第四章 It's rain cats and dogs
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ティア・カフティアの居室。タスクはうろうろとフロアを歩き回っている。ライファはティアの部屋に最初からいた天理の毛を梳きながら、ぼんやりと座り込んでいた。空調の音がやけに耳につく。フィニスは「侵入者の捜索を手伝いに」行っていて、部屋には二人だけしかいない。
扉が開くときの小さな空気音が来客を告げて、二人は同時に入口へ振り向いた。
扉の向こうにはティアが立っていた。両手に水盤を抱えている。
――ターナが帰った――
ティアは部屋へ入ってくるなりそう言って、自分の仕事机に水盤を下ろした。
――アレスは恐らく水の星に追っ手が行かないよう、ゲート閉鎖が確定するまではあの場を守ろうとするだろう。あれを閉じるには少々時間がかかる――
机に寄りかかって二人を眺めるティアは疲れた調子で話し続ける。
――私はゴートを止められなかった。私には戦闘能力が無い。アレスの力にはなれない。タスク、悪いが地下へ行ってくれるか。アレスには護衛が必要だ。地下までは私がテレパシーでナビゲートする――
「それ、ほかの人に聞かれたりはしないの?」
ライファが顔を上げてティアを見上げた。
――少々疲れるが、遠距離でも目標を一人に定めることは可能だ。引き受けてもらえるか――
ティアは厳しい表情で答えてタスクの方へと振り向く。
「ああ。当然だ。ライファ」
彼にしては信じられないほど友好的な態度で頷いて、タスクはライファの方へ近づいた。
「もしなんかあったらお前だけでも脱出しろよ。俺らならどうにでもなるからな」
目の前にしゃがみこんで言われた言葉に、ライファは表情をこわばらせる。ライファがいつまで待っても頷かないので、タスクはため息をついて立ち上がった。
「これ、アレスから預かった。壊れるとまずいらしいからお前持っててくれ」
タスクはメモリーチップをポケットから出してライファの手のひらに落とす。
「……気をつけて」
呟いたライファは、しかし決して頷こうとはしなかった。
「ああ。じゃあ、また後でな」
タスクはティアからIDカードを受け取ると挨拶もそこそこに部屋を飛び出ていく。
――ライファ、瞬間移動に必要な水はこれで充分か?――
ティアはさっき持ってきた水盤を指しながら尋ねた。
「……うん。手のひらを浸せるくらいあればいいから」
ライファはまた天理の背中を撫で始める。
早く皆で他力本願寺へ帰りたかった。
「そこを通せ、悠斗」
言いながら近づいてくるゴートの足元に威嚇射撃を撃ち込んで動きを止める。
「断る」
アレスは銃を構えたまま閉まりかけているゲートの前へ移動した。
「来るな。一歩でもこっちに来たら、たとえあんたが相手でも撃つ」
「海を取り戻すなど、出来るわけがないのだ。あきらめろ、悠斗」
ゴートは冷徹な声で言う。
「俺はあきらめたりなんかしない。絶対に」
意地を張っているのが自分なのかゴートなのかわからないまま、アレスは歩みを止めた。ゴートまで距離は約五メートルだ。隙を見せればすぐに距離を詰められるだろう。
「お前の母親のことを忘れたわけではあるまい。あの娘は我々の仇だ」
「だからターナを処分するって? 冗談じゃない。絶対に駄目だ。そんなことをしたら、俺達は永遠に海を失うことになる。わかってるんだろ? 水の星が月と同じだけの重力を維持しているのはターナがいるからだって」
「そうだという証拠は無い」
「証拠ならあるだろ」
ゴートが自分の隙をうかがっているのがわかる。こういうときに限って瞬きしたくなるのは何故だろう。
「あんないい加減な記録よりもこの『頭脳』たちの言葉の方が信憑性がある」
ゴートは直立姿勢を崩して右足に重心を傾けた。意図的にこちらを挑発している。
「……悠斗。外での生活は辛くはなかったか? もうわかっているはずだ。水資源を確保できなければ、彼らの生活水準もこれ以上良くはならない」
「嘘つくなよ! 奪っていってるのはターナじゃない。俺たちの方だ」
怒鳴ってしまってから慌てて銃を構えなおした。射撃の成績はそれほど良くなかった。ゴートはそれを知っている。
「……俺は、偽善が悪いとは思わない。あんたの事も嫌いじゃない。何で俺たちのことほっといてくれないんだろうって、そうは思うけど。ライファがあんた達のために何か出来るなんて、本気で考えてるわけじゃないんだろ? 俺達はフォンターナを傷つけたくなんてないし、あんた達と戦いたくもないんだ。なのになんで……ほっといてやれないんだよ」
――アレス、いいから逃げろ! 今そっちへタスクが向かっている――
精神への接触を求めるような前触れのあとで、ティアの呼びかけが聞こえた。
――すまない、ティア。今ゴートを通すわけには行かないんだ――
隙を見せないように素早く答えて、アレスはゴートへ意識を戻す。
「……父さん。俺は月と海を取り戻す」
「無駄だ。何をしようとフォンターナが私たちを受け入れることなどない」
ゴートは焦り始めている。ゲートが閉まりかけているのだろう。
「違う! 拒絶してるのはターナじゃない。帰還システムが働かないだけだ。あとは月を見つけるだけでいい。だから!」
「そこを通せ!」
説得をあきらめたゴートがイディアー能力を使おうと身構えた。
「嫌だ!」
三年前、インティリアを出たときの喧嘩を繰り返しているみたいだとアレスは思う。
「……やはり、お前はもう私の息子ではないようだな。……アレス」
最後に、その名で呼ばれるところまで。
アレスはゆっくりと引き金を引き始めた。
「父さん!」
不意に地下空洞に響いた声に、アレスは思わず顔を上げる。
「迅斗!? 何でここに……」
ゴートはその隙をついて距離を詰めた。アレスは咄嗟によく狙いもつけず発砲する。銃声が三回、大空洞に木霊した。
「貴様ぁっ!」
状況を把握する間もなくゲート発生装置に叩きつけられる。衝撃に呼吸が一瞬止まった。
「貴様、自分が何をしているのかわかっているのか!?」
駆け寄った迅斗がアレスの襟をつかんで引き上げる。
「……ああ。俺は……わかってる」
目の端に肩を押さえてうずくまっているゴートが見えた。参ったな、と、アレスは思う。
当てるつもりなんて、最初から一つもなかったのに。
「両親を裏切って、ライファもフォンターナも逃がした」
激昂している迅斗に視線を合わせる。さっき衝撃波を放ったのは迅斗なんだろう。とっさに雷撃を使わなかったのはたいしたものだと思う。雷撃を使っていたら後ろの機械にどんな影響を与えるか想像もつかない。落ち着き払っている自分が不思議だった。たぶん、思考が上手く働いていないのだろう。頭でも打ったのかもしれない。
「――この星が、地球なんだよ。……迅斗」
口から出た声がまるで自分のものではないかのように響く。血の味がする。
「……だから、俺達は海を取り戻さなきゃいけないんだ……」
入り口から乱暴な足音が近づいてきた。このタイミングは、まずいかもしれない。
「おいアレス! お前いい加減に……」
入ってきたタスクが息を呑む気配がした。
「……何故、貴様がここに……」
振り向いた迅斗が襟から手を離し、アレスはゲート作動装置に背中を預けながら床に座り込む。今頃になって体中が痛くなってくる。上手く動いてくれないのが忌々しい。
「てめえ……一体……何、しやがった……」
タスクの声が遠く聞こえた。大丈夫だと言わなければならないのに。
二人が何か怒鳴りあっている。
直後に、タスクが全力で炎を繰り出すのが見えた。迅斗も応戦している。ゲート発生装置から放出されている波動と、二人がぶつけ合ったイディアー能力が干渉し合って不協和音を響かせた。二人のイディアー能力がぶつかったところから強い光が生まれる。余波が閉じかけていたゲートへ向かってくる。
部屋全体に光が満ち、湖の中の植物達が悲鳴を上げた。
最後の一瞬、アレスはフォンターナへの門を見上げた。まだ完全に閉じきっていない。
「すまない……」
誰にともなく呟いて、アレスは瞳を閉じた。
部屋の中に満ちるのは、激しさを増した雨の単調なノイズだ。
「……聞こえない。……アレスの……声」
震える声がティア・カフティアのものだと気付くまでにしばらく時間がかかった。ティアは仕事机の前から立ち上がってライファの前に立つ。
――アレスの願いだから……お前は、帰れ。ここで待っていても……あいつらは……お前の仲間は来ないぞ――
ライファの腕についていたイディアー能力制御装置を外しながら、ティアの手は震えていた。
「……どういう……こと?」
本当は聞かなくてもわかっていた。それでも尋ねてしまったのは、頭が上手く働いてくれないせいだ。他に何と言ったら良いのかわからなくて。
――アレスの精神波が途切れた――
「……意識を……失ったって、こと……だよね?」
――違う。そうじゃない。完全に途切れた。少なくともインティリアの中には居ない――
制御装置を握り締めたまま、ティアは深くうつむく。
――お前だけでも……帰って。……そして……月を、見つけてくれ……――
「……ティア……」
「いいから行け! もうすぐここにも追っ手が来る。私は軍法会議はごめんだ!」
ティアは泣いていた。
ティアの泣き顔なんて、初めて見たな、と、ライファはどこか虚ろな心で考える。
年齢相応、に、見える。
呆然としたまま、ライファは水盤に手を伸ばした。イディアー能力の発動を察知した天理が、座っていた場所から走って来てライファの服の裾に軽く噛み付く。
ゆっくりと、周囲の光景がゆがんで溶けた。
瞬間移動の直前にイメージしたものと同じ風景が目の前に現れる。光の波紋が広がるように、狭かった視界が急速に開けていく。
「……アレス……どうして……?」
見慣れた光景に向かってライファは呟いた。
よろい戸が全開になった本堂には、西日が明るく差し込んでいる。他力本願寺のある辺りはよく晴れていた。
型の古いテレビもひび割れた仏像も、何もかもライファが捕らえられた日と同じまま。
ライファはその場にしゃがみこんで自分の肩を両手で抱いた。
「……どうして……」
震える肩に天理が静かに身を寄せる。庭からは単調なセミの鳴き声だけが聞こえる。
「……どうして……?」
ライファの問いに答える者はいない。