第二話 グローリアに似合わないもの

 劇場の敷地内の塔で鐘が鳴り渡ると、会場の明かりは一斉に落とされた。場内のざわめきは潮が引くように消え、楽団の調律の音が代わりにその場を満たす。
 アルバートは入口でもらったプログラムから顔を上げて舞台を見下ろした。
 調律が終わってしんと張りつめた空気の中に、弦楽器の音が穏やかに響き始める。同時に上がり始めた幕の向こうで、グローリアはスポットライトを浴びて立っていた。
 穏やかな笑顔を浮かべて、グローリアは歌い始める。心持ち幼い透き通った歌声が響く。普通の田舎娘のような衣装のせいか、その姿は妙に微笑ましい。
 歌は地方に伝わる伝承歌のようだった。方言なので意味はよく理解できない。しかし素朴なメロディは素直に耳に馴染んで、聴いていると穏やかな気分になってくる。
 最初の歌が終わると、グローリアは満場の拍手を浴びて引っ込み、その後は新人たちが入れ替わり立ち代わり歌った。曲が終わるごとの拍手は、グローリアのときが一番大きかった気がした。

 コンサートの最後はファティマだった。グローリアがナンバーワンと認めるだけあって、声の伸びも良いし音程も狂いがない。だが、拍手は思ったほどではなかった。

 コンサートが終わった後ロビーをうろついていたアルバートは、後ろから服の裾を引っ張られて振り向いた。
「すいません。先日お会いした、アルバートさんですよね?」
 振り向くと、舞台衣装の上に上着を羽織っただけのファティマが立っていた。
「は? ああ、そうだけど」
「あの、グローリアを見かけませんでした?」
 ファティマは早口で訊ねる。
「いや、今日は舞台でしか……。……もしかして、あいつまた行方不明に?」
 毎度のことなのでだんだん予想がつくようになってきている気がする。
「……はい」
 ファティマはうつむいて答えた。雰囲気がとてつもなく暗い。
「最後から三番目に合唱のプログラムがあったでしょう? 彼女、それに出てたんですけど、終わった後荷物をまとめて出口にあらざるところから出て行ってしまって……」
「で……出口にあらざるところって……」
「そうなんです。このシアター、結構意味不明な扉や通路が多くって……。普段はほとんど閉め切ってあるんですけど……。それで、呼び止めようとしたけど、私、出番が来てしまって……戻って来たらリーリアが行方不明だって、舞台裏が大騒ぎに……」
 ファティマはため息をつくと、まだ多くの関係者が捜しまわっているのだと付け加えた。
「困った奴だな……そのうちその辺からひょっこり出てくるんじゃないか?」
 大体いつもそうだったし。
 気楽に言うアルバートに、しかしファティマは深刻そうに首を横に振った。
「実は今回のコンサートのプログラムのことで仮面の怪人と……仮面の怪人のことは知ってますよね? ……彼と劇場の上層部の間でひと悶着あったんです」
 最初の予定ではプログラムの最後を飾るのはグローリアだったのだとファティマは言った。

 しかし、〈仮面の怪人〉はファティマを最後に持ってくるように通達してきた。上層部はそれで意見が分かれて大変だったらしい。グローリアのほうが(容姿とか練習期間の短さとかで)話題性があるので、最後に持っていきたいという意見が多かったのだ。
 結局、グローリアがもめるようなら出演を取り消すと宣言し、劇場側としてもそれでは困るので今回のような順番で落ち着いたというわけだった。
 
 「それで、一度は仮面の怪人の意見に反対する形で話が進んでいたもので、彼が怒ってリーリアに何かするんじゃないかって。皆必死で。……私には、彼がグローリアに危害を加えたりとか、そういうことをするとは……どうしても思えないんですけど……でも、やっぱり心配で……」
 ファティマは言葉を途切らせて泣きそうな調子でため息をついた。
「私、これから地下の鍾乳洞へ行ってみようと思うんです。確かリーリアが出て行った所から通じる道があったと思うし……それで、もしよろしければ私の護衛をして頂きたいんですけど、いいでしょうか?」
「護衛……ってモンスターでも出るのか?」
 アルバートは目を見開いて聞き返した。
「いえ、そんなたいしたものは……ごくまれに大きな吸血蝙蝠が出るくらいで……それだって人間を襲うなんてことは滅多に無いですけど。でも一人だと危ないかなって」
「そうなのか……まあ、俺もリーリアのことは心配だし……」
 アルバートはうなずきながら考えた。
 ファティマに対しては一体どんな口調を用いるのが一番良いのだろうか。どうにも、敬語を使ったほうが良いのか普通に話していいものなのか判断がつかない。

 グローリアは適当な鍾乳石に座り込むと、珍しく真剣に考え始めた。
 本気で迷うつもりは無かったのだが、どうやら本気で迷ってしまったらしい。由々しき事態である。
「……困ったわ」
 低く呟いた声が、むなしく洞窟の闇に溶けて消える。
(――このまま出られなかったら末期は飢え死に、といったところよね。それはごめんこうむるわ。――となると……)
 目を閉じて考え込むグローリアは、そのままうとうとし始めた。

(寝ている場合じゃないんだった)
 しばらくして目を覚ましたグローリアは再び考え始めた。どうも生死がかかっている割に緊張感が持てない。
(もと来た道を辿ろうにもすでにどちらの方向からここへ来たのかが分からない。……と、いうことは……)
 グローリアはふと目を開いて立ち上がった。
 どこからか強い怒りの感情が流れてくる。おそらくは〈仮面の怪人〉のものだろう。辺りを見回し、どちらの方角から感情が流れてくるのかアタリをつけてそちらを振り向く。
「何故、怒っているの?」
 重苦しい沈黙が流れた。感情の主は答えず、ただ敵意だけが強まる。
(――また腰抜かしてへたり込みそう)
 嫌な汗を背中に感じて、グローリアは無意識に身構えた。この前の夜中に感じた殺意を思い出せば、ただいまの状況は結構危険だ。
 その時ふっと辺りが明るくなった。同時に右のほうから足音。
 振り向いたグローリアは、小さくため息をついた。
「約六十度ズレてたわ」
「何の話だ」
 白色の光の下に姿を現した仮面の怪人は、耳に心地よく馴染む低い声で訊ねた。
「貴方がいた方向」
 グローリアは簡潔に答えると首を傾げた。
「現れたということは、私に用があるということ?」
 仮面の奥から強い視線を感じながら、グローリアは訊ねる。
「たいした用ではない。警告だ」
 押し殺した声から感じる敵意は少しも弱まってはいない。
「警告……」
「早々に立ち去れ。ここはお前が来て良い場所ではない」
「確かに……家宅侵入をしたことは謝るわ。途中まではわざとだったし」
 途中からは本気で迷っていたのだが。まあそれはともかく。
「私、貴方に聞きたいことがあってここへ来たの」
 仮面の怪人は不機嫌そうに目を細める。
「貴方の名前って何。仮面の怪人じゃどうもダサくて呼びづらいわ」
「……リヴィウスだ。先日聞いていただろう」
「名乗ってもらいもしないうちから名前を呼ぶのは失礼かと思って」
 相変わらずこちらを威圧するような敵意を感じながらも、グローリアは真っ直ぐリヴィウスを見上げた。
「本題に入るわ。何故、ファティマに会わないの?」
 次の瞬間、リヴィウスは抜刀してグローリアに剣を突きつけた。
「……死にたいのか?」
 わずかに目を見開いて切っ先を見つめるグローリアに、さっきとは打って変わって穏やかな声が訊ねる。
「……いえ」
 グローリアはかすれた声で答えた。掌も背中も汗で濡れているのに、口の中と喉は痛いほど渇いていて言葉が上手く音にならない。本物の殺気を感じるせいだ。
「私が死んだら、たくさんの人が哀しむもの」
 リヴィウスが仮面の下で苦笑いを浮かべたのがわかる。
 ――では、私が死んだら?――
「貴方が死んだら、ファティマが泣くわ。……私も悲しい。……私は……貴方のことが好きだから」
 リヴィウスは剣を鞘に戻して鼻で笑った。同時に殺気も引いてゆく。
「……お前のような子供の想いに応えることはできない」
「嘘!」
 グローリアは自分でも珍しいと思いながら怒鳴った。
「ごまかさないで! 真っ先にファティマのことを思い浮かべたくせに!」
 リヴィウスは視線を逸らした。
「……お前には関係のないことだ」
「それじゃ答えになっていないわ」
 リヴィウスは無言で踵を返した。
「ごまかさないでって言ってるでしょう!? ファティマは貴方に会いたいと思ってる。貴方はファティマに会いたいと思ってる。だったら会いに行けばいいじゃない。そんな簡単なことなのにどうして分からないの!?」
 洞窟の薄闇に消えていく背中に、グローリアはかなり必死で呼びかけた。
「それがファティマの幸せだと思ってるなら大きな間違いだわ! どんな事情があったやら知らないけど、何がファティマの幸せかなんてファティマが自分で決めることなんだから!」
 叫んでいるうちにだんだん腹が立ってくる。頭の片隅でさっきの恐怖の反動かしらとか妙に冷めたことを考えながら、なおもグローリアは続けた。
「だから貴方は貴方自身の幸せのことを考えていればいいのよ! 貴方が貴方の幸せを考えないなら、一体誰が貴方の幸せを考えるのよ! ふざけないでよ! リヴィウス! リヴィウスっ!」
 日々の発声練習で鍛えられた声も微かなこだまになって消え、グローリアは肩で大きく息をした。
「あーあーあ。……喉は傷んでいないようね」
 低く呟いて周囲を見回す。リヴィウスが作ったらしい魔力光は未だにグローリアの頭上で明々と輝いている。
「……この感じ……アルバート……?」
 新たに別の方向から流れてきた感情の流れを感じて、グローリアははっとして振り向いた。
 そこには、呆気にとられた表情のアルバートが立っていた。

 アルバートは目が合うなり走りよって抱きついてきたグローリアを抱きとめながら混乱した。
「おいおい、どうしたんだよ?」
「アルバート……貴方は以前」
 グローリアは異常に冷静な声で話し始めた。
「私が腰を抜かしているところを見てみたいと思っていたようだけど」
「は?」
 アルバートは間の抜けた声を出しながらグローリアの全身が酷く震えていることに気づく。
「あ……おい、お前……」
「私、今から腰を抜かすから。存分に見るといいわ」
「何だそりゃ」
 そしてグローリアは言葉通りその場にへたり込んだ。服を掴まれたままのアルバートもそれに合わせて座り込む。
「リーリア、貴方、震えているわ。……何か……あったの?」
 後から来たファティマが心配そうにグローリアを覗き込んだ。しかしグローリアはファティマから顔を背けて硬い声で答える。
「悪いけど、今は貴方に見られたくない」
 ファティマはうつむくと、低い声で、そう、と呟いた。グローリアはアルバートの服を握る手に力をこめる。
「それに、貴方には他にするべきことがあるはずだわ」
 ファティマはうつむいたまま下唇をかんだ。
「……アルバートさん」
 やがて顔を上げたファティマは、強い視線をアルバートに向けた。
「帰り道、分かりますか?」
「あ? ああ、それは大丈夫……」
 アルバートがうなずくのを見ると、ファティマは消え入りそうに微笑んで、鍾乳石の間に姿を消した。
 ファティマを見送ったアルバートは、しばらく考えた後ためらいがちにグローリアの肩に腕を回して包み込んだ。
「……もしかして泣いてんのか?」
「……そう。恐怖と悲しみのあまり」
 やけに冷静な涙声が返ってきた。
「……。……なんかあったのか?」
 アルバートは気を取り直して再び質問する。
「殺されかけた上に失恋したの」
 アルバートは何を言われてももう驚かないことに決めた。
「そりゃすげぇな。何でそうなったんだ?」
「デリカシーの無い青騎士ね。まあいいわ」
 グローリアは抱きついてるくせにえらそうに言い放つ。
「仮面の怪人リヴィウスに名前を聞いて、喧嘩を売ったら剣を突きつけられたの。殺る気満々だったわ。めちゃくちゃ怖かった」
 恐怖心はミジンコの爪アカほども伝わって来なかったが、とりあえず怖かったんだろうなぁと思ってみる。
「で、そのまま告白したらフラれたわ」
「ふ、ふぅん……剣突きつけられたまんまでね……」
 胸の高鳴りとか盛り上がった雰囲気とかTPOとかいう単語が頭の内を駆け巡ったが、どれもグローリアには似合わないものばかりだった。
「そりゃ確かにいきなりだったし、ほとんど初対面だったし。でも好きなのよ。……あの声」
 グローリアはぼそりと付け足す。
「…………声っスか……」
「……そう。バリトンLOVE」
 グローリアは淡々とのたまった。