出来るのはただ、少しでも早く前に進むことだけだ。
「あと、どれくらい……ですか……?」
逃げてはいけない。諦めないと決めたのだから。出来ることが少なくても、何もなかったとしても、顔を背けることだけはしては駄目だ。意を決して、もう一度顔を上げる。
「三日は持つ」
同じだけの決意を秘めた強い瞳で真っ直ぐフィラを見据えながら、ジュリアンはそう答えた。
「三日……」
わかっていた。そう、覚悟はしていた。フィラにでもわかるくらい、グロス・ディアは濃密な魔力に満ちていたから。それでもそのあまりにも具体的で猶予のない時間は、絶望を通り越して思考を真っ白に塗りつぶしてしまう。何も、考えられなくなる。
「大丈夫だ」
何が大丈夫だというのだろう。ジュリアンの瞳の中に、フィラはその理由を必死で探そうとした。安心させるための嘘ではないと、信じたかった。
「それまでにノクタ本体の場所へ辿り着けば、治すと言われた。そうでなければサーズウィアを呼ぶことが出来ないからな。早ければ明日の夜には辿り着けるはずだ」
一番厳しい結論を言い終えたからか、付け足された言葉からは少し力が抜けている。
「このまま三日経ったとしても、すぐに消滅《ロスト》するわけじゃない。ただ、動けなくなるんだ。今のところ記憶障害は発生していないが、身体の竜化の方はかなり進んでしまっている。今は竜素を制御する魔術で誤魔化しているが、進行すると動かせなくなる。その魔術自体でも、今は竜化が進んでしまうしな」
静かに話すジュリアンは、ずいぶんと落ち着いているようだった。フィラを落ち着かせるための演技かもしれないけれど、だからこそ泣いては駄目なのだと思う。涙が零れないように目を瞬かせながら、それでも真っ直ぐ見上げるフィラに、ジュリアンはふっと真剣な視線を返した。
「カルマが……何を考えているのかわからないんだ」
口を開けばひどい泣き言が零れ落ちそうで、フィラは全身に力を入れたままジュリアンをただ見つめる。
「正直なところ、今襲われたら勝てる可能性は低い。それにもかかわらず、警告だけだ。見逃されているのか……」
ジュリアンが落とした迷うような沈黙の中で、フィラはずっと渦巻いていた疑問を口にする勇気を必死で掘り起こしていた。
聞いて良いものか、迷いはある。それでも聞かなければ何かを取りこぼしてしまいそうな気がして、フィラは心を決めて口を開いた。
「ジュリアンとカルマには、どんな関係があるんですか?」
ジュリアンが何者であっても、フィラには関係ない。でも、カルマがジュリアンに執着しているのなら、その理由を知りたい。それを知ってもジュリアンを守る力はフィラにはないのかもしれないけれど、どんな小さな希望でも見つけ出して、掴み取りたかった。