第二話 竜は低気圧を運び、騎士は低血圧を嘆く

 2-2 雨音と扇風機

「……なんで、そうなるの……?」
 一瞬の沈黙の後で、フィラは呆然と訊ね返す。
「違うの?」
 ソニアは違うとは言わせない、とばかりの勢いでさらに身を乗り出す。
「だって、いつも酒場にカイ様が来てるとちらちら見てるじゃない」
 ……見てたっけ。
 フィラはソニアから視線をそらしながら考え込んだ。そんなに見ていただろうか。あまり自覚がないのは問題かもしれない。
「……そういうんじゃないよ、たぶん。ちょっといいなって思ってただけで……この間話す機会があったんだけど、好きとは違う……違うと思う」
「そうなの?」
 ソニアは変なものを飲み込んでしまったような、釈然としない表情で体を起こした。ソニアの影が遠のいて視界が明るくなると同時に、追求からも逃れられた気がしてフィラはほっと息を吐く。視界の隅では、我関せずと食べ続けていたレックスが空っぽになった弁当の残骸を片付けている。
「ソニアこそ、どうなの? もしかして玉の輿狙ってたりする? ……新しい領主様とか」
 そうだったら止めるべきかもしれない、と思いながら、フィラは反撃を開始した。
「玉の輿!?」
 ソニアは大げさに両腕を広げながらのけぞり、えらく楽しそうに笑い出す。
「まさか!」
 反撃があっさりとかわされたことに、落胆したようなほっとしたような妙な気分で、フィラはそうなの? と首をかしげた。
「だって、領主様は貴族よ? 私たちとは住む世界が違うのよ? 社交界なんて憧れるけど、私には絶対無理! 見てみたいけど、飛び込むのはごめんこうむるわ!」
 ソニアはわざとらしいくらい大げさな口調で言う。それもそうかと頷きながら、フィラは強烈な違和感に襲われていた。『貴族』という言葉を聞いた途端、なぜだかとっさに時代錯誤だと思ってしまったのだ。今現在確かに存在している貴族に対して、時代錯誤も何もあるわけがないのに。
 首をひねるフィラの耳に、レックスののんびりとした声が飛び込んできた。
「そろそろ竜、見に行く? 日が落ちると危ないしさ」
 フィラたちの食べ終わった跡にも片付けようと手を伸ばすレックスに、フィラとソニアは慌てて立ち上がる。
「うわ、ごめん、片付け任せちゃって」
 謝るフィラと慌てるソニアに、レックスは気にすることないさと右手を振った。

 白花の丘を背に三十分ほど歩いたところで、小道は風泣き山の麓の森へと入っていく。森の縁まで辿り着いた三人は、何か巨大なものを引きずったような跡が風泣き山の方へ続いているのを見つけた。
「ねえ、これってやっぱり……」
 ソニアが期待に瞳を輝かせながら、フィラとレックスを振り返る。
 レックスは言葉では答えずに、持っていたバスケットをフィラに手渡して手近な木に素早く登り、目を細めて跡が続く方を眺めた。
「ずっと奥の方に行っちゃったみたいだね」
 風泣き山の方を見ながら、レックスが残念そうに言ってよこす。
「向こうの方の木がなぎ倒されてるんだけど、結構遠くまで続いてる。滝まで行っちゃってるかもしれない」
「そう……残念ね……」
 ソニアは一転して表情を曇らせると、ため息と共に肩を落とした。
「ソニア……?」
 そのまま何事か考え始めたソニアの顔を、フィラはなんとなく嫌な予感を抱えつつ覗き込む。ソニアはフィラの不安には気づかない様子で、ぶつぶつと何事が呟き始めた。
「でも……そうよ、鱗の一枚くらい……だめかしら?」
 ソニアはついに顔を上げ、フィラと木から下りてきたレックスを見て言った。レックスは両腕を組み、難しい表情で考え込む。
「そうだなあ……」
「だって、風泣き山にはそれほど危険な生き物がいるわけじゃないんでしょう? 蛇とか蜂だって、道を歩いている限りじゃ滅多に出ないってあなたのお父様に聞いたわ」
 乗り気ではないらしいレックスに、ソニアは早口で畳み掛ける。
「それは、そうなんだけど……でも今は竜がいるし、あれ一応危険な生き物だし、それに僕が一緒にいて二人を危ない目に遭わせたりしたらむちゃくちゃ怒られるような……」
「危険な目に遭わなければいいのよ。それで万事解決、四方八方幸せ、それでいいじゃない。さあ、行きましょう!」
 ソニアは一方的に宣言すると、バスケットを振り回しながら勢いよく風泣き山の方へ向き直り、ずんずんと進み始めた。
「……いいのかなあ」
 上機嫌なソニアの背中を見つめながら、レックスはあきらめ半分に首をかしげる。
「止める自信ないな、私」
「僕も」
 フィラとレックスは顔を見合わせ、やれやれと肩をすくめた。
「こうなったら、早めに鱗が見つかることを祈るしかないんじゃない?」
 フィラは歩き始めながら、レックスへと振り向いて笑う。
「そうだね」
 レックスも、半分呆れたような微笑と共に頷いた。

 そしてその三十分後に、フィラは二人とはぐれた。

「な、なぜ……?」
 暗くどんよりと曇った空を見上げて、フィラは眉根を寄せた。さっきまで確かに晴れていた。二人だって、すぐ側を歩いていたはずなのに。
 ――もしかして。
 今にも降り出しそうな空に雨宿り出来そうな場所を探しながら、フィラは考える。
 ――また、あの変な体質が発動してしまったのだろうか。
 呼んでも返事がないということは、たぶんそうなのだろう。森の風景はどこまで行ってもあまり代わり映えしないものだから、いつどこで瞬間移動したのかはよくわからないのだけれど。
 そこまで考えて、フィラははたと足を止めた。だとすると帰り道も分からない、ということに気づいてしまったのだ。
 ……どうしよ。
 フィラは考え、空を見上げ、ため息をつき、とりあえず雨宿り出来る場所を見つけるまで、怖い考えは放置しておくことに決めた。周囲を見回せば、前方には風泣き山の切り立った崖が見える。ここが風泣き山のどの辺なのかわからない以上、遠ざかる方が迷う確率が高そうだ。あまり頼りがいのなさそうな獣道を辿って、フィラは崖の方へと歩き始める。
 崖の麓まで辿り着いた後、フィラは今度は西へ向かって崖と平行に行くことにした。ユリンの町の西には、大地の果てと呼ばれる断崖が広がっているから、西へ向かう限り少なくとも町を大きく行き過ぎるということはない。
 その名の通り大地がそこで終わってしまったかのような、遥か雲の下まで落ち込んでいる絶壁を思い出して、フィラは小さく身震いした。壮大というより壮絶という言葉の方がイメージに合うようなその崖は、見る者に寒気を催させるような何かを持っている、と、フィラは思う。なんとなくだけれど、苦手な光景だ。
 ――ともかく、雨が降り出す前にどこか……
 思って周囲を見回したフィラは、前方に洞窟を見つけてほっと息をつく。フィラの身長の三倍はあるだろう随分大きな洞窟だ。風泣き山には竜でも出入り出来るほどの大きさの洞窟が珍しくないのだと、町に住む老人に聞いたことがある。ユリンの町が出来る前には、実際洞窟に住み着いていた竜も何匹かいたのだそうだ。
 遠くの空では雷が鳴り始めていた。たぶん通り雨だろう。視界が悪い中を歩くより、洞窟で雨が通り過ぎるのを待って帰り道を探す方が危険が少ない気がする。
 洞窟に入り、入り口近くに出っ張っていた岩に腰掛けて見上げた空は、不機嫌な灰色に染まっていた。この色を見るのは随分久しぶりなような気がする。絶望的な灰色、と、誰かが表現していた。誰がどんな場面で表現していたのか全然思い出せないということは、たぶんフィラがユリンの町へ来る前の記憶なのだろう。その『絶望的な灰色』から降り始めた雨は、昔使っていた扇風機と似た音を立てて少しずつ雨脚を強めていく。
 昔使っていた扇風機。
 自分の思考に、フィラは小さく苦笑した。こんな風に唐突に、なくしたはずの記憶が時々浮かび上がってくることがある。不思議なほどどうでもいいようなことばかり。一緒に暮らしていた人の顔や名前や、住んでいた場所の風景や地名は全然思い出せないのに。
 それにしても、雨のような音を立てる扇風機って何だろう。バルトロが以前、飛行機のプロペラを改造して扇風機を作っていたけれど、それはもっと派手な音を立てて回っていた。
 本当に、自分はどこから来たのだろう。
「まさか、未来からタイムスリッ」
 不意に洞窟の奥から地鳴りにも似たうめき声が響いてきて、思わず口をついて出た独り言をかき消した。
「ぷ?」
 フィラはとりあえず独り言を最後まで言い終えてから、おそるおそる背後を振り向く。
 風泣き山名物の、甲高い『風の泣き声』ではない。正体不明の低音。この世ならざるうめき声。今日自分がソニアやレックスと何を見に来たのか考えれば、答えは自ずと決まってくる、ような気がしないでもない。
 フィラは思わず立ち上がり、膝に乗せていたバスケットを取り落として狼狽し、無意味に両手を動かしてからバスケットを拾い上げ、もう一度おそるおそる洞窟の奥へ目をやった。武器はあるけれど、明かりになるようなものは持っていない。
 武器。
 拾い上げたバスケットを開き、布にくるんで底に隠しておいたそれを取り出してみる。ハンカチの中から現れたのは、護身用の拳銃――両手に収まるほどの大きさの装弾数五発のリボルバーだ。フィラが外から持ち込んだトートバッグに入っていた物で、見た瞬間に使い方は思い出せた。自分の過去の手がかりとなるものかもしれないけれど、平和なこの町には似つかわしくないものに思えて今まで誰にも見せずにきたものだ。
 しかし、平和な町に似つかわしくないとは言っても護身用だから銃身が短くて命中精度に不安があるし、たとえ急所に当てられたとしても威力の方も心許ない。竜鱗なんて硬いものの代名詞のようなもので覆われている竜にはまず効果がないだろう。それでも一応、竜だと決まったわけではないんだし、何があるのか確認するだけだから、と自分に言い訳して、フィラはバスケットを足下に置き、銃を両手で構えながら洞窟の奥へと足を踏み出した。