第九話 旅の終わり 〜The sky〜

 車の振動が変わったのに気づいて目を上げると、窓の外にユリンの全景が見えた。
 ユリンへ続く道は定期的に補修が施されているのか滑らかで、幅も広く取られている。その向こうに見えるユリンの町は、険しい岩山の懐に抱かれ、威圧的な高い城壁に囲まれていた。見るからに堅固な要塞だ。城壁の向こうにはいくつもの砲塔がそびえ立ち、銃口が町の外を睨み据えている。一番高い砲塔に設置された高射砲は、目を細めてよく見ると周囲に幾何学模様の光をまとっていた。おそらくあれが、先ほど風の神を撃った対神族砲なのだろう。
 鋼鉄製の巨大な城門はランたちのために開けられることはなく、車は脇の通用門からユリンの町へと滑り込む。
 門の向こうに広がっていたのは、奇妙なほどに牧歌的な町並みだった。赤レンガ造りや木造のドイツ風の家々が立ち並ぶ様子は、童話の世界を模したようにも見える。町を縦横に走る石畳の街路には私服の人々が行き交い、家々の窓辺には花が飾られていた。平和な町並みと、物々しい城壁や砲塔とのコントラストが、まるで何か悪い冗談のようだ。
 ランたちを乗せた車は、町並みを突っ切る大通りを北へ向かって走っていた。向かう先にそびえ立っているのは、むき出しの岩肌と切り立った崖が特徴的な、美しさよりも寒々しさを感じさせる岩山だ。麓に突き出した岩山の一部が台地のようになっていて、目指すユリン研究所はそこに建っていた。
 ふと、視界の隅でテオが身じろぎするのが見えた。
「テオ」
 ランは窓から視線をはがし、テオの方へと身を乗り出す。
「大丈夫?」
「……ああ」
 テオは瞬きをしながらそう言って、不思議そうに窓の外を見つめた。
「ここがユリンなのか?」
「うん」
「思っていたのと……随分違う」
 テオの瞳がまぶしそうに細められる。つられて目をやった外の風景はあまりにも平穏で、確かに戦車や兵士ばかり見てきたテオの瞳には予想外に映るのだろう。
 車が研究所のある台地へ伸びる坂へ向かって右折する。視界が移り変わって、テオから見える窓に研究所が姿を現した。
「あれは?」
 観測塔のドーム状の屋根を指してテオが尋ねる。
「あれはこの楽園の研究施設、神々を捕えるための拠点だった場所です。あそこまで行けば治療を受けられますよ」
 ランが口を開く前に、車を運転していた施設の職員が答えた。
「神々を……」
 テオの声に混じる険しさに気づいたのか、バックミラーごしに見える助手席の職員の表情が苦笑に変わる。
「今はこの町を守る主要施設の一つです。神々の捕獲は行っていません。しばらく前から本国との連絡が途絶えてしまったので、我々は自分たちの判断で動くしかないんです。神々を捕えることに反対する職員も多かったため、多数決で捕獲の廃止が決定しました。勝手な行動ではありますが、罰則を科せるだけの組織も本国にはもう残っていないでしょうし」
「そうか……」
 テオは複雑そうな表情で呟いて、瞳を閉じた。

 それから特に会話もないまま、車は研究施設にたどり着く。
 車は研究所の周囲を半周して裏口に回り、ガレージへ入った。様々な型の車両が並ぶガレージを奥まで進み、自動扉の前まで進んだところで施設職員は車を停止させる。
「着きましたよ」
 運転手の言葉にランは頷き、中から後部座席の扉を開いた。待ちかまえていたように正面の自動扉が開き、中から白衣の女性が歩み出てくる。
「お待ちしておりました。所長のリーン・ヴァーミリオです」
 白衣の女性は楽園の言葉で言って一礼し、職員たちを手伝ってテオを乗せた車輪付きのベッドを車から降ろした。降ろされたテオは、天井の明かりにまぶしそうに瞳を細める。蛍光灯の白い光は、薄曇りの空に慣れた目には眩しく映る。レプカもテオの後を追うように、おそるおそる車から降りてきた。
「初めまして。ええと……」
 ランに向き直ったリーンは、問いかけるように首をかしげる。
「セルフィティー研究所の紫月ランです。神々の影響を遮断する結界の設計図および神々の影響による障害の治療法のデータを持って参りました」
 ランは首にかけていた水晶のペンダントを外しながら言った。繋がれていた鎖からようやく解き放たれたような、得も言われぬ安堵感に肩の力が抜ける。これで終わり、というわけではないのだけれど。ランは自らを戒めながら、ペンダントをリーンに向かって差し出す。
「お役目ご苦労様でした」
 リーンはペンダントを受け取りながら微笑んでランを見下ろした。
「楽園全土を覆えるだけの結界を始動させるには大きな魔力が必要です。始動に当たり、私の魔力を提供致します」
 ランは事務的な口調で宣言する。楽園全土を覆うほどの巨大な結界となれば、効果はあまり期待出来ないかもしれない。けれど、各集落ごとに個別に結界を張るための時間を稼ぐためにも、これは絶対にやっておかなくてはならないことだ。
「ありがとうございます。記録に残っている中では最も大きな魔力を持った方のご協力です。結界始動は問題無く行えるでしょう。これで、今楽園に生きる多くの者を救うことができます」
 ランは黙って頭を下げた。
「そちらの方、怪我をしていらっしゃるのでしょう? 治療いたします。救護室へ」
 テオに向き直ったリーンはてきぱきと指示を出した。
「ランはどうする?」
 テオが寝台の上から問いかけてくる。テオにとってはいきなり別世界へ連れてこられたようなものなのに、不思議と冷静な様子にランの心も軽くなる。
「少し、疲れたから休むよ。……テオもゆっくり休んで。また、あとで会いに行くから」
 そう言って微笑むと、急に手足が重く感じられた。自覚がなかっただけで、どうやら本当に疲労がたまっていたらしい。
「お部屋へ案内します」
 車を運転していた男の言葉に頷いて、ランは自動扉の向こうへ歩き出す。リーンは別の入り口に向かってテオの乗った台車を押し始め、レプカは助手席に座っていた男に手綱を取られてガレージの外へ出て行った。

 それから数日間、ランは結界始動の準備や怒れる神々の影響を受けた者の治療に追われることになった。テオの所へは深夜になってから何度か足を運んだが、起きているときに会うことはできなかった。
 ようやく時間が取れたのは、結界始動の準備が整い、魔力の提供も全て終了して、治療要員としての任を解かれた後のことだった。
 結界の始動に立ち会い、やるべき事が全て終わった後、ランは一晩ゆっくりと休んでからテオを訪れた。先にレプカのいる小屋へ行ってリョクに挨拶し、それから治療棟へ向かう。
 治療棟につくと、ランを見つけた看護師が受付カウンターの中から笑いかけてきた。
「一緒にいらっしゃった男性なら、もうだいぶ元気になられましたよ。数日中には故郷へ帰るつもりだとか」
「ありがとうございます」
 看護師に頭を下げて、ランはテオのいる病室へ向かう。
 ――故郷へ帰る。
 リノリウムの廊下に響く自分の足音に耳を澄ませながら、ランはぼんやりと考えた。
 自分と同じ場所で生まれた少年は、今はクスファムの村が故郷のようなものだと言っていた。テオは『故郷へ帰る』のだ。
 一緒に帰ることができたなら、どんな嬉しい気分になれるのだろう。
 テオの病室の前で一度足を止めたランは、そう考えて微笑した。
 軽く扉をノックし、「どうぞ」という返事を待って部屋へと入る。テオはユリン研究所で支給される衣服ではなく、着慣れた旅装を身につけて、窓から見えるユリンの景色を眺めていた。
「怪我、もう平気?」
 ランが遠慮がちに訊ねかけると、窓際のテオは振り向いて頷く。
「ああ、もう痛みも無い。明日にはクスファムへ向けて出発するつもりだ」
「帰りたくなった?」
 からかうように尋ねると、テオはわずかに照れたような微妙な表情を浮かべた。
「まあ……『故郷』だからな」
 テオの珍しい表情を見られたことが嬉しくて、ランは微笑む。
「行きたい所があるの。一緒に来てくれる?」
「どこへ行くんだ?」
 テオはゆったりとした動作で窓際を離れながら尋ねた。
「大地の果て。この大地の、果てる場所。見てみたいと思ってたんだ、ずっと」
 答えながら、ランはまた笑う。研究塔と似た作りのユリン研究所は、ランにとっては息苦しい場所だったけれど、自由に出て行けるのだと思えば嬉しかった。自然と足取りが軽くなるのを感じながら、ランはテオの手を引いて病室を出る。

 研究所の建つ台地を下り、市街地へ入ると人通りが一気に増えた。のんびりと道を行く人々は、晴れない空のことも神々の怒りのことも大して気にかけていないようだ。
「テオ、レプカは優しいね。今日、リョクに会ってきたの。他の動物達は皆東へ行ってしまったのに、最後まで私達の旅に付き合ってくれた」
 まだ体力が回復しきっていないのか、一歩一歩足取りを確かめるようなテオの歩調に合わせて歩きながら、ランは話し続ける。
「レプカは馴らすのが難しいが、一度主人と認めたものには忠実だからな。……リョクには感謝している。リョクが居なければここまでたどり着くことはできなかった」
 テオは冷静な声音で答えた。きっとリョクにとっても、テオは良い主人なのだろう。
「そうだね。本当に、感謝してる。リョクは、きっと連れて帰ってくれるよ。テオを、テオの故郷に」
 私も一緒に行けたら、という思いを押し殺しながら、ランは微笑した。自分にはまだ、やらなければならないことが残っている。

 レンガの町並みを抜け、賑わう市場を過ぎた所でユリンの外壁とぶつかった。初めてユリンへ入った時に通り抜けた通用門よりさらに小さな木戸がある。
「外へ出て大丈夫なのか?」
「平気」
 ランは気楽な口調で即答して、外壁の扉を押し開けた。ユリンの周囲に巡らされた結界は市街地より広範囲を守っているから、大地の果てまで行くのは禁じられていないと、結界始動の作業中に聞いていたのだ。
 ユリンを出てしばらく小道を歩くと、黄色いレンガの街道にぶつかった。二人をユリンまで連れてきた道の続きだ。
「この道、大地の果てまで続いてるんだって」
 道の先を指し示しながら、ランはこの道を最後までテオと一緒に歩きたかったのだということに気づく。
 今まで歩んできた旅路と同じように、街道は草原をかき分けて真っ直ぐに西へと向かう。曇り空の下をテオと並んで歩きながら、これで旅が終わるのだと、ランは強く感じていた。

 大地の果ては切り立った崖になっていた。ランは崖のふちに立って空を見上げる。太陽の輪郭がうっすらと灰色の雲に映っていて、崖のふちから立ち上る薄青い光がわずかに光度を下げて見せていた。
「見える? この青い光が、結界。怒れる神々からこの楽園を守るための結界。昨日、ちゃんと始動したの。これで今の私に出来ること、全部終わったから。……だから、ここへ……来ようと思ったの」
 ランは薄青い光を指し示しながら、ゆっくりと確認するように呟いた。テオは頷き、立ち上る光をなぞるように上空を見上げる。その視線の向こうには、白く曇った空。テオが生きている間には、きっともう晴れることのない閉ざされた空。
 最後にもう一度だけ、テオに空を見せることができないだろうか。
 空を見上げながらランは考える。ランの魔力は結界の始動であらかた使い尽くしてしまっていたけれど、この雲の一部を吹き飛ばすだけの風の魔術なら使えるかもしれない。
 しばらく黙って空を眺めた後、ランは口を開いた。
「私、テオにまだ言ってなかったこと、あるよ」
 言いながらテオを見上げると、テオは不思議そうな視線を返してくる。
「風の神を使った兵器を暴走させたのは、私だった。あの人が言ったことは正しい。世界を滅ぼしたのは私。暴走した神々を止めようとして、他の神々もたくさん死んでしまった」
 ランは一瞬目を伏せてから両手を太陽へ差し伸べて息を吸った。もう結界のために魔力を温存しておく必要がないから、遠慮無く今使えるだけの魔力を全て注ぎ込んで魔術を生成する。
「テオ、しっかり見ていて。これが最後になると思うから。テオが生きてる間には、きっともう空は晴れないから」
 ランの両手の内側に光でできた球体が生まれる。周囲の魔力を取り込んで大きくなっていくそれを、テオが呆然と見つめているのを感じる。
 直径が自分の身長ほどになった頃、光の球を放り上げるようにランは両手を下ろした。光の球は加速して雲の間に消える。
 ランがそっと横目で見ると、テオは手をかざして空を見上げていた。ランは小さく微笑んで、もう一度空を見上げる。雲が、ゆっくりと音もなく渦巻き始めている。
 やがて渦の中心から青空がのぞく。青空は渦巻きながらその面積を拡大する。
 薄く上空を覆い尽くしていた雲の向こうには、よく晴れた青空が広がっていた。眩しいほどの青と、太陽のぬくもり。
 研究塔の窓から見上げていた小さな空を思い出した。あの空を見上げてただ憧れていた頃のことが、もう随分昔のことのように感じられる。
「これでも、やっぱり切り取られた小さな空だけど」
 太陽の光を全身に浴び、眩しさに瞳を細めながらランは呟く。
「……でも……幸せ」
 笑いながらテオへと振り向くと、テオも静かな微笑を返した。そして二人は、また青空を見上げる。

 どれくらい空を見上げていただろう。気がつけば太陽も雲のふちから姿を消していた。吹き付ける風もさっきよりずっと強い。ランが生成した風の魔術の効力も切れて、青空は音もなく周囲の雲に飲み込まれていく。
「そろそろユリンへ戻らないか。明日の準備もある」
 テオの視線が言葉と共にこちらへ振り向く。
「私はもう少しここにいる。テオは、先に戻っていて」
 空を見上げたまま、ランは答えた。さっきの風の魔術に反応して、風の神々が集まってきているのを感じる。目には見えないけれど、イルキスの樹にあった魔力の滝と同等の濃い魔力が結界の外に渦巻き始めていた。
「私、クスファムの村には行かないから」
 呼びかけるような神々のざわめきが、めまいにも似た浮遊感を引き起こす。ランはもう少しだけ待って、と心の中で呟く。
「……どうするつもりだ。ユリンへとどまるのか?」
 ランは空から無理やり視線を引き戻すようにしてテオを見た。ともすればぼやけそうな焦点を合わせると、心配そうなテオの表情が見える。
「外へ帰ろうと思うの」
 答えた声音は、自分でも驚くほど穏やかだった。その時が来たら、ひどく取り乱してしまうのではないかと恐れていたのに。
「外は滅びたんだろう。それに、鉄の魚はもう動かない。そもそも帰る手段が無いだろう」
 テオがわずかに眉をひそめる。
「うん、わかってる。……でもね、私は、外から来たんだもの。外に、帰るよ」
 ランは微笑を浮かべ、体ごとテオに向き直った。
「明日、テオがクスファムの村に戻るとき、私、見送り行けないから。ここで、お別れ」
「唐突な、話だな」
 テオは戸惑ったように目を見開いて、ようやくそれだけ呟いた。
「最初から、そうするって、決めてた。外で私のしなければいけないことをし終わったら、私、テオの所へ行くよ。また会うことは……たぶん、できないけど」
 テオが苦しそうに眉根を寄せるので、ランは無理にでも笑おうとする。わがままな話だけれど、テオにも笑ってもらいたかった。
「ありがとう。テオ。この世界を見ることができてよかった」
 テオがかすかに目を細める。
「じゃあ、さよなら、だね。……元気で」
「ああ、いつか、また会えるといいな」
 ぎこちないながらも、テオがようやく笑顔を返してくれたので、ランももう一度笑った。今度は無理にではなく、自然に笑うことができた。
 交差した視線を外す瞬間、一瞬ためらうような素振りを見せながら、テオが踵を返す。ゆっくりとした足取りで、それでも振り向かずに遠ざかる背中をランは見つめ続ける。
 契約の代償を払えば、この体は消えてしまう。それでも誰かを守る力は手に入る。だから、怖くなんてない。
「……さよなら」
 小さな呟きは、テオの耳に届くことなく、逆巻く風にかき消される。
 大地の果てに背を向けて歩み去るテオに、ランも背を向けた。
 そして、ごく当たり前のように、最後の一歩を踏み出した。

 旅の終わりの空へ。