第一話 予兆 〜The beginning〜

 巫女姫と呼ばれている少女は丘の上に立っていた。
 視線を上げれば、草原が風に波打っているのが見える。自分は見たことがないが、海はこれに似ているのだという。同じ動きと声を持ち、違う色と温度を持つ。
 それを語って聞かせたひとは、もうこの世界のどこにもいない。それを思うたび、呼吸が少しだけ苦しくなる。
 波打つ草原の向こうには住み慣れたクスファムの村がある。畑の間に点々と見える、黄色い泥のレンガで作られた家々。丸太の囲いに屋根が載っただけの家畜小屋。いくつかの畑では、レプカが鋤を引いている。村の向こうには、深い森を抱く山々が連なる。
 もう一度視線を村に戻す。村の中で一際目を引くのは、村の中心にあり、他の家の倍ほどの大きさと白壁、赤く塗られた柱を持つ社だ。村で唯一高床式の造りになっている社には、巫女姫とその補佐をする長老たちとが住んでいた。
 巫女姫は土地神の声を聞き、村を導く役目を持つ。クスファムの村を守護する土地神は風の形を持っていて、その声を聞くことができるのは巫女姫であるその少女だけだった。今も、目を閉じて耳を澄ませば、吹きすぎる風の歌声が聞こえる。だが、共にさざめいているのだろう他の神の声は聞こえない。よその村には木や岩の形をした神もいると聞くが、少女は風の声しか聞くことができない。
 昼をわずかに過ぎた陽光は薄く張った雲の向こうに隠れて見えないが、村を照らす光は明るい。巫女は村から視線をめぐらせ、己の背後、丘の天辺近くに生えている大樹へと振り向いた。
「テオ」
 大樹の根元、奇妙なほどに飾り気の無い白い剣を抱えて座っている少年に、巫女はことさらに無愛想な調子で呼びかける。黒髪の少年は、村人たちの誰とも違う、剣と同じくらい飾り気の無い動きやすい衣服に身を包んでいた。村人たちの服には、魔除けの紋様が赤や緑で染め抜かれているが、少年の服は生成りのままだ。クスファムの村でその魔除けを身に着けていないのはテオ一人だった。
「何の用だ」
 目を閉じて座っていた少年は、視線だけを上げて巫女を仰ぐ。漆黒の髪の隙間から、黒曜石のような強い視線が巫女を射る。テオとは随分と長い付き合いになるが、巫女は未だにこの視線に慣れることができないでいた。
「ばば様が呼んでいる」
「俺をか」
 明らかに快くは思っていない調子で、テオはため息をついた。
 どうしてこの男はいつも他人を拒絶するような態度を取るのだろうと、巫女は内心泣きたいような気持ちになる。
「そうだ。ここの見張りは今日はもういい。ばば様を待たせるな」
 巫女は怯みそうになる自分を奮い立たせて高圧的な言葉を投げかけた。少年はもう一度ため息をついて立ち上がり、そのまま巫女には一瞥もくれずに村の中心にある社へと歩き出す。相変わらず愛想も礼儀も無い。彼にとっては、巫女の地位など意味が無いものなのだろう。
 不機嫌にテオを見送った巫女は、自身も適当な距離を空けてテオの後に続いた。

 クスファムの村は高原にある。周りを森と草原に囲まれた小さな村だ。森は豊かでよい作物を実らせ、草原に住む動物たちもよく肥えていた。村人たちは飽くことはなくとも飢えることもなく、単調な毎日に感謝しつつ日々を過ごしていた。稀にやってくる肉食の野生動物たちも、村に手を出さない方が良いことは知っていた。
 長い間、同じような毎日が続いていた。
 そして誰もが、それがずっと続くのだと、心のどこかで思っていた。

 深く頭を下げる村人の何人かに応えつつ、巫女は社へ戻った。
 村の政(まつりごと)のすべてを執り行う社は、三方は漆喰の壁だが、入り口のある側の壁はすべて開け放たれた作りになっている。内と外を隔てる仕切りは一枚の簾。簾の外側には手すりの無い欄干が一段低く作られていて、巫女にお伺いを立てる村人たちが座る場所となっている。
 巫女は社の正面の階段を上り、簾を押し開けて中へ入った。藁を丸く編み、鮮やかな色に塗って作った小さな敷物の上に、白髪に色とりどりのビーズを編み込んだ長老が座している。テオは藁そのままの色をした敷物には腰掛けず、立ったまま長老を見下ろしていた。
「では、そこへ行って確かめて来れば良いのだな」
 村の作法を無視した態度に、巫女の視線は自然と険しくなる。
「そうじゃ」
 長老は大して気に留めた風でもなく、穏やかに頷いた。
「出発はいつが望みだ」
「早ければ早いほど良い」
 テオはその返事に、無意識らしい動作で右手を剣の柄に添える。瞬間、剣の鞘を稲光にも似た光が走った。
「では、準備が出来次第出発する」
 用件のほとんどはどうやら話し終えられていたらしく、テオはそれだけ言うと踵を返した。簾を押し開けた姿勢のままやり取りを見守っていた巫女の脇を、テオがすり抜ける。すれ違う刹那、巫女は早口で囁いた。
「よそ者は礼儀を知らぬと見える。ばば様を見下ろして口を利くなど」
 テオは返事を返さなかった。

 村を出発するテオを見送る者はいない。クスファムの村のほとんどの住民は、村から一歩も出ることなくその生涯を終える。他の村の情報は定期的にやって来る商人たちが持ってくる。その情報のほとんどは、そのままクスファムの村にも当てはまるような事柄で、真新しさはない。だから村人は外の世界に興味を持たない。好んで村の外に出歩くテオは、表立って敵意を向けられることこそなかったが、奇異の視線を向けられていることは確かだった。
 変わり始めたのはつい最近のことだ。定期的にやって来ては、格安で食料や衣類を売り捌いていた商人たちが、ここのところ滅多に姿を見せなくなった。村に野生の獣が侵入し、子どもが怪我をした。空の色が変わった。薄く張った雲に陽光は遮られ、夏を目前にして寒い日が続いている。もう幾日も空が晴れない。
 いつもと変わりなく見える生活を続けながら、少しずつ村人たちが苛立っていく様がわかった。村では存在しない者として扱われることが多いテオに、長老が頼みごとをするなどという事態もその一環なのだろう。
 先刻、長老は老齢故にくぐもった聞き取りづらい声でこう告げた。
「昨夜、二つ向こうの山に何かが落ちたのを見た者が居る。何か禍々しき事の前触れやも知れぬ。正体を確かめて来てはくれぬか」
 常ならば、山二つも隔たった場所のことを、よそ者に頼ってまで調べようなどとは考えなかったはず。
 レプカの背にまたがり、剣の位置を直しながらテオは思う。
 何事かが、起こっているのだ。村の外の、彼らがあずかり知らぬ場所で。
 向かう先は、道といえば獣のつけたものしかないような、暗く深い森だ。

 目標地点まで半分ほどの道程を残して、テオは野営の準備を始めた。クスファムの村に腰を落ち着ける以前は、母親と二人きりで旅暮らしだった。その辺りの手際は慣れたものだ。森の中、倒木の跡だろう小さな空き地に焚き火を作り、村から持ってきた食料を温めて夕食を取る。

 夕食を食べ終えた後、少し離れたところで草を食むレプカを眺めながら、テオは小さくため息をついた。うっそうと茂った下藪に視界は狭く、薄い雲に遮られて弱々しい月光は森の底までは届かない。時折、見る者を幻惑するような調子で頼りなげな光を投げかけるだけだ。
 テオは剣を引き寄せ、獣除けの呪文を小さく唱える。その言葉に、雷(いかずち)の神の宿った剣が反応して白色光を放つ。呪文が上手く発動したのを確認して、テオはようやく肩の力を抜いた。
 今日は何故かやけに疲れる。見られている、ような気がするのだ。
 警戒心を完全には捨てられぬまま、剣を抱えて目を閉じた。

 真夜中、テオはふと目覚めて立ち上がった。焚き火の炎は既に消え、月も地平線の彼方に沈んだ後だ。鼻先すら見えないほどの暗闇の中、木々のざわめきと森の匂いだけが強い。
「……リョク」
 近くに居るはずのレプカを呼ぶ。軽い足音を立てて身を摺り寄せてきたレプカの背を優しく叩き、注意深く辺りの気配を窺った。
 夜風に乗って漂うのは獣の匂い。そして微かな呻き声。気配は複数。囲まれている。
 テオは剣の柄を握る手に力を込め、低く呪文を唱えた。
「……わが望みを糧と成し、光を創造せよ」
 呪文の完成と共に剣に宿る神が生み出した光が、『獣』たちを照らし出す。このあたりの森に生息している狼にも似ていたが、肥大化した牙と昆虫のような複眼は、狼のそれではあり得ない。
「走れ!」
 獣たちが光に怯んだ隙に、テオは片手に抜き身の剣を握ったままレプカの背に飛び乗った。暗闇にまぎれて正確な数はわからないが、獣の数は二十体近い。レプカは周りを囲んでいた獣の群れを飛び越え、全速力で森を駆け抜ける。テオは姿勢を低く取り、ぶつかってくる木々の枝や飛び掛ってくる獣から身体を守った。握った剣は白色光を放ち、ほんのわずかに視界を照らす。

(何だったんだ、一体)
 テオは獣の群れから充分な距離をとってから、レプカの背に乗ったまま剣を一振りして血糊を払う。逃げる途中で飛び掛ってきた獣を一匹斬った。神の宿った品であるせいか、テオの剣に血糊がこびりつくということは無い。ほんの一振りで剣は元の輝きを取り戻す。
「レーファレス、助かった」
 テオは剣に宿る神に小さく話しかけた。テオには神の声は聞こえないが、剣に宿る雷神はテオの言葉を理解しているはずだ。
 レプカは全力疾走で乱れた呼吸を整えるように、木々の途切れた崖の縁をゆっくりと歩いた。
(獣が人を襲うなど聞いたことがない。ましてあの獣は……)
 テオは眉根を寄せたまま剣を鞘に収める。崖の縁の視界は広い。見渡せば、東の空がほのかに白み始め、クスファムの村へと続く樹海を照らし出している。
「リョク、仕方ない。今日はこのまま旅を続けよう」
 まだ息の荒いレプカの首筋を叩いてやると、レプカは今度はゆっくりとした足取りで、目的地の方へと歩き始めた。