第二話 竜は低気圧を運び、騎士は低血圧を嘆く

 2-1 好きな人、苦手な人

 今日で二年経った。
 朝目が覚めてすぐ、フィラは屋根裏の寝藁の上でそう考えた。
 フィラがこのユリンの町へやって来たのは、ちょうど二年前のよく晴れた初夏の明け方だった。
 見た者の話によると、風泣き山の滝壺の上空に突如光とともに現れたのだという。そしてそのまま滝壺に落下した。第一発見者である見た者こと猟師見習いのレックスがすぐに飛び込んで助け出してくれなければ、きっとそのまま溺れていただろう。
 意識を失っていたフィラはその後運び込まれた酒場で目を覚まし、どこから来たのかと訊ねられて言葉を失った。自分の名前以外何一つ思い出せなかったのだ。フィラの持ち物は丈夫な帆布製のトートバッグ一つきりで、身分証明書らしいものは入っていたが、それが何を証明しているものなのか町の人々は誰も知らなかった。
 町の外へ出ることが許されない町民たちは、領主にフィラがどこから来たのか調べてくれるよう頼んでくれたが、領主は多忙を理由に願書に目を通してさえくれなかったらしい。
 結局、自分が何者なのか、どこから来たのかもわからないまま二年が過ぎてしまった。誰も聞いたことのない訛りはあるが、この町で話されている言葉で話して読み書きもできるのだから、そう遠くから来たわけではないだろうと、フィラを引き取ってくれた酒場の女将は言っていた。領主の許可なしに町を出ることは禁じられているから、何かを思い出すか手がかりが見つかるまでここで働けばいい、とも。
 その言葉に甘えている内に、二年。
 この二年で分かったことと言えば、自分はピアノが得意らしいということ、この町の誰よりも町の外に関して好奇心があるらしいということ、月に一、二度、自分の意志と無関係に数百メートル程度瞬間移動してしまうことがあるということ、自分が持っていたトートバッグの中に拳銃が入っていて、自分はその扱い方を知っているということ、くらいだ。
 無為な二年間だったとは思わないけれど、このままで良いのかと考えると気分は暗くなる。このままこの酒場で住み込みのウェイトレスとしてお世話になっていても良いのか、無理を承知で町の外に出て、自分が誰なのか調べた方が良いのか。
 フィラは一つ息を吐き、寝転がったまま大きく伸びをした。いくつかの関節が小さく鳴って、霞のようにたゆたっていた眠気が消えていく。起きあがって天窓を見上げれば、外には朝焼けの空が広がっていた。
 よく晴れた一日が、また始まろうとしている。

 今日は、酒場は午後から休みの予定だった。踊る小豚亭の主人であるエディスとエルマーの夫妻が、親戚のパーティに呼ばれているためだ。フィラはパーティには呼ばれていないので、午後は友人のレックスやソニアと郊外へ遊びに行くことになっていた。
 お昼頃、閉店した酒場にやって来たソニアは、カウンターにお弁当を入れるためのバスケットを置いて、フィラの仕事を手伝い始める。
 ソニアは酒場のある通りで花屋を営んでいる夫婦の娘で、見事な金髪の巻き毛にふくよかな体つきの娘だった。明るい表情ときびきびした動作の、華やかな雰囲気の持ち主だ。褐色の髪と瞳、子供っぽい顔立ちのフィラは、たまにドレスの似合うソニアの容姿をうらやましく思う。今日のソニアは、花柄のワンピースに白いエプロン姿だった。
「今朝ね、父さんが丘の方に花を仕入れに行って聞いてきた話なんだけど」
 テーブルを台ふきで拭きながら、ソニアは言った。
「明け方近くにね、山に竜が落ちたんだって」
「竜って、でっかいトカゲみたいなアレだよね? 私、ちゃんと見た記憶ないけど」
 フィラは食器を回収していた手を止めて顔を上げる。
「そうそうそれそれ。父さんが若い頃には時々若い竜が迷い込んできてたらしいけど、最近じゃ町の近くまで竜が来るなんて珍しいじゃない? だからね、午後、ついでに見に行きたいなって思ってるんだけど」
 ソニアは次のテーブルに移る前に台ふきをひっくり返しながら、得意げに頷いた。
「竜かあ……危険じゃなければ見に行きたいけど……」
 フィラは食器の回収を再開しながら首をかしげる。
「遠くからだったら大丈夫よ、たぶん。父さんだって、昔野原から山の上を飛んでいく竜をよく見てたって言うもの。人間はあまり襲わないらしいよ。リスクは大きいし、不味いらしいし!」
 ソニアは元気よく身を乗り出し、台ふきを振り回した。その手から台ふきが飛び出し、机の上を滑って床へ落ちる。
「あ」
「あ」
 ソニアはお手上げのポーズで、フィラはコップを二つつまみ上げた動作のままで動きを止めた。
「あ……あはははははははは」
 ソニアは乾いた笑みを浮かべ、台ふきを持っていた手を無意味に左右に振る。
「ま、まあいいじゃん。行こうよ、ね?」
「……うん、そだね。行こっか」
 フィラはため息をつきながら、コップをお盆の上に置いた。半分くらいその場のノリというかソニアへの気遣いのような気がするが、遠くから見るくらいなら良いだろうと思う。やっぱり興味もあるし。
「でもその台ふきは、洗ってきてね」
 ソニアはもちろんよーとか言いながら、そそくさと台ふきを拾い上げ、厨房へ入っていった。

 ユリンは、大地の果てと呼ばれる絶壁の縁に位置する町だ。居住区は町の中心点でもある時計塔を囲むように広がっていて、時計塔から十字型に四方へ伸びる大通りは、どれも市街地から少し離れた地点で途絶えていた。
 東へ向かう道は草原の途中で草の間に消え、南へ向かう道は惑いの森で、西へ向かう道は大地の果てで途切れる。
 今フィラたちが辿っている北へ向かう道も、花畑の広がる白花の丘を越え、急峻な岩山である風泣き山に達したところで終わっていた。
「竜は山の麓に落ちたそうよ。場所はだいたい聞いてるの。丘でお弁当を食べ終わったら、見に行こうね!」
 先頭を行くソニアが、振り返って弾んだ声を上げる。
「それって、滝よりも向こうかな?」
 猟師見習いのレックスは、フィラの隣をのんびりと歩きながら首をかしげた。レックスは顔つきにも体つきにもまだ幼さを残しているが、猟師見習いとして風泣き山へ狩りについて行くことを許されている自称『立派な社会人』だ。ユリンの町の住人は風泣き山の滝を越えた先へ行くことを禁じられているのだが、森へ入る機会の多い猟師たちは特に厳しくその掟を守っているらしい。
「いやだ、そんな所まで行かないわよ。私たち猟師じゃないもの。麓の森にだってそんなに深くは入れないわ」
 ソニアは笑いながら首を横に振り、少し歩調を緩めてレックスとフィラに並んだ。
 白花の丘へ向かう道の周囲に広がる草原は、花畑から飛んできた種で様々な色彩に染められていた。半ば野生化した花々は、初夏の眩い日射しを弾いて咲き誇っている。
 蜜蜂の羽音、遠くの林で鳴き交わす小鳥たちの声、花や草の、甘いような青臭いような匂い。
 のどかな小道を歩いていると、竜なんて存在自体が伝説みたいな生き物が近くに来ているなんて、まるで冗談のようだ。

 白花の丘は主に町の外に花を出荷するための花畑だが、ユリンの町の人々にも公園として開放されている。初夏の花々が咲き乱れる中、三人は丘のてっぺんのベンチのある広場で、持ってきた食べ物を広げた。
 踊る小豚亭シェフのエルマーが作ってくれたお弁当は、サンドイッチを中心にフライドチキンやサラダを添えた軽食風のものだ。談笑しながら食べ進むうち、話題は新しくやってきた領主と聖騎士の面々の噂に移っていった。
「フィラはもう領主様にお会いした?」
 ハムサンドに手を伸ばしながら、ソニアがにこやかに訊ねかけてくる。
「えーと……うん、まあ、ちょっとだけ」
 他言無用ってどこからどこまで黙っていれば良いんだろう、と悩みながら、フィラはあいまいに頷いた。
「何か話した?」
「ううん。挨拶程度」
「そうなんだ。私ね、ちょっとだけお話ししちゃった」
 ソニアがそれはもう嬉しそうに笑うので、フィラはやや狼狽しながら頷く。
「……へえ。それで、どうだった、の?」
 ソニアはハムサンドを一口かじり、もったいぶるようにゆっくりと飲み下してからまた微笑んだ。
「うち、お城にここから運んできた花を納入してるでしょ? もしかしたら領主様にお会い出来るかもって思って、この間父さんに連れて行ってもらったの」
「積極的だなあ」
 レックスがのんびりと、ソニアが期待したものとはズレていそうな相づちを打つ。ソニアは無視して話し続ける。
「でね、温室に花を運び込んでいたら、綺麗な花ですねって話しかけてくれたの。その後でちょっとだけ、花の名前とか、花言葉とか聞かれてね、もう、感動しちゃった。前の領主とは大違い! 優しいし、紳士的だし、親しみやすくて暖かい感じだし!」
 ……それって誰の話なんだろう。
 引きつった笑いを浮かべながら、フィラは思う。あの時会ったあの人の話だとは到底思えない。
「でね、その後父さんとも話してたんだけど、花とお天気のこととか、結構親身になって聞いて下さってたから、父さんも感激しちゃって……」
 ――そうだ、別人だ。
 なおも興奮気味に話し続けるソニアの声を聞き流しながら、フィラはそう結論づけた。
 別人に違いない。やっぱりあのアレが領主だなんて何かの間違いか夢かどっちかだったのだ。明日あたりバルトロの工房に行けば、バルトロはまた飛行機を作っているに違いない。いつもみたいに。そうだ、そうに決まっている。
「聞いてる? フィラ」
「え、あ、うん、えと、想像してた」
 ぐるぐる回る思考の海からソニアの不審げな声に引き戻されて、フィラは慌てて頷いた。
「そっか、会ったことあるんだもんね。わかるよね? フィラも格好良いって思うでしょう?」
「そう……だね、声は格好良いって思った……かな?」
「声ぇ?」
 ソニアが呆れたような口調で繰り返す。
 我ながら苦しい、とはフィラも思う。しかし、顔はなんだかよく覚えていないのだ。すごく綺麗に整っていた気はする。女性らしいとか儚げとか、そういう類の美しさではなかったけれど。
 容姿でよく覚えているところと言えば、目だ。青い瞳だけが妙に記憶に残っている。思い出そうとすると、あの瞳の印象ばかりがちらつくくらい。
 他はどうだっけ。彫像っぽかった気がする。
「顔は……私はもうちょっと素朴な感じの方が」
 ひたすら記憶を反芻した後で、フィラはようやくそう答えた。
「じゃあ、雰囲気は?」
 そこまで追求しないで欲しいと内心冷や汗を流しながら、フィラは必死で答えをひねり出す。
「雰囲気は……な、なんか得体が知れない感じ?」
「フィラって、領主様みたいなタイプ、苦手なんだ」
 レックスが実に的確な感想を漏らした。確かに、嫌いか苦手かと言えば苦手の方が近い。
「そうなんだ……」
 ソニアは何故だか残念そうに呟いた。
「ね、フィラ」
 ようやく追求が止みそうだとほっとしたフィラに、ソニアはサンドイッチを片手に持ったまま身を乗り出す。
「フィラってさ、カイ様のこと好きなんでしょ?」
 投下された爆弾に、フィラはついに頭の中が真っ白になるのを感じた。