第七話 みかんの日

 宣伝は一切していなかったのだが、どこで聞きつけたのか大ホールの三分の二は人でうまっていた。
「意外と人が来てるのよー。だってーのにリーリアはどこ行っちゃったのよ。フェイディアスが到着しちゃったらどうするのよ。姫がいなかったら話がヤバイじゃないーっ」
 舞台裏ではペナンがうろたえている。
「あーもーどこ行っちゃったのかしら」
 つぶやいて髪をかきあげる。フェイディアスが姫が捕らわれている(はずの)牢の扉に手をかけた。
「うわ。もう間に合わない」
 ペナンは目をおおった。
 その瞬間。

 大ホールの照明が、一斉に消えた。

「……リーリア。お前どうする気だよ」
 場内のざわめきを聞いて、アルバートはため息をついた。非常灯が薄く灯っているので真っ暗闇ではないが、客は混乱しているはずだ。
「ってちょっと待て、落ちるぞ」
 客席の方へ行こうとしたグローリアの襟をつかんで引き止める。
「ああ、そうね。逆だった。こっちよ」
 グローリアは何事もなかったかのように体を反転させて通気口の奥へと逆戻りした。
「おいおい。大丈夫かよ」
「大丈夫よ。昨日は成功率百パーセントだったもの」
「……成功率? ……何の?」
 聞くのは怖かったが好奇心には勝てなかった。
「ここから次の目的地まで行く練習。毎日五回やってたの」
 グローリアは横穴に四つんばいでもぐりこみながら答えた。
「昨日は……百……一昨日は……?」
 アルバートはあとに続きながら恐る恐る訊ねる。
「……聞かない方が、精神衛生上良いと思うわ」
 その答えだけで十分精神衛生上よろしくない、と、アルバートは思った。

「変だな。魔法装置の故障か?」
 ファティマの隣でアンドレアがつぶやいた。客のざわめきは大きくなるばかりだ。
「ファティマ、こういうアクシデントはしょっちゅうあるのかい?」
 訊ねてきた母親にファティマは首を横に振る。
「毎日点検されてますから、装置の故障で舞台が中止になったことはないって……」
 客の中には立ち上がる者も出始めた。
「どうしたのかしら……」
 ファティマは不安そうに舞台を見て、そのまま呆然と目を見開いた。
「……え……」
 かすかに歌声が聞こえた。バリトンの、懐かしい声。
「……どうして……」
 声は、ゆっくりと大きくなってくる。観客はざわめきながらも舞台に視線を戻し始めた。それに応えるように、スポットライトがひとつだけ灯って舞台に光の輪を作る。
 歌声の主は、悠然と光の輪の中に姿を現した。
「……リヴィウス……」
 ファティマは無意識に立ち上がると、舞台への階段を駆け下りた。

「やれやれ。他の者は目に入っていないね、彼女は。まるで芝居の一場面だ」
 取り残されたアンドレアは、困ったものだと肩をすくめると、隣に座っていた執事から書類袋を受け取る。
「ならば、私も演じ切って見せよう」
 ふ、と笑むと、アンドレアは落ち着いた足どりでファティマのあとを追った。

「リヴィウス!」
 舞台まで駆け上ったファティマが呼びかける。
 歌声が止み、騒然としかけていた客達は息を飲んで舞台上の二人を見守った。大ホールに不思議な沈黙が満ちる。
 大勢が注目する中、リヴィウスは頭の後ろに手を回して仮面を固定していた紐を解いた。仮面を外すと、真っ直ぐにファティマを見つめる。
「……リヴィウス……呪い、解けたのね……」
「ああ」
 ファティマは小さく唇を動かした。想いが、上手く言葉になってくれない。
 ファティマは駆け寄ってリヴィウスを抱きしめた。

「……恥ずかしい人たちね。舞台のど真ん中で」
 舞台上空の、ちょうどリヴィウスたちを見下ろせる位置にある足場の上で、スポットライトを手動操作している(要するに抱えて固定している)グローリアが、ため息混じりにつぶやいた。非常灯用の魔力を使ってスポットライトを点灯させているのだ。
「サクラを混ぜておいてよかったわ」
 さっぱり状況がわからないながらも、人々は盛大な拍手をしている。
「……手回しいいなお前」
「ありがとう。ほめ言葉として受け取っておく。でもまだハッピーエンドじゃないんだけど」
 アルバートは、スポットライトを支える手伝いをしながら舞台を見下ろした。

「それで、姫君」
 リヴィウスよりはいくらか高い、しかしよく通る声で、舞台に上がってきたアンドレアは言った。
「君は私よりもフェイディアスを選ぶ。そういうことだね?」

「……リーリア、フェイディアスって……」
「今日の舞台のシナリオに合わせて話を進めてくれるなんて、なんて親切なアンドレアでしょう」
 グローリアは何の感慨も湧いちゃいない調子で淡々とつぶやいた。
「声の高さによる役割分担もばっちりだし」
 アルバートは何故だかそうしたくなってため息をついた。

「……ルイジアス……」
 ファティマはとっさにセリフを合わせた。
「あの……月の美しい晩……?」
 自信のなさそうな調子でアンドレアが言う。
「……私と交わした約束も、今の君には意味のないものだと?」
 声の調子に自信が戻る。どうやら場景を良く覚えていなかっただけらしい。
「……それは……」
 目を伏せるファティマに、アンドレアは強い視線を向けた。
「選んでくれ、姫! 今、この場で! 私との約束と、フェイディアスへの君の想いと!」
 芝居がかった仕草にセリフ。それは劇だったが、しかし演技ではなかった。
 ファティマは真っ青な顔であとずさる。
「……約束は……神聖なもの……」
 震える声は、しんと張り詰めた空気の中、ホールの隅々まで届く。
「……私は……あなたと……あなたと結婚すると約束しました……。……約束は……守ります……」
 リヴィウスは静かに微笑んだ。
「では、お別れだな。……姫君」
「待て、フェイディアス!」
 退場しようとしたリヴィウスを、アンドレアは強く呼び止める。
「お前は姫君を選んだ! 姫君は約束を守るため私を選んだ! だが私はまだ選んでいない!」
 ふと、アンドレアの表情が穏やかなものに変わった。
「……姫君」
 ファティマは怯えたようにアンドレアを見上げた。
「そんな表情はしなくていい。私は……たとえ神聖な約束を破ることになろうとも、私のことを愛してくれない者と結婚しようとは思わない。……行きなさい。君は自由だ」
「……でも」
「ああ」
 アンドレアは書類袋を掲げて客席に見せた。
「君の父上から私の父に当てた親書か。……こんなものはこうしてしまえば、価値はない」
 アンドレアが何事かつぶやくと、書類袋は中身ごと一気に燃え上がった。

「あれは、借金の証文ね」
 つぶやいたグローリアは、ふと人の気配を感じて背後を振り向く。
「……グッドタイミングね。ちょうど、そろそろ下へ行きたいと思っていたのよ」
 グローリアは現れた人物にそう言うと、スポットライトから片手を離して軽く手招きをした。

「……ごめんなさい……アンドレア……」
 ファティマは両手で顔を覆って肩を震わせた。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……」
「ファティマ……」
 アンドレアが小さくつぶやいたその瞬間。いつの間にかファティマの背後に忍び寄ったグローリアが、丸めた台本で思い切りよくその後頭部をひっぱたいた。
 なんだか妙に軽快な音が響き渡り、重苦しかった空気が一瞬にして真っ白に変わる。
 しかし、グローリアは大真面目だった。
「セリフが違うわ」
 常と変わらぬ淡々とした口調で、台本を広げて指し示す。
「『ありがとう』よ」
「笑ってな」
 ファティマは呆然としたままリヴィウスの差し出したハンカチを受け取って涙を拭いた。そして静かな表情でアンドレアを見上げる。ファティマの瞳にスポットライトの光が入って、不思議な色に輝いた。
「……アンドレア……」
 ファティマが口を開きかけたその時。劇場の塔の鐘が荘厳に鳴り渡った。
 同時に舞台の幕が音もなく下りていく。

 誰一人、言葉を発することが出来なかった。
 誰一人、(グローリアが放ったサクラさえも)拍手をしなかった。

 こうして、後に舞台終了後の拍手の少なさで伝説となる『ファティマのお別れ会』は、文字通り幕を閉じたのだった。

「ごめん! リーリア!」
 幕を下ろした舞台の上で、ペナンは両手を合わせて頭を下げた。
「魔法装置の修理してたら、進行チェックするの忘れてて。舞台の使用許可とっといた時間が過ぎちゃったから、強制的に終わらされちゃったの」
「うん、いいよ。なんかもう」
 グローリアはそこはかとなくうなずくと、上を見上げて無表情に手を振った。げっそり疲れ切った様子のアルバートと、やけに楽しそうな少年が上から手を振り返してくる。役をもらえなかった上にスポットライトを支える役割をグローリアに押し付けられてしまったカイルだ。どういう理由であれほど楽しそうにしているのかは、多分本人にしかわからない。
「結局終わらずじまいか。まあ、なかなか楽しい経験だったよ」
 アンドレアは笑うと、証文の灰がかかった服を軽くはたいた。
「じゃあ、私はこれで」
 アンドレアは下手のほうへ歩き出した。
「アンドレア……! ありがとう! 本当に!」
 その背中にファティマが叫んだ。アンドレアは振り向かず、右手だけ上げて軽く振る。
「皆さんお疲れ様! このあとの夜の部、別の舞台が入ってるから速やかに撤収して!」
 両手を打ち鳴らして指示を出すペナンの声を聞き流して、グローリアはその場から立ち去った。

「落ち込んでる?」
 淡々とした声に、劇場の奥庭の東屋でぼんやりしていたアンドレアは気だるい心持ちで振り向いた。
「まあ、少しね」
「何て言ったらいいか……」
「言わなくていいさ」
 グローリアは黙って東屋の向こうの桜を見上げた。
「歌ってくれないか」
 アンドレアは同じ桜を見上げてつぶやくように言った。
「……何を?」
「……なんでも」

 数秒の沈黙の後に、グローリアはアンドレアの知らない言葉で歌い始めた。

 桜は満開で、誇らしげに夕日の光をはじいている。
 グローリアの歌は耳に心地よく響いてくる。
 悪くない一日だった気がしている。

 アンドレアは微笑んで目を閉じた。

 大丈夫。後悔はしていない。