第五話 月のない真昼

 5-6 恩を売る人

 ユリン市街地の路地は狭かった。そのため、いくつかの幹線道路を除いて車両の進入は禁止されている。踊る小豚亭が位置する辺りもその例外ではなかったから、フィラは城の正門で車を降りる。
「いろいろとありがとうございました。コート、洗ってお返ししましょうか?」
「いや、いい」
 ジュリアンは車を降り、フィラと同じ側へ回り込みながら首を横に振った。
「団服のクリーニングは魔術具を取り扱う専門業者に任せている。その辺のクリーニング店では扱いに困るはずだ」
 それなら仕方ないと、フィラはコートを脱ぎ始める。夜明けの空気は昇りきった朝日に暖められ、もうコートを脱いでも寒さは感じなかった。
 フィラがコートのボタンを外している間、ジュリアンは黙って車に寄り掛かり、シガレットを取り出しながら空を見上げていた。
 夜が明けたばかりのユリンは妙に静かだ。車のエンジン音は低く、城門の向こうの城も沈黙に包まれ、まだ眠りの中にある街からは喧噪も届かない。ただ風が草原をざわめかせる音だけが聞こえる。この世からフィラとジュリアン以外の人間がいなくなってしまったんじゃないかと思えるくらい、徹底した壮大な静けさだ。その静寂が、夜明けの光と共に世界を神秘的に満たしていた。
「団長」
 脱ぎ終えたコートをたたみながら、フィラは微動だにしないジュリアンの横顔に控えめな声で呼びかける。静寂を破るのを恐れた小さな声は、もしかしたらジュリアンの耳には届かなかったのかもしれない。ジュリアンは返事をせず、代わりにため息をつくような調子で煙草の煙を吐き出した。
「聞きたいことがあるんだが……」
 ジュリアンは言いかけて迷うように言いよどみ、また煙草を口元へ持って行く。コートを差し出したまま首を傾げるフィラには振り向かず、もう一度煙を吐き出して、それからようやく言葉の続きを口にする。
「お前、バルトロ・グレンデスと約束していたのか?」
「約束?」
 要領を得ない質問に、フィラはさらに首を深く傾げた。聖騎士団で団長なんてやっている人の発する質問にしては、あまりにも言葉が足りない。
「飛行機が完成したら乗せてやるとか……そういう」
 ジュリアン自身も言葉が足りないと思ったのだろうか。気まずそうに説明が追加された。
「え、ええ、まあ」
 気まずい空気が伝染したフィラも、やや緊張気味に頷く。
「空を飛んでみたいのか?」
 次の質問は不思議なほど穏やかな調子で告げられた。どう返事をするのが一番良いか考えて、結局フィラは正直に答えることに決める。なんだかもう、いろいろ今さらだ。
「飛んでみたいと思ってます。団長は?」
「は?」
 ジュリアンは訝しげな表情で振り向いた。振り向いた拍子に、長くなっていた煙草の灰が地面に落ちる。驚いているのかもしれない。たまたま思いついた疑問を口にしただけなのに、ずいぶん意外な反応だ。なんとなく嬉しくなって、フィラはさらにたたみかける。
「空を飛ぶとか、興味ないんですか?」
「俺が?」
 ジュリアンは何とも言えない表情で呟いて、目をそらした。
「ない、と言えば嘘になるが」
 思いがけず肯定に近い答えが返ってきて、フィラは思わずまじまじとジュリアンを見つめてしまう。頑なに目をそらしている辺りが逆に本当っぽい。
 けれどフィラが続けて何か尋ねようとした瞬間、ジュリアンの表情はあらゆる感情を押し殺して一瞬で凍り付いた。
「だが、今は空を飛ぼうなんて考えるな」
 その表情と同じくらい冷たい口調で、ジュリアンはフィラの質問を圧殺する。
「どうして、空を飛んではいけないんですか?」
 質問は受け付けない、と、全身で拒否されている気がしたけれど、せっかく姿を現しかけた『何か』を逃してなるものかという負けん気だけで、フィラは質問し続ける。ジュリアンの機嫌がさらに降下することは覚悟の上だ。
 一瞬だけ垣間見えそうだった彼の本音に近づけるなら、氷のような視線でも絶対零度の声でも雷のような怒鳴り声でもどんと来い、と思った。
 どの予想も当たらなかった。
 ジュリアンが浮かべたのは、淡い微笑だった。笑顔と呼ぶにはずいぶん苦しげな、諦念を含んだものだったけれど、間違いなく作り物でも見間違いでもない笑顔だ。
 ジュリアンはそのままふっと息を吐いて、驚きのあまり呼吸を含めたすべての動きを止めてしまっているフィラへと振り返る。
「魔法が解けてしまうから……だな」
 ため息をつかれたのか鼻で笑われたのか、いまいち分別できなかった。ジュリアンは困惑しっぱなしのフィラに歩み寄り、差し出されたままだった団服を奪い取る。
「冗談だ。じゃあな」
 団服を差し出したままのポーズで凍り付いているフィラに背を向けて、ジュリアンは正門脇の通用門をくぐって城内へと消えた。フィラは呆然と立ち尽くしたまま、その背中を見送る。
 何であそこで笑うのか、魔法が解けるってどういう意味なのか、さっぱり理解できない。
 ――だけどそれよりも。
 それよりも何よりもわからないのは、見とれてしまった自分自身だ。
 今さら見とれたりしている場合じゃないのに。もっと考えるべきことがいくらでもあるのに。
 ジュリアンと入れ替わりで門から出てきたレイヴン・クロウが、無言で車をいずこかへ運び去っても、フィラは呆然と立ち尽くしたまま、ジュリアンが消えていった通用門を見つめ続ける。
 エンジン音が遠ざかり、再びこの世のものとは思えないような草原のざわめきだけが聴覚を支配する。
 フィラは頭の整理が全くつかないまま、とにかく上げっぱなしだった腕だけをゆるゆると下ろした。少しだけ回転し始めた理性が、魔法はやっぱりおかしいだろうと文句を言い始める。
「……魔法……? ……冗談?」
 やはり呆然としたまま先程の会話を反芻しているフィラは、市街地の方向から近付いてくる人影に気付かない。
「もしかして、ごまかされた?」
「ちょっと良いかしら」
 フィラの思考を遮って、背後から鋭い女性の声が響く。はっと振り向いたそこには、怒り狂ったハリセンボンのようなとげとげしい空気を身にまとったダスト・アズラエルが仁王立ちになっていた。
「は、はい?」
 反射的に身を縮めてしまうフィラに、ダストは冷ややかな視線を向ける。
「二、三聞きたいことがあるの。答えてもらえるかしら?」
 形式は質問だったが内実は間違いなく命令だった。逆らえるはずがない。
「わ、私で答えられる範囲なら」
「あなた、ジュリアンとはどういう関係なの?」
 フィラの回答に間髪入れず、お情け無用容赦皆無と言わんばかりの口調で、ダストは尋問を開始した。ものすごく怒られている気分だ。彼女の逆鱗に触れるような何かを、自分はしてしまったのだろうか。まさかとは思うが、恋のライバルだとか認識されてしまっているとか。
 ――いや、あり得ないな。
 フィラは一瞬でそう結論付け、だったらなぜこんな質問が飛んでくるのだろうと内心首を傾げた。
「領主と領民、だと思いますけど」
「それだけじゃないでしょ?」
 ダストは油断してなるものかと言いたげな鋭い眼差しでフィラを射る。質問の意図が見えない。昨夜からこの方困惑してばっかりだ。
「……研究者と研究対象……ですかね?」
「研究? 何の研究価値があるの? あなたに」
 間も躊躇も隙もなく、高速で次の質問が繰り出された。
「えっと、自分の意志と関係なく、短距離瞬間移動してしまうという体質があって」
「なるほど。ほとんど使い手のいない瞬間移動能力を、ほとんど魔力のない人間が持っているというのなら、確かに研究価値はあるわね」
 ダストは値踏みするようにじろじろとフィラを観察し、皮肉な笑みを浮かべる。
「他には?」
「え? 他に?」
 他に何かあっただろうか。変な緊張感のせいで頭が真っ白になりかけているフィラには、ダストが何を答えさせたいのかがさっぱりわからない。
「あ、あとはピアノの練習場所を」
「ピアノはどうでも良いの。他にないの?」
 遮られた。怖い。フィラは停止しそうな思考を必死でフル回転させ、答えを探した。
 三秒くらい考え込んだところで、プレッシャーに耐えられなくなった。答えは見つからない。
「……ない、と、思いますけど……」
 ダストは天を仰ぎ、呆れかえった表情を作り、これ見よがしにため息をつく。
「まったく。相変わらず報われない慈善事業ばっかり……」
 どういう意味かと控えめな視線で問いかけるフィラを、ダストは不機嫌そうに見やった。
「あなたにまともな感謝の気持ちというものが備わっているなら、保護者と被保護者の関係も付け加えるべきね。あいつがあなたを守っていなければ、あなたはとうにどこかの実験施設で、魔術実験のモルモットにされているはずだもの。『研究価値』があるから」
 ティナも同じようなことを言っていたけれど、ダストの方が表現に容赦がない。
「一般人なら知らなくても仕方ないけど、例えば戦で有用な研究だと判断されれば、研究対象に対して非人道的な実験も辞さないという施設は多いわ」
 ぶっきらぼうな口調の中にふと何か人間的なものを感じて、フィラは真っ直ぐにダストを見つめた。彼女が何を伝えようとしているのか、聞き逃すわけにはいかない気がする。
「何が言いたいかっていうとね」
 そんな気配を感じ取ったのか、ダストは話を区切り、やはり真っ直ぐな視線でフィラを見つめ返した。
「ジュリアンがこっちに来てから、一番最初に処理した案件の記録を読んだの。バルトロ・グレンデスに関する件。知ってるはずよね?」
「え、あ、はい」
 話のつながりが見えないながらも、フィラは慌てて首を縦に振った。
「あの件に関して、中央省庁区からもう一度グレンデス氏の家を家宅捜索するように指示が出されている。どうしてだかわかる?」
 とっさにびくりと硬直したフィラに、ダストは婉然とした微笑を向ける。
「やっぱり、何か知ってるのね。バルトロ・グレンデスがあの件に関して打ち明けていた相手はあなただけだもの」
 ダストは言葉を切ると同時に、思わず感心してしまうくらいものすごい早さで笑顔を消した。
「わかったら、これ以上恩人に迷惑をかけるような真似は遠慮してくださる?」
 冷たい声に背筋が震えそうになったけれど、彼女が誰のために何を言いたかったのかはわかった。
 ――たぶん。誤解でなければ。
「はい」
「話はそれだけ。引き止めて悪かったわ。それじゃ、御機嫌よう」
 ダストは真摯に頷くフィラに背中を向け、きびきびとした足取りで通用門へと歩き去った。その背中を見送りながら、フィラはリサがジュリアンとダストの間にある感情について『同族嫌悪』と評していたことを思い出す。
 確かに、似たところはあるのかもしれない。ものすごく優秀そうなのに、妙に不器用な気配があるところとか。嫌悪するようなこととは思えないけれど。
 フィラは長くため息をつき、のろのろと城門に背を向けた。
 早く踊る小豚亭へ帰って眠りにつきたいと思う。徹夜がたたったのか困惑の連続による心労がたたったのか、体中が疲れ切っていた。