第四章 Blind

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 エヴァーグリーン本部の極秘資料室は、無菌状態のはずなのに妙にすえたような息苦しい匂いで満ちている。長い年月の間に酸化し、風化して粉塵と化した資料が動くたびに舞い上がるのも不愉快だ。
 その決して恵まれているとは言えない環境のど真ん中で、ノエルは懐中電灯一本を片手にひたすらに資料をめくっていた。壁際の書架から引き出された保存箱は開きっぱなしのまま乱雑にその辺に積み重なり、中に入っていた資料もノエルの足下にはたき落とされた形のまま累々と横たわっている。資料保管係が見たら憤死しそうな光景の中、がさがさと落ち着きなく資料を漁っていたノエルの手がふと一点で止まった。
「これは……」
 眼鏡の奥で、ノエルの目は驚愕に見開かれる。
「やはり、そう……だったのか……本当に……」
 報告書を持つ手に力が入って震える。噛みしめた奥歯が軋む。
「だとしたら、僕は……あいつを許しておく訳には……!」
 苦しげに細められた瞳の奥に、強烈な感情の炎が灯る。ノエルは服の下からロケットを引っ張り出して、強く強く握りしめた。手の中で鎖が鈍くきしむ。
「ノエルさん……?」
 控えめな女性の声に、ノエルははっと表情を引き締めた。振り向けば、入口に桔梗が立っている。光を背にしているので表情は見えないが、それでもひどく驚いているのが見て取れた。
「こんなところで、何を?」
 困惑の滲む声に、ノエルは少し迷った末、穏やかな微笑を浮かべてみせる。
「困ったな」
 短いため息と共に軽く肩をすくめた。
「マズイところを見られてしまいましたね」
「まずい……ところ?」
「ええ、ちょっと、調べていたんですよ」
 こわばった表情の桔梗に向かって、ノエルは報告書の束を振ってみせた。
「フェルゼン様の目的をね」

 無理矢理ついてきたことを、もしかして怒っているのかしらと、今さらになって桔梗は運転席のノエルの横顔を窺う。ノエルの運転するジープは、レルティ達と待ち合わせを約束したウィーゼ開発地区へ向かい、荒野のでこぼこ道を疾走している。
 フェルゼンの目的を探ろうと忍び込んだ資料室で、ノエルから知らされたフェルゼンの計画は恐るべきものだった。
「フェルゼン様は……本当にあんな恐ろしいことを考えていらっしゃるんでしょうか」
 真っ直ぐ前を見据えるノエルの厳しい横顔に向かって、桔梗はそっと尋ねかける。
「そうとしか判断のしようがなかったのは事実です」
 いつものにこやかさなど欠片も見あたらない冷たい声が返ってきた。
「残らなくて良かったのですか? あなたの名も移住者名簿に載っていましたよ」
 眼鏡の奥のノエルの瞳は、桔梗の本音を探るように細められている。
「そんな……! そんなこと!」
 体を捻ってノエルに向き直る。斜めにかけたシートベルトが胸に食い込む。
「み、見損なわないでください! 私は、私はあんな悪魔の計画に荷担するつもりはありません!」
「悪魔の計画、ね……」
 ノエルの口元に酷薄な微笑が灯った。いつもにこやかな優しい人、という印象しかなかったノエルが、急に見知らぬ別人に見えてしまって、桔梗は思わず身震いする。
「確かに、何としても止めなければならない計画でしょう」
 この人は本当に私に向かって話しているのだろうかと、疑わずにはいられないような口調だった。まるで、別の場所にいる別の誰かに向かって解説しているような冷淡な口調。事務的な調子にも関わらず深い憎悪と怒りが透けて見えるようで、寒気が増す。
「水の星維持システムを破壊し、管理権限を奪い取り、水の星にコロニーを作る。移住できるのは一部の特権階級のみ……彼らが移住した後、水の星に通じるゲートは閉じられ、水不足がますます加速するこの世界に一般の人々は取り残される」
 ハイウェイの街灯がノエルの眼鏡に反射して彼の表情を隠す。
「計画が成功しようと失敗しようとこの世の破滅。止めないわけにはいきませんね」
 呟いたノエルの口元に、歪んだ微笑が浮かび上がった。
「そのために、桔梗さん。あなたにも協力していただきたいものです」

「やっとついたーああもう、体中ばきばきー」
 車から飛び降りたレルティが、ゆったりと周囲を見回しながら肩を回す。砂丘の頂上で止まった車の前には、砂漠の真ん中に突如出現した蜃気楼のように現実感と重力を感じさせない遺跡が小さな町一つ分ほどの規模で広がっている。キノコの傘だけを逆さまに適当に積み上げたような建築物は、開発途中で放棄された姿のまま砂漠の砂嵐に風化しつつある。
「うわー、なんかすごいねー」
 後部座席から降りてきたライファが、感嘆のため息をついた。
「こんな大っきかったんだ」
 ――中に入る必要はないだろう。ノエルと合流したらさっさと次の行動に移った方が良い――
 車から降りもせずに冷静な意見を述べるのはティアだ。
「ノエルって奴はいつ来るんだ?」
 助手席にふんぞり返ったままのタスクが興味なさそうに尋ねる。
「そこまで時間はかからないはずだよ。あたし達と同時くらいになるんじゃないかって言ってたしね。もしかしたらもう着いてるかも」
 アクアが丁寧に答えているのに、対するタスクの反応は「ふーん」という何とも薄くて素っ気ないものだ。カイラスは双眼鏡を片手にバンの屋根によじ登り、ノエルが来るはずの方向を見張り始める。
「あれ、そうじゃねえのかよ?」
 興味なさそうにお化けキノコの方へ視線を放ったタスクが、ふっと眼を細めて呟いた。
「どれだい?」
 アクアが額に手をかざしてタスクの視線の先を探る。
「どれって、あれ以外にどれがあるんだよ」
「あれってどれだい? すまないがあたしにはさっぱり……」
「あー……めんどくせ。あの程度の偽装も見抜けねえのかよ」
 タスクは助手席の窓からおもむろに片手を突き出し、
「あっ、ちょっ! タスク!?」
 その手のひらに生まれた炎の塊にライファが制止の声を上げるのを無視して、イディアー能力を発動させた。

「いやあ、まさかいきなり味方に攻撃されるとは思いませんでしたよ。うっかり反撃してしまうところでした。タスクさんも合流しているとは思いませんでしたしね」
 タスクのイディアー能力で車体に被せていた岩の偽装を燃やされたノエルは苦笑混じりにそう言った。二台の車を風よけに、一同は車座になって会議を始めたところだ。
「さっさと正体現さねえからだろ」
 攻撃をしかけた張本人は全く悪びれた様子もなく、輪から一人離れたところで車の車輪に寄りかかっている。
「様子を探っていたんですよ。予定していた人数とだいぶ違いましたからね。何にせよ、リーダーもご無事で何よりです。怪我ももう大丈夫のようですね」
「あ、ああ」
 気まずそうに頷いた迅斗にノエルは小さく微笑み、そしてすっと姿勢を正した。
「フェルゼン様の目的を調べてきました」
「話してくれ」
 迅斗に一つ頷いて、ノエルは説明を開始する。
「フェルゼン様の目的は、水の星に移住することです。水の星への移住計画は五年前に一度頓挫していますが、今度はその反省を踏まえ、まず水の星維持システムを破壊することから始められるようです」
 淡々と言葉を紡ぐノエルは機械人形のような無表情だ。
「迅斗さんのお母様、そして僕の妹も犠牲となったあの移住計画……失敗の原因は、水の星維持システムであるフォンターナの拒絶でした。フォンターナの役割は水の星の維持、アレスと融合して敵意を忘れさせる操作および海の浄化。そして、アレスたちの敵意が再燃しないように、帰還システムが動き出すまでは地球からの侵入を排斥すること、でしたね」
「う、うん」
 視線を受けたライファが戸惑いがちに頷く。
「フォンターナの排斥システムは、当初の予定よりも強化されているようです。おそらくはフォンターナと同化したアレス達の意志によるものでしょう。フォンターナの排斥システムが働いた結果、コロニーは強烈な津波によって破壊され、多くの人命が失われました」
「そんな……ターナが人を殺すなんて……!」
 ライファが悲鳴じみた声を上げるのを、ノエルは冷静すぎる視線で押しとどめた。
「何にせよ、フォンターナの存在は水の星への移住を実行に移すに当たっては大きな障害。フェルゼン様はその障害を除くべく、水の星維持システムを破壊し、管理権限を奪い取るつもりです。しかし管理権限を奪い取ったとしても、海を地球に帰還させられるわけではない。帰還システムであるライファさんの力を、彼らは利用するつもりはないようです。むしろ計画の一部には、ライファさんの能力を封印するという節すらも組み込まれていました。つまり実行に移されるのはあくまでも水の星への移住計画のみ、ということです」
 淡々とした解説に、レルティが小首を傾げた。
「でもさ、ライファちゃんには悪いけど、それでみんな水の星で生きていけるなら別に悪い計画じゃないよね?」
 レルティの呟きに、ライファは肩を落として俯く。
「全ての人間を移住させることなど不可能です」
 ノエルは淡々と、しかし強い怒りを滲ませた声で言い切った。
「移住者名簿に名が記載されていたのは一部の特権階級のみです。それを知った一般の人々が反乱を起こすことも見越して、彼らは水の星から我々を攻撃するための準備も整えています」
 重苦しい沈黙がその場に舞い降りる。
 ――インティリアの一部の特権階級が、選ばれし者のみが水の星に移住できるという思想のもとに秘密結社を結成していることは知っていたが――
「エヴァーグリーンの上層部にも、想像以上に広がっていたようね」
 ティアとフィニスも沈痛な表情で顔を見合わせた。
「何としても、止めなくては……」
 迅斗も拳を握りしめるが、一人タスクだけは飄然とした態度を崩さない。
「結局はフェルゼンって奴を出し抜いて海を取り戻しちまえば良いだけの話だろ? やること変わらねえじゃねえか。さっさとエヴァーグリーンに侵入して、『頭脳』? とか言う奴のパワー奪って海を呼び戻しちまおうぜ」
 面倒くさそうに言い放たれた言葉に、ティアがゆっくりと微笑を浮かべる。
 ――そう、だな――
「そうと決まれば行動あるのみだね」
 アクアが言って立ち上がる。
 ――『頭脳』との接続は私が行おう――
「エヴァーグリーンに侵入する方法も考えなくてはな」
「こりゃ忙しくなりそうだ」
 口々に言って立ち上がるティアや迅斗やカイラスを、レルティが見上げて片手を上げた。
「でもその前にさ、腹ごしらえしようよ。私おなか空いちゃった」