第十話 帰郷 〜Her wind〜

 穏やかな風が草原を揺らす。もうすぐ夏が終わる。

 シセナは物見櫓から村の全景を見渡し、ゆっくりと息を吐いた。村の周囲を、以前は無かった高い柵が取り囲んでいる。その外側は堀。跳ね橋を下ろさなければ人も獣も出入りできない。何もかも、このひと夏で作られたものだ。
 長く、苦しい夏だった。
 西からやってきた難民達はクスファムの村の人口を二倍に増やし、そして彼らを追ってやって来た風が同じだけの人口をさらっていった。湿った熱風は凶作と疫病をもたらし、気まぐれに荒れ狂っては新参者たちが住む急作りの小屋を吹き飛ばし、あるいは不機嫌に何日も沈黙した。獣達はますます凶暴になり、もはや村の狩人たちですら手が出せなかった。
 シセナは巫女だ。他の誰よりも神々の感情を感じ取れる。怒り、苛立ち、焦燥、憎しみ、焦がれるようなもどかしさ。ずっとそんなものばかり見つめ続けて、夏が終わる頃には、シセナは生き延びることを諦めようとしていた。村の土地神すら怒りに捕らわれ、絶望に支配され始めていたのだ。土地神の加護を失えば、シセナたちもこの村を出、安住できる土地を探して彷徨うしかない。
「巫女様」
 背後から呼びかける声が、シセナの思考を現実へと引き戻した。
「どうした?」
 振り向けば、青年団の一人が櫓へ上がる梯子を登ってくるところだった。まだ少年といって通じる年齢だろう。腰に下げた剣の扱いにまだ慣れていないのが、シセナでも一見してわかる。
「討伐隊、ただいま帰還しました」
「そうか。ご苦労だったな。今宵はゆっくりと身体を休めてくれ」
 シセナは緊張した調子で告げた少年に笑顔を返し、また視線を遠くへ――空へと投げかける。テオが旅に出た日から、空は一度も晴れない。青空は薄い雲の向こう、紗がかかったように、ぼんやりと透けて見えるだけだ。
「あ……あの……」
 背後からおずおずと声をかけられる。
「ああ、すまない。まだ何かあったのか」
 シセナがまた振り向くと、少年は緊張した面持ちで頷いた。
「えと、あの、まだテオさんが外にいるんです。それで、橋を下ろしたままで大丈夫かと」
「そう……だな」
 シセナは視線をめぐらせて草原を見やる。テオの母が海に例えた草原は、今は穏やかに凪いでいた。獣の姿も、怒れる神々の気配も無い。
「少しの間下ろしたままにしておいてくれ。私が呼んで来よう。念のため木戸だけ閉めて、見張りを立てておいてくれるか」
「はい、わかりました」
 少年が姿勢を正して答えるのに微笑して、シセナは櫓から降りる梯子に足をかける。
「あ……その」
 緊張した声に視線だけを上げると、少年は真っ赤な顔で呟いた。
「お、お気をつけて」

 いつだったか、ばば様に言われてテオを呼びに行ったことを思い出す。あの時も空は曇っていて、そのとき既に異変は始まっていたのだと、今ならばわかる。
 二つ向こうの山に落ちた鉄の魚と、そこで発見された見知らぬ少女。
 テオが村に戻ってきたとき、その隣にあのとき村の外でテオを待っていた少女の姿はなかった。テオは何も語ろうとはしなかったが、あの少女は今、どこで何をしているのだろう。
 シセナはゆっくりと丘を登っていく。振り返れば、以前と同じようにクスファムの村を一望できるだろう。けれどその風景は、あの頃とは大きく違ってしまっている。物心ついたときから何一つ変わらなかった、何一つ変わらないだろうと信じていた村の風景も、その向こうの森と山々の姿も、何もかも。
 目を上げて丘の上の大樹を見上げる。かつて緑をまとっていた大樹も、今は灰色に変色して捻じ曲がってしまっている。
「テオ」
 あのときと同じ場所で、あのときと同じように剣を抱えて座っている少年に、シセナは静かに呼びかけた。テオの隣で足を折って座り込んでいたリョクが左の耳を動かして、漆黒の瞳をシセナに向ける。
「何をしている?」
 呼びかけると、テオは閉じていた瞳を上げて微笑を浮かべた。
「風の声を聴こうとしていた」
「ほう、お前にも聞こえるのか?」
 それは初耳だ、と呟いて隣に腰掛けると、テオはゆっくりと首を横に振る。
「いや。残念ながら神々の声を聞き取るのは、俺には無理だな」
 テオは遠く山の端へ視線を投げ、お前がうらやましい、と呟いた。旅に出る前のテオならば絶対に他人に聞かせたりしなかっただろう、弱い調子の呟きだった。
「良いことばかりでもないさ」
 シセナは声の調子には気づかなかったふりをして、小高くなったその場所からの景色を眺め渡す。
「そうだろうな。西からやって来る風は、ずっと優しくなどなかったはずだ」
「ああ。でも……」
 シセナは呟き、吹き抜ける風に目を細めた。
「お前が連れてきた風は優しい」
「俺が連れてきた……?」
 テオが不思議そうにシセナを振り返る。
「私に……私たちに生きろと言う。この空は晴れない。だが、私たちはまだ生きられる。小さくともこの手に幸福をつかみ取ることもできる。だから……生きろと」
 巡礼の神官に罪を告白するときのように、シセナは瞳を閉じた。
「私は諦めようとしていた。たくさんの者たちが死んでいった。ばば様も……」
 瞳を開けば、テオの真摯な表情がまっすぐこちらを見つめている。シセナは肩の力を抜き、唇の端に無理矢理笑みを乗せた。
「神々の怒りを鎮めようと、努力はしたのだ。土地神に犠牲を捧げ、古い祭礼をいくつも復活させた。だが、私には無理だった。諦めて神々の怒りを受け入れ、死んでいこうと思っていた。けれど、お前が連れてきた風は神々の怒りを鎮めた」
 テオの視線がシセナを離れ、静かに草原を横切って西へと向かう。テオが何を思うのかわからぬまま、シセナは話し続ける。
「これほど大規模な怒りは、人の手では押し止めることは出来ない。彼らと同じ神でなければ、この怒りから私たちを守ることは出来ない。私たちを災厄から守って下さるよう、何度も土地神様に祈ったけれど、土地神様は私の祈りに応えてはくれなかった。こんなふうに私たちを守ってくれる神は、もう現れないと思っていたのに……」
 テオは不意に立ち上がり、空を見上げて瞳を閉じた。穏やかな風に漆黒の髪が踊る。
「だから俺は、彼女を止められなかったんだ」
「……テオ?」
 声の調子に、シセナは話を止め、眉根を寄せてテオを見上げる。
「泣いて……いるのか?」
 テオはきつく瞳を閉じたまま、何も答えようとはしない。
 穏やかな風は黄金色の草原を渡り、言葉を失った二人の間を通り過ぎていく。閉ざされた空は遥か地平線の彼方まで続く。テオは瞳を閉じたまま、風の中に立ち尽くしている。
 頬に吹き寄せる風の声に、シセナははっと視線を上げた。脳裏によぎるのは、テオを見送りに出たときに見えた、遠くに佇む少女の白い影だ。どこか張りつめた空気をまとって、西の空を見上げていた。
「……そうか……お前は……」
 シセナはもう一度テオを振り仰ぎ、たった今、風が囁いた忠告に従って口を開いた。
「そう言えば、まだ言っていなかったな」
 テオは瞳を開かない。シセナは微笑を浮かべる。
「よく、帰って来てくれた」
 草原を風が揺らす。テオの母が海と同じ声だと言った静かなざわめきが、枯れてしまった大樹の根元を通り過ぎていく。テオが瞳を開けて、不思議そうにシセナを見る。
 シセナはもう一度微笑み、テオが連れてきた風に言葉を預けた。

「おかえり、テオ」