第五話 月のない真昼

 5-5 消える月

「何の話、してましたっけ?」
 竜の呼びかけで意識を取り戻したフィラは、難しい表情で考え込んだ。何かとてつもなく重く暗い話をしてしまったような気がするのだが、内容が綺麗さっぱり思い出せない。
 ――大丈夫ですか?
 以前話したときよりはずいぶん人間の会話に近い形態の思考が竜から伝わってくる。
「すみません、大丈夫です」
 今日はリーヴェ・ルーヴと『お話』しに来たのだ。それなのに、何やら難しい話題を振った上に途中で寝てしまうなんて。
 ――最悪だ。
 自己嫌悪に苛まれながら、フィラは顔を上げる。
「ごめんなさい、何か……その」
 気にしないで、と竜は言った。緑色の瞳が優しく瞬いて、聖騎士団団長と私の出会いを知りたいか、と尋ねてくる。あまり面白いお話ではないかもしれないけれど、と。
「いえ、リーヴェさんさえ良かったら、ぜひ聞かせてください」
 少し前のめりに姿勢を変えたフィラに、リーヴェ・ルーヴは少し微笑んだようだった。

 リーヴェ・ルーヴがジュリアン・レイと初めて出会ったのは、七年前の秋。冷たい雨の降り注ぐ日だった。人里から離れた山の洞窟(具体的な地名はリーヴェ・ルーヴの思考からは伝わってこなかった)で眠っていたリーヴェ・ルーヴは、突然の闖入者に目を覚ました。竜の鋭い五感と魔力は、曲がりくねった洞窟の奥深くからでも、入り口に立ち尽くす闖入者の姿を捕らえることができる。
 闖入者は人間の少年だった。まだ生まれてから五千日ちょっとしか経っていないだろう、顔立ちにも体格にも幼さを残した線の細い少年だった。色の薄い金髪が雨に濡れて額に張り付き、断固とした意志力で引き締められた無表情は、血の気を失って真っ白だ。
 人間の子どもの周りには人間の大人がいる可能性が高い。そう知っていたから、リーヴェ・ルーヴはもう少し知覚を研ぎ澄ませて広い範囲を探った。洞窟を中心に同心円状に、知覚の範囲を広げていく。
 ――誰もいない。
 人間の足で丸一日ほどの距離にある一番近くの民家まで探ったところで、リーヴェ・ルーヴは少年が一人であるという結論に達した。群れの加護を離れ、大人の保護も受けず、彼は一人でやって来たのだ。人間にとっては危険が大きいはずの、野生の森と岩山を抜けて。
 リーヴェ・ルーヴは用心深く少年の様子を探る。竜の身体を構成する主要要素である竜素は、魔力を遮断することができる唯一の物質だ。人間たちにとっては利用価値の高いものらしく、竜の命を狙う者は決して少なくはない。そうでなくてもこの洞窟には、リーヴェ・ルーヴが『守るべきもの』が眠っているのだ。自然と警戒心は高まった。
 少年は剣を携えていた。まだ発達段階の小柄な体躯に合わせた短い剣は、こんな危険な場所までたどり着くにはいささか心許ない武器だ。それでもリーヴェ・ルーヴは彼を恐れた。彼が持つ剣の故にではなく、彼が持つ魔力の大きさ故に。
 彼が本気で向かってきたら――いや、それはないだろう。
 さらに詳しく少年の魔力を観察したリーヴェ・ルーヴは、少年に『守護神』がいないことを知って安堵した。『守護神』のいない魔術師は弱い。大きな魔力を持っていても、守護神なしで大規模魔術を発動させるような無茶はできないからだ。そんなことをすれば術者の『ロスト』を引き起こす。大規模魔術を使えない人間が、リーヴェ・ルーヴを傷つけることは難しい。それでもここまでたった一人で辿り着いた人間に警戒を解くことはできず、リーヴェ・ルーヴはゆっくりと起きあがった。
 リーヴェ・ルーヴが状況を分析している間に、少年は洞窟の奥へと足を踏み入れていた。時折分かれ道で立ち止まりながらも、迷うことなくこちらへ向かっている。リーヴェ・ルーヴは全身の鱗を硬化させ、手足と尻尾の隅々まで戦闘用の神経を行き渡らせる。迎える準備はできた。洞窟の最奥の闇の中で、竜は静かに少年を待つ。
 ついに少年が目の前に姿を現した。少年が灯した魔力光が、彼自身の姿とリーヴェ・ルーヴの巨大な影を照らし出す。ここまで近付けば、思考で会話をする竜は人間の思考を感じ取ることができた。緊張と不安、畏怖と恐怖。そしてそれを抑えつける、強い意志力と覚悟。
 少年は畏れを押し隠した薄青い瞳でリーヴェ・ルーヴを見上げる。刹那の沈黙。絶望にも似た彼の心の動き。少年は決然と口を開く。
「私の名はジュリアン・レイ。あなたに頼みたいことがあって参りました」
 頼みとは何だろう。リーヴェ・ルーヴはそう思い、その思考を彼に伝えた。
「レーファレスという名の神を、知っているはずです。その神が宿った剣を、渡して欲しい」
 何のために、と竜は尋ねた。

 ――答えに満足したので、私は彼に剣を渡しました。
 リーヴェ・ルーヴはそう言って、唐突に話を終わらせた。ジュリアンがどう答えたのかが、明らかに意図的に話から外されている。つまり、話したくないか話せないかどちらかなのだろう。そう考えるフィラの思考に、リーヴェ・ルーヴは肯定の感情を返してくる。
 ――あの剣は、私がまだ生まれたばかりだった頃、ある人間から託されたものです。ある目的を果たすために。ジュリアン・レイの願いも、その目的を果たすことでした。だから私たちは、彼に剣を託すと決めたのです。
 そこまで話したところで、ふいにリーヴェ・ルーヴの思考にノイズが混じった。伝わってきた酷く苦い感情に、フィラは戸惑って竜の様子を窺う。リーヴェ・ルーヴは首を伸ばし、満天の星空を見上げていた。
 ――それからユリンで再会するまでに、彼とは二度会いました。一度目は、彼が私の眠っていた洞窟付近に人がたくさんやって来るという知らせを持ってきてくれたとき。二度目は密猟者の手から私を救ってくれたとき。
 竜は感情を押し殺し、淡々と言葉だけを伝える。声を使っていないだけで、ほとんど人間同士のコミュニケーションと変わらない。
 ――出会うたびに、彼の孤独は深くなっている気がします。
 竜が伝えてくる内容が、再び言葉ではなく思考へとシフトした。フィラに話しかけているというより、自分の心の中だけで独り言を呟いているような調子だ。
 ――今夜は特にそれが酷かった。
 リーヴェ・ルーヴが自分の思考に没頭してしまったせいか、伝わってくる思考にぼんやりと膜がかかる。フィラに思考を伝えていることも、一時的に失念してしまっているようだった。
 ――あなたが一緒にいたせいかもしれない。
 その一言は、本当にただの感情として伝わってきた。理解するまでにしばらく時間がかかった。人間の言葉に直すまでに一秒。あなたが誰で一緒にいたのは誰でどっちがどっちにどんな影響を与えたのか、を考えるのに四秒くらい。
「わ、私のせいですか?」
 ようやく意味を理解したフィラは、思わず背筋をぴんと伸ばして問いかけた。その瞬間、リーヴェ・ルーヴはフィラと思考を接続しっぱなしであったことに初めて気がついた。初めて気付いた、という動揺と、しまったとか失敗したとかいう後悔の感情が混ざり合ってフィラに届いた。
 思考の空白。人間だったら絶対重く深いため息をついていただろう諦めの感覚。伝えて良いのか悪いのか、悪いに決まっているけれど伝えてしまいたい、という葛藤。
 それからリーヴェ・ルーヴは、ゆっくりと首を動かしてフィラへと振り向いた。緑色の瞳が、心の奥底まで射抜くようにフィラを見つめる。
 ――あなたは、あの子が憬れてやまない世界に住んでいるから。
 リーヴェ・ルーヴと繋がっていた、思考をやりとりするための道が途切れたのがわかった。だから次の瞬間襲ってきた感情は、間違いなくフィラ自身のものだった。
 さっき竜からノイズとして伝わってきたのと同じ、苦い感情。それは、罪悪感だった。

 お互いになんとなく後味の悪い話ばかりしてしまったことを反省して、その後フィラとリーヴェ・ルーヴは努めて気楽な雑談に徹した。とは言っても、リーヴェ・ルーヴの方は話してはいけないことばかり抱えていたから、雑談の内容はフィラが話すユリンの町に住む人々の他愛のない日常の話ばかりで、結局リーヴェ・ルーヴの方からの雑談は、いつかユリンの街中に行ってみたいという話題になったとき、そう言えばこの研究ドームの地下には、城の地下から続く長い地下通路があるという話が一つ出たきりだった。
 雑談は夜明けまで続いた。

(結局徹夜しちゃったな)
 白み始めた夜空に、フィラは立ち上がって伸びをする。朝日はまだ顔を出していないけれど、夜空は昼間の青さを取り戻し始めていた。
「団長、そろそろ来ますかね?」
 出発前に、踊る小豚亭の朝の準備に間に合うように送ると言われたことを思い出して、フィラは首を傾ける。
 ――気配が近付いてきています。そろそろ帰る準備をした方が良いかもしれません。
 答えてくれた竜を見上げて、フィラは微笑んだ。
「リーヴェさん、今日はどうもありがとうございました」
 ――こちらこそ。お話しできて楽しかったです。
 微笑み返すリーヴェ・ルーヴに促されて、フィラはたたんで座布団代わりにしていた毛布の埃を払い始める。
「コートは……洗って返そうかな? って、寒っ」
 ぶつぶつ呟きながらコートを脱ぎかけたフィラは、あまりの寒さに身を震わせた。慌ててもう一度コートに袖を通す。ごく自然に暖かかったから意識していなかったけれど、どうやら本当にこのコートの防寒機能は優れているらしい。
「もう真夏なのに……」
 両袖をかき寄せながら、フィラはなんとはなしに恨めしげな顔をして空を見上げた。東の中空に薄白い月が浮かんでいる。太陽が現れる前の曖昧な青の中に、その静かな白が酷く美しかった。
「綺麗」
 フィラが思わず寒さを忘れて呟いた瞬間、ふと月が揺らめいた。水面に波紋が広がるように、短く、けれど見間違いようもなく確かに。
「え?」
 目を瞬かせるフィラの前で、月はもう一度揺らめき、幻のように消え去った。
 ぞくりとした感覚が背中を走り抜けた。今度は寒さのせいなんかじゃなかった。一昨日、ジュリアンの影が薄く見えたことまで思い出してしまって、じわじわと染みこんでくるような不安に襲われる。現実感が崩れるのが怖い。記憶のないフィラにとっては、この二年間、ユリンで積み上げてきた現実だけが自分の過去のすべてなのに。この調子で何かに気付き続けていたら、きっとそのすべてが崩されてしまう。わかっていても目をそらすことはできなくて、フィラは月のない青空を見上げ続けた。

「おい」
 突然呼びかけられて、フィラは仰天した。反射的に背後を振り向いて、同時に聞こえたわざとらしいため息が前方からだったので、慌てて前に向き直る。
「何を呆けてたんだ?」
 ジュリアン・レイはしっかり目の前に立っていた。
「あ、団長」
 全然気付けなかったことが気まずくて、フィラはジュリアンの目を見ることができない。
「さっき、月が。月を見てたんですけど、あそこにあったのに、消えてしまって」
「月?」
 不審げに聞き返しながら、ジュリアンはフィラが指差した空を見上げた。
「どうして消えてしまったんだろうって考えてたんです」
「明るくなったからじゃないか?」
 ジュリアンはフィラへと視線を向け、不思議そうに答える。
「でも消え方、突然だったんですよ。不自然じゃないですか。それに考えてみたら昼間に月って見たことないし……見えたっておかしくないのに……」
 むきになって言い募るフィラに、ジュリアンは短くため息をついた。急に不機嫌な表情に変わったジュリアンに、フィラは思わず口ごもる。
「ぜいたく言うな」
 吐き捨てるような口調で、ジュリアンは言った。どう見ても怒っていたがフィラに対する怒りではないようだ。フィラは困惑する。
「ぜいたく?」
「そこまで面倒見きれるか」
 ほとんど自棄のような口調で言いながら、ジュリアンはフィラがまとめておいた荷物を拾い上げた。
「意味がわかりません」
 フィラは手伝おうと手を伸ばしつつ、ついでにジュリアンの表情を覗き見ようとする。
「別にどうでも良いだろう。あんな遠くにある天体のことなんて」
 ジュリアンはフィラに背を向けながら、全く何の答えにもなっていない答えを返した。もっと上手なごまかし方も言いくるめ方も山ほどあるはずだし、それを実行できるだけの能力だってあるはずなのにそうしないのは。
 単に寝ぼけているだけなのかもしれない。今までの例から考えて、それは大いにあり得ることのような気がする。
「でも、日中に月がどう見えるのかって興味あるんですよ。緯度とかが悪いんですかね?」
 さっさと車に荷物を運び始めたジュリアンの背中を追いかけながら、フィラはなおも訴え続けた。
「俺は見たくない。良い思い出がない」
 ジュリアンは毛布を車のトランクに放り込んで、不機嫌そうに振り向く。
「団長が見たくないから隠してる、わけじゃないですよね? あんな巨大なものを……」
「俺がそんな面倒なことをしそうに見えるのか?」
 偉そうに両腕を組んでふんぞり返るジュリアンに、フィラは困惑の視線を向けた。
「……いや……どうなんですかね?」
 正直、さっぱりわからない。
「本人に聞くな」
 ジュリアンはそう言い捨てると、フィラにここで待つようにと指示を出して観測ドームへ戻っていった。フィラは車に寄り掛かり、特に意味もなく朝日に長く延びた車の影をつま先でなぞる。硬い鉄の感触、同じ濃さの影。大丈夫。ちゃんと『現実』はここにある。
 ――フィラさん。
 心に直接響く呼び声に顔を上げたフィラは、観測ドームから顔を覗かせたリーヴェ・ルーヴと目があった。
 ――今日は来てくれてありがとう。良かったら、また遊びに来てください。
「はい、是非」
 破顔したフィラのために、早足で戻ってきたジュリアンが助手席のドアを開ける。
「帰るぞ」
 車に乗り込む前の一瞬、振り向いた空に、やはり月は見えなかった。