第一章 The moon is the sea
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朝の光が開けっ放しの雨戸を通して差し込んでいる。ライファはぼんやりと天井を眺めていた。すすけて模様の見えなくなった天井とそれを支えて交差する梁に、早起きのセミが鳴く声が染み込んでいく。雨音のように、ずっと変わらない音色。ずっとそこにあるから、そこにあるということすらも忘れてしまうような、そんな鳴き声。
ずっと、変わらないと思っていた。このぼろっちい寺でずっと三人で暮らしていくんだと思っていた。
月が見つかった、その後も。アレスもタスクも、絶対に去って行ったりなんかしないと信じていた。
……そう、信じていたんだ。「知っている」なんて嘘だった。自分と一緒にいることで、彼らが何かを失うなんて考えてみたこともなかった。エヴァーグリーンに捕まっても何とかなるなんて、本気で思っていた。
朝の光とセミの声。腹の底が冷たく乾く。
涙は、出てはこなかった。
「早起きは三文の得よ〜!」
声と同時に掛け布団をひっぺりはがされて、迅斗は思い切り狼狽しながら起き上がった。
「さ、起きて起きて。朝ごはんできてるからさ。やっぱり布団が合わなかった? 昨日すっげえ遅くまで起きてたでしょ?」
「あ、ああ……いや、単に慣れないから落ち着かなくて……」
言い訳なのか何なのか、自分でもさっぱりわからない。
「だめよー、そんなことじゃあ。一応軍隊なんだからさー、エヴァーグリーン」
ライファはさっさとはがした掛け布団を押入れにしまいこみ、土間になっている台所へ下りていく。
「あ、テーブル真ん中に出しといてくれる?」
台所へつながる木戸の向こうから指令。
迅斗はなんだか自分がひどく場違いであるような情けない気分で、壁に立てかけられていたテーブルを本堂の真ん中に引っ張り出した。
小さなコンクリートの診療所にぶら下がっている、色あせて雨垂れのあとの染み付いた看板には、不純物の混じった安物のペンキで「高橋診療所」と書かれていた。ライファが高橋先生と呼ぶのは、目覚めたときライファと一緒にいた男性だ。オアシスで倒れていた迅斗を助けたライファが処置に困って助けを求め、診療所の車を出してもらって他力本願寺へ迅斗を運び、身体に異常がないかも診てもらったのだという。
「高橋先生! おはようございます!」
扉の前に立ったライファは勢い良く挨拶した。
「ああ、ライファ君か。すまないね、今手が離せないんだ。勝手に入ってくれてかまわないよ」
「はい、お邪魔します」
奥の方の窓から聞こえた穏やかな男性の声に答えて、ライファは埃で曇ったガラス戸を押し開ける。ガラス戸の蝶番は油の必要性を訴えるうめき声を上げながら開いた。
入ってすぐの待合室には誰もいない。『高橋先生』は奥の診療室にいるらしかった。
「あ、迅斗。ここも靴脱ぐから」
ライファは扉の脇においてあった段ボール箱から二人分のスリッパを取り出して並べ、それから診療室の扉へ歩み寄り、軽く二回ノックする。
「失礼しまーす」
返事も待たずにドアを開ける。ライファに続いて中に入った迅斗は、ゆっくりと周囲を見回した。
殺風景な診療室だ。薬品や医療器具は一つしかない棚と部屋の主人が座っている机にほぼすべて収まっていて、鉄パイプのベッドには錆が浮いている。黄ばんだカーテンには穴が開いているが、ベッドのシーツだけは白く清潔で、床にも埃は落ちていなかった。
「やあ、こんにちは。今日は何の用かな?」
机に座ってカルテに何事かを書き込んでいた白衣の男が黒縁の眼鏡を外して瞳をこする。
「昨日のお礼と、お願いに」
「昨日は、大変お世話になりました」
ライファの「お礼」という言葉に、迅斗は慌てて頭を下げた。白衣の男は楽しそうに笑って頷く。
「ご丁寧にどうも。でもちゃんとお礼はもらっているからね、そんなに恐縮することはないよ」
「……礼?」
迅斗は横に立っているライファに視線を向ける。
「無料だと言っていなかったか?」
「うん、お金は払ってない」
「……礼?」
もう一度尋ねた。
「水。この辺てオアシス少ないから。迅斗を発見したオアシスでたんまりとね。うちはほら、井戸に水が湧いてるから良いんだけど」
白衣の男も机の前からうんうんと頷いている。ライファは迅斗が納得したのを確認してから男に向き直った。
「あらためまして。先生、留守中、どうもありがとうございました」
「いえ……」
ふと高橋の表情が曇る。
「僕が……彼らを止めるべきだったかも、知れませんね。こんなことになるとは……本当に、なんと言ったらいいか……」
「いいえ……たぶん、先生が何を言っても、二人は私を助けに来てくれたと思うから……」
笑顔を消したライファは、微かに眉根を寄せて呟いた。
「私、旅に出ようと思うんです。……月を、探しに。あの、それで、お寺の井戸、そのままにしておきますから。ご自由にお使いになってくださいね」
うつむいたライファに、高橋が立ち上がって歩み寄る。
「ありがとう。じゃあ、その使用料代わりに、お寺の管理はきちんとしておくからね。いつでも帰ってきなさい。あそこは君の家なんだから」
「……ありがとうございます……本当に……」
ライファは鼻声で頭を下げた。高橋が慰めるようにその肩を叩く。迅斗は思わず視線を窓の外へと逸らした。罪悪感と疎外感に息が詰まるような心持ちがして、半ば八つ当たりをするように強い視線で窓の外を睨みつける。
ふと、窓の外に何か動くものが見えた。自然と視線が吸い寄せられる。動くものは次第に近づいて大きさを増し、荒野との境に頼りなく立つ枯れかけた生垣をすり抜けて庭へと入り込んでくる。
診療所の前に停車したのは、見慣れたバンだった。
「……エヴァーグリーン……?」
迅斗は呟き、室内に視線を走らせる。ライファと高橋はまだ気付いていない。一つ舌打ちをして、勢い良くカーテンを引いた。
「……何? ……どしたの?」
カーテンを引く音に、ライファと高橋が顔を上げる。
「エヴァーグリーンのバンだ」
「……私を探しに来た?」
低く答えた迅斗の言葉に、ライファの表情がさっきとは違った方向に曇った。
「わからない。ともかく、お前は隠れてろ。どうにか追い返してみる」
「ライファ君、ちょっと狭いけど、手術室のベッドの下にでも」
高橋が奥の扉を開け、ライファが中に滑り込む。
「君は僕が単独で助けたことにしよう」
高橋は早口で言って手術室の扉に鍵をかけた。次の瞬間、それを待ち受けていたかのように診療所のドアが叩かれる。
「僕が出るから、君はそこに座って待っていなさい」
高橋の言葉に従って、迅斗は診察用の椅子に腰掛けた。
もしもここで、エヴァーグリーンには戻らないと言ったら、本当にいろいろなものを手放すことになるのだろうと思う。今まで築いてきた人間関係や地位、同じチームの仲間達。母が亡くなってからは滅多に話すことがなくなってしまった厳しい父親。インティリアに属する彼らのことを考えると、拠り所を手放そうとしていることがひどく心もとなく感じられる。本心ではまだ迷っているのだという実感が襲ってくる。
それでも、真実を知りたかったし、ライファを一人で行かせたくないと思った。任務のためとはいえ、自分が彼女を一人にさせてしまったのだから。
時は数分さかのぼる。
「台所で干されていたふきんの様子からすると、まだそう遠くへは行ってないと思うんですがね」
移動式本拠地であるバンの後部座席で、ノエルが地図を睨みつけている。レルティは地図を隣から覗き込み、なんて人口密度が低い土地なんだと感心していた。カイラスはバンの運転に精を出し、アクアは他力本願寺に残って手掛かりを探している。
「で、とりあえずどこ行けばいいんだ?」
運転席のカイラスが荒野を突っ切るでこぼこ道を睨みつけながら尋ねた。
「近くに診療所があるんですが、とりあえずそこの人に聞き込みをしてみたいですね。タスクさんの性格からすると、何度か世話になったことがあるんじゃないかと思うんですよ」
「ああ、あの喧嘩好きって奴か」
ライファの歌を聴いていたカイラスはあっさり納得する。
「迅斗の居場所、早くわかるといいなあ……」
レルティは小さく呟いて、ふと窓の外を見た。
「あ、ねえ、あれ、診療所の看板じゃない?」
「そのようですね」
ノエルがレルティの肩越しに窓の外を見やり、眼鏡の下の瞳を細めて頷く。
高低差の多い荒野の中、ところどころにそそり立つ岩々が途切れたあたりに、乾いて枯れかけた生垣に囲まれた四角いコンクリートの建物が建っていた。カイラスは生垣の切れ目から内側に入り、引かれた白線に沿ってバンを停車させる。
「手掛かりあるかな」
レルティは真っ先に扉を開け、車から降り立って首をかしげた。
「さあなあ。でも、あると良いな」
「ですね」
エンジンを止めて降車したカイラスが頷き、最後に降りたノエルが勢い良くバンのドアを閉める。
「では、行きましょうか」
黄ばんだカーテンにさえぎられて診療所の中の様子はわからない。レルティは少しだけ身体を硬くして、扉を叩くノエルの背中を見守った。