第零話 旅立ち 〜The maiden flight〜

 悪天候だから、などということは考えなかった。どちらにしろ、この塔の周りが晴れることなどもう有り得ないのだ。あとは開発者が「嵐の夜でも大丈夫」と豪語した自動操縦装置の性能を信じるしかない。
 研究塔の中には彼女一人しかいなかった。塔の周囲では風の神々が荒れ狂い、外界との接触は絶たれている。研究塔は食料を備蓄しておくような設備は持ち合わせていない。旅立ちの準備と飛行機のセッティングと操作手順の学習をしている間に、わずかに残っていた食料も実験動物たちも食べつくしてしまった。申し訳ないと思いながら、研究仲間の部屋をあさってようやくかき集めた菓子類は、ここから持ち出すスーツケースの隅に入っている。
 格納庫の薄暗い電灯の下に浮かび上がる、巨大なひれを持ったイルカのような機体を見上げ、少女は祈るように瞳を閉じた。ついさっき、機体の最終チェックを終了した。機体の前には電磁カタパルトの滑走路が真っ直ぐに伸び、鉄製の分厚い扉の向こうは空。
 こんなときなのに、自分はこんなにも罪深いのに、それなのに心が躍る。
 ――空。
 少女は格納庫の隅に置いておいたアルミ製のスーツケースを拾い上げ、滑走路の上に置かれていた旧式の車輪止めを遠くに押しやってイルカの脇腹から機体に乗り込む。操縦席は巨大な外観に相違して狭い代わりに、気密性と耐久度が高い。前後に二つある座席を取り囲むようにしてモニター。その上部に緊急時手動操縦用の分厚いアクリル製の三重窓。
 後部座席にスーツケースを置き、安全ベルトで固定。前に向き直り、ハッチを閉じ、エンジンを作動させる。安全ベルトをきつく締める。各種計器類の示すデータを一つ一つ確認。すべて異状なし。時刻は午前零時二十八分。自動操縦装置は間違いなく目的地を。
 リモコンで格納庫の扉を開き、計器を誤作動させないようにバッテリーを抜いて、脇の地図類を収納するケースに放り込む。ふと目に入った後部モニターの端には、格納庫の奥に展示されているプロペラ機が吹き込んだ風にあおられて後退する様子が映っていた。
 少女は首にかけた不恰好な水晶のペンダントを握り締め、もう一度瞳を閉じてからそれを服の下に押し込む。
 エンジンが充分暖まったのを確認し、ブレーキを解除する。滑走路に灯が点る。機体が浮き上がり、自動操縦装置に従って加速を始める。体がシートに押し付けられるような感覚。格納庫まで吹き込む強風にあおられ、機体は不安定に揺れながらさらに加速する。機体を塔へ押し戻そうと風が吹き付ける。その風を切り裂くようなスピードで、機体は格納庫から飛び出した。
 前面のモニターが白一色に変わって、雲がここまで降りて来ていたことがわかる。揺れが数倍激しくなり、少女は瞳を閉じる。
 風と雲の塊が機体に襲い掛かる様を、少女が見ることはなかった。
 コックピットの中で瞳を閉じたまま、少女は意識を手放した。

 ふと気がつけば、揺れはすっかり収まっていた。少女は恐る恐る目を開き、顔を上げる。
 前方と側面のモニターが、青に変わっていた。さらに顔を上げる。ガラスを通して見える蒼穹。どこまでもどこまでもどこまでも。空と自分だけが世界のすべてになる。
『当機はこれより』
 自動操縦装置の金属質な声は遠い。
 真っ白な雲海は凪いでいる。どこまでも平坦な白い雲海と、どこまでも青い空が、今までに見たことがない長大な直線を描いて地平線を形作っている。凪いだ雲には、少女の乗った機体の船影だけが映っている。
 少女は天空を見上げたまま動かない。
『巡航速度にてユリンへ向かいます。目的地の天気は雨……』
 無機質な声が淡々と告げる。制御装置とエンジンのかすかな唸り。分厚いガラスを通して感じる太陽のぬくもり。
 空を見上げたまま、ゆっくりと息を吐き、少女の意識は再びそこで途切れた。

 目覚めると全身が痛かった。操縦席は左前方を下にしてわずかに傾いていた。位置確認のため、自動停止していた計器類を作動させる。右前方と左側、左後方以外のモニターはエラーを返し、レーダーと無線は沈黙している。周囲は森だ。後方には機体がなぎ倒したのだろう倒木の群れ。燃料切れか、他の要因によるものか、ともかく不時着したことだけは間違いない。時刻は午前五時四十二分。右手に広がる東の空は薄赤い。燃料計はゼロを指し、機体の損傷は激しい。再飛行は不可。酸素も残り少ない。
 スイッチを押して上部ハッチを開けると、新鮮な空気と鳥の鳴く声がなだれ込んで来た。薄く曇った空を、白い鳥が編隊を組んで飛び過ぎる。安全ベルトを外し、思い切り空気を吸い込み、全身の力を抜いて空を見上げる。薄い雲と右前方の分厚い窓ガラスを通して、それでも明るく射し込む光。周囲は針葉樹の海。東の空に手をかざす。光が透けて、手のひらが赤く染まる。手を下ろして瞳を閉じる。知らない匂いがする。どこか懐かしいそれが、森に特有の木々や草花の匂いだと少女は知らない。
 倒された木々に宿っていたのだろう、力の弱い神々が嘆く声がふと耳に飛び込んできて、少女は表情を曇らせる。
「……ごめんね……」
 呟いて、身体を起こす。少し腹ごしらえをしようとスーツケースに手を伸ばし、少女は動きを止めた。
 左後方のモニターにレプカ――楽園にのみ生息する、うさぎのような長い耳に薄茶色の長毛を持った草食の哺乳類。おとなしいが力が強く、瞬発力もあるので、農耕・乗用に使われる――が映っている。拡大。手綱と鞍。野生ではない。
 急に怖くなった。武器は持っていない。身を守るための魔法は知らない。
 少女は胸元から水晶のペンダントを取り出し、震えながらそれを見下ろした。削り出したときのままのような不恰好な水晶の中を、赤や青や緑の光が直線的で複雑な回路を描いて走り回っている。その光を見つめるうちに、震えはゆっくりと収まっていく。少女は一度瞳を閉じ、意を決して顔を上げた。生きているモニターをすべて動かして出来る限り全方位を探る。
 最初に『彼』を捉えたのは右前方のモニターだった。少女と同い年くらいの黒髪の少年。四角い麻布に頭を通す穴を開け、脇を縫っただけの質素な上着に同じ生地のズボン。ベルト代わりに結ばれた布だけが、くすんだ青と黄色で彩色されている。足に包帯のような布を巻き、その上からサンダルの紐を結び、腰にはなぜかそれだけが近代的なデザインの、無機質で真っ白な剣。
 機体の外壁に片手をついて佇んでいた少年は、カメラの動きを察知したのか、動物的な動きで飛び退いて剣の柄に手をかけ、真っ直ぐにこちらを睨んできた。
 モニターとレンズをはさんで、少女と少年の視線が交差する。少女は呼吸も忘れ、食い入るように『彼』を見つめた。

 少女は、『彼』を知っていた。