第二話 竜は低気圧を運び、騎士は低血圧を嘆く

 2-3 聖騎士団の事情

 洞窟の暗闇に目が慣れるまでに少し時間がかかる。壁の窪みに身を潜ませながら、そっと奥を窺う。途切れ途切れに響いてくるうめき声の主は、思っていたよりも入り口の近くにうずくまっているようだ。周囲の闇よりもさらに濃い漆黒が小山のように集っているのを確認して、フィラは拳銃の使用を諦めた。あの巨大さはどう考えても竜だ。豆鉄砲のような護身用の拳銃では挑発の役にしか立たない。もしくは跳弾して自分に危険が及ぶとか。
 今できる最良の選択は、逃げ帰って町の誰かに報告することだろう。とにかく、何がどこにいるのかは確認出来たのだから。雨には濡れることになるけれど、それは仕方がない。
 一つ頷き、足音を忍ばせてその場を立ち去ろうとしたとき、竜がまたうめき声を上げた。うめき声が耳に入った瞬間、フィラは全身がきしむような痛みを感じて思わずうずくまる。取り落とした拳銃が岩盤に当たって硬い音を響かせる。まずい、と思って竜の方を見上げたフィラは、そのまま凍り付いたように動きを止めた。わずかな光を反射して緑色に輝く瞳が、フィラをその視界に捉えていた。
 恐慌を起こしかけながら床を探る。指先が探し当てた拳銃を拾い上げ、とっさに竜のこめかみを狙う。射撃のタイミングをつかもうと相手の出方を窺おうとしたところで、フィラはようやく竜がこちらに敵意を持っていないらしいことに気づいた。
 次にフィラが思ったことは、助けを呼んできてもらわなければ、ということだった。誰に? もちろん、目の前の人間にだ。
 そこまで思考が到達したところで、巨大な疑問符が脳内を回り始めた。今考えたことは、あきらかに『フィラが考えたこと』ではなかった。
「テレパシー?」
 構えていた拳銃を下ろしながら、竜に向かって尋ねる。自分の思考がすぐにそれを肯定する。奇妙な自問自答をしているような気分だが、自問自答ではなくて会話なのだろう……たぶん。
「助けを呼ぶ?」
 肯定と同時に脳裏に浮かんだのは、なぜか新しく来た領主――ジュリアン・レイの姿だった。この人なら助けてくれる、という竜の信頼感は、フィラの中の不信感とぶつかって今まで感じたことのないジレンマを生じさせる。
「なんで、あの人を……」
 ――怪我をしているからだ。あの人ならば、竜の傷をいやせる人間を知っているはず。そして、あの人はよほどの理由がなければ竜を狩ることはしない。
 本当だろうか。バルトロの空を飛びたいという願いを絶って、記憶も消してしまった人。余計なことを話したら消す、と自分を脅した人。命と引き替えに自分を研究材料にしようとしている人。目の前の竜が彼に寄せる信頼を、フィラはどうしても受け入れることが出来ない。ここに竜がいることを知らせに行くことで、この竜も研究材料にされてしまうかもしれない。種族の特性なのかもしれないが、偽りの感じられない思考で語りかけてくるこの竜に、フィラは好意を感じ始めていた。竜に不幸や面倒が降りかかる可能性があるのだと思えば、どうしても知らせに行くのを躊躇してしまう。
 頑ななフィラの反応に、竜は困惑しているようだった。目の前の人間は彼のことを誤解していると、竜は訴えてくる。
 ――目の前の人間よりも自分の方が、彼のことをよく知っている。彼はむしろ、実験材料にされそうになっていた自分を助けてくれた人間だ。それにたとえ研究材料にされたとしても、今ここで死ぬよりはずっと良い。
 フィラは思わず息を呑んだ。そして、さっき全身に走った痛みのことを思い出す。拳銃が地面に落ちた瞬間に消えてしまった、あの痛み。
「じゃあ、さっきの痛みはあなたの?」
 言葉にならなかった思考の流れも読み取った竜が、肯定の思考を返してくる。
 フィラは瞳を伏せて考えた。竜の治療が出来る人なんて自分は知らないのだから、この竜の考えを信じて彼を呼びに行くしかない。新しく来た領主は得体の知れない人だし、やっぱり善良な人間だとも思えないけれど、さすがにこの竜の信頼を裏切るような人でなしではないだろう。
「わかりました」
 フィラは視線を上げ、自分を見守っていた竜の瞳を覗き込んだ。
「私、あの人を呼んできます。だから、町への道を教えていただけますか?」
 その言葉を聞いた竜は、微かに瞳を細める。同時に伝わってきた喜びの感情で、それが竜の笑顔だということが分かった。フィラは竜に向かってぎこちない笑顔を返し、送られてくる思考に従って洞窟の外へと歩き出す。
 洞窟の入り口に置きっぱなしになっていたバスケットを拾って拳銃をしまい込み、ふと視線を上げると、雲の隙間から青空と太陽が覗いていた。雨はいつの間にか上がっていた。

 実際には、竜がここまで巨体を引きずってきた跡がそちらこちらに残っていたので、竜が送ってくる思考が途絶えた後もフィラが迷うことはなかった。折れた灌木や地面から引きはがされた野草と土の、青臭い匂いが道案内だ。雨が上がって太陽が出たせいで、余計に匂いが強くなっている気がする。
 ――そういえば、ソニアとレックスはどうしただろう。
 森の先を見透かしながら、フィラは考える。
 レックスは不思議な方法でユリンへやって来たフィラを助けた関係で、自分の意志と無関係に短距離瞬間移動してしまうというフィラの特異体質のことを知っている。とすると、フィラがはぐれた地点を探すより、町に戻って酒場のエディスやエルマーに相談している可能性の方が高いだろう。
 ――参ったな。
 倒木を乗り越えながら、フィラはため息をついた。どこの誰なのかさっぱりわからない自分を引き取って仕事や衣食住を与えてくれている人に、これ以上迷惑をかけたくないのに。この勝手に瞬間移動してしまうという体質をどうにかする手段を考えなくては、と、改めて思う。そういえばこの体質について研究したいとか言っていた人がいた気がするが、彼に聞けばこの体質が変なところで発動しないようにする方法を教えてもらえるのだろうか。心神を喪失させたり記憶を消したりといった魔法を使うような人は、やっぱりどうしても信用しがたいのだけれど。でもまあ、どうせこれから会うのだし、聞くだけ聞いてみようか。
 なんとなく決意を固めたところで、フィラの耳が誰かの話し声を拾った。まだだいぶ距離があるようだが、レックスとソニアと、もう一人知らない誰か。たぶん、女の人。声に向かって歩調を速めながらフィラはそう判断する。
 お互い竜の移動した跡に沿って移動していたおかげで、フィラとレックスたちはそれからすぐに合流することができた。まず木立の間からレックスのうす茶色の猫っ毛が出現し、続いて聖騎士の制服を着た黒髪の女性とソニアが現れる。背中の真ん中あたりまで届く長い髪をポニーテールに結わえた女性は、フィラとさほど変わらないほどの若さに見えた。
「あ、いたいた」
 レックスののんびりとした報告に視線を上げた騎士は、レックスを追い越してフィラに駆け寄る。
「君がフィラちゃん?」
 目の前に立った騎士が最初に口に出したのは、あからさまにほっとした声音の問い掛けだった。
「はい」
「良かった、無事だったんだ」
 騎士は安堵のため息をついたかと思うと、急に姿勢を正して頭を下げる。
「ごめんなさい。本来なら情報が入った時点でこの辺一帯に立ち入り制限かけなきゃいけなかったのに、こっちの不手際で守るべき民を危険にさらしてしまった。本当に、申し訳ありませんでした」
「い、いえ。大丈夫です。危険な目には、遭ってませんから」
 頭を下げたままの騎士に、フィラは狼狽しながら両手と首を横に振る。怒られるならともかく、いきなり謝られるなんて予想外だった。聖騎士は頭を上げ、今度はやや親しげな微笑を浮かべる。
「ホント、ごめんね。いったんキャンプに戻るからついてきてくれる? その後、車で市街地まで送るから」
「ありがとうございます」
 頭を下げるフィラの後ろで、レックスが「やった」と呟く。畑で使われるトラクターの類はユリンでも多く使われているが、乗用車となると中央からやって来る貴族しか使わない。その車に乗せてもらえるなんて、滅多に体験できない貴重な経験だ。
「ああ、いや、車っていってもオンボロ中古車なんだけどね」
 瞳を輝かせるレックスとソニアに向かって、聖騎士は力なく訴えた。

「フィラがいなくなってすぐ、町に引き返したの。その途中で聖騎士団の皆さんに会って、ここは立ち入り禁止になったって言われて、もうびっくりしちゃった。途中ではぐれた友だちがまだ森にいるんですって言って、そしたらあちらの……リサさんが一緒に探すって言ってくれたのよ」
 聖騎士団のキャンプへ向かう途中、ソニアはフィラにそう説明してくれた。紹介された聖騎士のリサは、先頭から振り返って微笑と共に軽く頭を下げる。
 聖騎士団には不思議と若い人が多いんだなとフィラは思う。東洋系の顔立ちのリサは見た目より年上なのかもしれないが、それでもせいぜい二十代半ばだろう。
 光の女神リラを信仰するリラ教会は世界中に信者を持つ大きな勢力だ。聖騎士団はそのリラ教会が擁する騎士団の一つで、リラ教会の最高機関である光王庁に属している。領主が交代した後、酒場でずいぶん話題になったのだが、少数精鋭かつ光王親衛隊とも比較されるほどのエリート集団で、最高でも二十五人しかメンバーとして迎え入れないのだそうだ。正直なところ、こんな田舎町に団長自ら領主として就任してくるような重要度の低い組織ではないらしい。
 そういった噂話から考えると、いかにも経験豊富で威圧感のあるメンバーが揃っていそうなのに、このギャップは一体何なのだろう。
「あの」
「ん?」
 わからないことは聞いてしまうに限る。フィラは前を行くリサの背中に向かって問いかけた。
「聖騎士って、団長が交代すると団員も入れ替えになったりするんですか?」
「え? ああ、若いのばっかりだから?」
「はい」
 振り向いたリサは苦笑いを浮かべている。
「いやあ、そういうわけじゃないんだけどさ。四年くらい前に壊滅しかけてるのよ、聖騎士団」
「ええっ!?」
 フィラが驚くより先にソニアが声を上げた。
「こっちまではニュース来てないんだね。まあ、ちょっと事件があって先代団長を含むほとんどの騎士が抜けちゃって。現団長と現参謀がなんとか人を集めて体勢を立て直したんだけど、もう聖騎士団はダメだって見放す人も多くてね。弱冠十八歳の団長じゃやっぱちょっと威厳を保てなくてさ。メンバーも経験豊富な人は集まらなくて若手中心になっちゃったし、『誉れ高き聖騎士団』の地位も地に落ちちゃったってわけ。一応聖騎士団に与えられてた特権は保持してるけど、今は中央省庁の方じゃ青二才がとか餓鬼の集団がとか軽く見る向きが主流かな」
「大変……だったんですね」
 フィラはしみじみと呟く。リサは軽い調子で話しているが、きっと余程のことがあったのだろう。
「ま、私は聖騎士団のVIP待遇は見るだけだった側だし、こんなことでもなきゃとても団員になんかなれなかったから、特にそれで大変だとは思ってないんだけどね。ジュリアンとかフェイルには激動の時代だったんだろうけど」
 苦笑混じりのリサの言葉に、ソニアがふと首をかしげた。
「ジュリアン様が団長で、フェイル様っていうのは……?」
「参謀。四十越えてるの、彼含めて二人しかいないから、なんか保父さんみたいな感じよ?」
 リサはあっさりとそう答える。一般市民の三人はその言葉に頷くわけにもいかず、どう反応したものだか途方に暮れた。