第六話 Dance on the balcony. Dance with the half moon.

 6-7 目覚めよ、聞き給え

「ど、どうして……?」
 どうしてここに? 何故わざわざ初年兵を殴り倒す? しかも話したいって何をどう。
 フィラは目を白黒させながら壁際まで後ずさる。いったい何が目的なのか、綺麗さっぱり理解不能で不気味だ。
「ジュリアンのことでね。忠告しておこうと思って」
 警戒心丸出しの視線をものともせず、フランシスはにこやかな笑顔を保っている。
「忠、告……?」
 フィラはかすれた声で呟いた。
「そう、忠告」
 頷いたフランシスは、ふと崩れることなどあり得ないように見えたその笑顔を消す。
「彼は、優しくなんてないよ」
「……はい?」
 意味不明だった。あまりにも唐突すぎた。聞き返すタイミングさえワンテンポ遅れてしまうくらいわけがわからなかった。
「彼は優しくない。目的を達成するために全てを犠牲にすると誓った彼は、自分自身の優しさすらも切り捨てなければならない立場にある。だから彼は優しくなれないんだ。わかりますか?」
「それが私と……何の関係が」
 眉根を寄せるフィラに、フランシスの鉄壁の笑顔が復活する。
「気丈ですね」
 絶対違う、とフィラは心の中だけで否定した。本当に気丈だったら、気丈なんじゃなくて本当にわけがわからないだけなんだときちんと反論できているはずだ。しかし実際のフィラは黙ってフランシスを見上げるだけで反論する勇気など持てず、もちろんその真意が相手に伝わるはずもない。フランシスは柔らかな笑顔を浮かべたまま話し続ける。
「例えば君が彼を好きになってしまったら、彼は君のその好意を利用する。それが君の思いを無惨に打ち砕くようなことになったとしても、ね。彼の言動に惑わされないように、気を付けて。性質の悪い男だから、惚れたらだめですよ」
 頬に血が上った。何言ってるんだと恥ずかしく思えば、やり場のない怒りすらこみ上げてくる。
「わ、私は別に……そんなの、余計な心配だと思います。あ、あり得ないです。だいたいどうして」
 フィラは気恥ずかしさに何度もつっかえながら、ようやく反論の言葉を投げつけた。反論されたフランシスは何故か機嫌良さそうに笑顔を深める。
「場合によっては、将来君に、俺のお嫁さんになってもらう可能性もあるから。そういう相手は、やっぱり気になるものじゃない?」
「なんでそうなるんですか……」
 狼狽より先に呆れかえってしまって、フィラは深くため息をつく。
 フィアとの関係はどうなんだ、フィアとの関係は。つっこみを入れたい。入れたいが、入れて良い相手ではない気がして言えない。
「政略結婚ってやつかな。もし君が本当に」
 台詞を遮るように、フランシスの喉元を細く鋭い光が過ぎった。何事かと瞬きしてよく見てみれば、それは抜き身の剣だった。フランシスは口をつぐみ、降参、と言いたげに両手を上げる。
「早かったね、ジュリアン」
 フランシスは薄く笑いながら、喉元に突きつけられた刃を辿るように視線を動かして、ゆっくりと剣の主――ジュリアンを見上げる。
「何のつもりだ?」
 ジュリアンは冷ややかな声で尋ねた。表情こそ無表情だが明らかに怒っている。全身から絶対零度な怒りのオーラが発散されているように見えて怖い。普通の神経の持ち主なら、さらに彼の怒りを煽ろうなんて絶対に考えないだろう。
 しかし、ここにはその普通でない神経の持ち主がいた。
「君こそ。『目』から隠しておくにはあまりにもお粗末な護衛じゃないか?」
 喉元に刃を突きつけられたまま、フランシスは余裕に満ちた笑顔を浮かべている。言葉の意味はわからないが、その笑顔と声の調子は明らかに挑発している者のそれだ。
 対するジュリアンの方はといえば、挑発されていることに気付いて逆に落ち着きを取り戻したのか、無表情なまま怒りのオーラだけを引っ込めた。
「この状況で『目』が城内に留まっているというのか? 少なくとも建前上は、『目』は結界の裂け目を探しに行っていなければならないはずだが」
「結界の裂け目は既に発見済み。もう間もなく我が光王親衛隊の結界術師がそちらに向かうでしょう。意味はわかるよね?」
 一瞬、ジュリアンの無表情が不愉快そうに歪む。
「これじゃ返事としては物足りない? だったら……そうだな。侵入した天魔、そんなに強くなかっただろう? 光王親衛隊の結界術師でも制御できる程度の個体ばかりだ」
 本気で言っているのだろうか。フィラは思わずまじまじとフランシスを見つめた。光王親衛隊がわざと『天魔』という何かを侵入させたのだと言っているように聞こえる。『天魔』が何を指すのかフィラにはわからないが、避難命令が出されたことと合わせて考えれば、恐らくは危険で敵対的な存在であるはずだ。
 ――天魔。
 この言葉を覚えておこう、と、フィラは密かに決意する。今意味を聞いても答えてはもらえないだろうから、後でちゃんと調べられるように。
「まだ駄目かな? じゃあもう一つヒント。フィアは君に取られてしまったから、その意趣返しに君の想い人をさらっていくのも悪くないかなと思って、っていうのは?」
「誰が、俺の想い人だ」
 ジュリアンは今度は一瞬どころでなく、明快に不快感を露わにしながら剣を下ろした。
「今夜のパーティーで君が踊りの相手を務めたのは彼女だけだ。違う?」
「覗きとはまた良い趣味をお持ちだな」
 言外に馬鹿馬鹿しい、というニュアンスを滲ませながら、ジュリアンは言い捨てる。
「あれ、否定しないんだ」
 わざとらしく驚いて見せたフランシスはフィラに向き直り、また何かよからぬことを企んでいそうな笑顔を浮かべた。
「というわけで、どうかな? フィラ。俺の秘書になってくれませんか?」
「何、言ってるんですか……」
 フィラは呆れかえって首を横に振る。何を意図しているのかもわからなければ、何が「というわけで」なのかもわからない。一つだけわかるのは、この人と話していると非常に疲れるということだけだ。フランシスの疲れる物言いをあっさりとあしらっていたフィアは、本当にすごいと思う。上手く会話するコツを教えてもらいたいくらいだ。
「何の訓練も受けていない、後ろ盾もない一般人を、家族から引き離して光王庁に上げるつもりか?」
 フランシスの背後から、ジュリアンが冷ややかに問う。
「でもそうすれば、君は殿上人になれる。一足飛びで特権階級の仲間入りだ。それに、フィアとだって自由に会わせてあげられるんだから、家族と引き離して、って言うのは人聞きが悪いんじゃないかな」
 フランシスはあくまでもフィラに向かって話し続けるが、返答は実質ジュリアンに向けたものだ。
「そんなこと言われても、困ります」
 フィラは大きくため息をついた。お願いだからレイ家とフォルシウス家の対立とか聖騎士団と光王親衛隊の確執とか、高度に政治的で専門的な問題に巻き込むのはやめて欲しい。そんなものを捌ききれるような器量は自分にはないのだ。本当に困る。しかも何やら、発端は単なる誤解みたいだし。
「家族と言ったが、フィア・ルカだけを指しているわけじゃない。フランツ、いい加減にしろ」
「冗談ですよ。俺だってフィアに嫌われたくはない」
 フランシスはあっさり身を引くと、ジュリアンに向かって肩をすくめた。
「今日は君に守ってもらったばかりだから、その借りを返すつもりだったんです。『目』は俺がいるところには来ないから」
 さっきからちょくちょく出てくる『目』という単語に、フィラは注意を惹かれる。隠語めいた使い方をされているから、きっと意味を聞いても教えてくれないのだろうが、フィラがそれに見つかるとまずいらしいことやフランシスに対しては遠慮があるらしいことから、視察団が擁する魔術的な探査装置か何かなのだろうと予想できる。
 それにしても、自分の存在が視察団に気付かれるのはそんなにまずいことなのだろうか。瞬間移動してしまう特異体質さえ明らかにならなければ問題はなさそうに思えるし、それだって聖騎士団の立場を危うくしてまで隠しておくようなことではない気がする。人道的な問題にまで発展する可能性があるとはいえ、所詮はフィラ一人の問題だ。
 ぐるぐる考え込んでいると、いつの間にかフランシスがこちらに向き直っていた。
「というわけでフィラ。俺と君は今日ここで出会わなかった。そういうことで良いかな?」
 優しい微笑と共にフランシスは言うが、やはり意図がわからない。
「君はね、光王庁の人間の目に触れちゃいけないんですよ。少なくとも、次期の光の巫女が見つかるまでは」
 光の巫女と自分に何の関係があるというのか。フィラは訝しげな視線をフランシスに向ける。
「フランツ。おしゃべりが過ぎるぞ」
 フランシスが何か答える前に、ジュリアンが鋭く釘を刺した。フランシスは一瞬不満げに瞳を細めたが、またすぐに変わらない微笑を口の端に載せる。
「その時まで何も知らせないつもり? もしも彼女が『そう』なら、いざというとき知っておいた方が良いとは思わないのかい?」
「そうでないなら、知らない方が良い」
 ジュリアンは瞳を伏せて静かに答える。視線の先にあるのはまだ抜き放ったままだった剣の切っ先だ。あまり金属的な光沢のない白い刃は、自分自身で光を放っているようにも見える。
 フランシスはジュリアンを見やり、不満げなため息を漏らした。
「まあ、今日は君の判断に従うけど。ああそうだ、ユリンでは天魔は存在しないことになってるんでしたね? 町の人間から天魔襲撃の記憶を消すの、手伝おうか?」
 提案を受けたジュリアンは、むしろ迷惑そうに短くため息をついて抜き身のままだった剣を鞘に収める。
「俺は拒否できる立場にはない」
「冷たいね。これで貸し借り無しにしてほしいって言ってるんだけど」
「好きにしてくれ」
 全く懲りた様子のないフランシスに、ジュリアンは諦めきった声で答えた。ジュリアンにとってもフランシスの相手は疲れる仕事らしい。
「じゃあ、交渉成立と言うことで」
 うんざりしきった二人を前に、一人だけ満足そうなフランシスが微笑んだ。
「じゃあね、フィラ。次に君を見つけてしまったら、今度は俺も容赦なく光王庁に報告しなければならない。さっきの忠告も含めて、気を付けて行動するように」
 流し目つきの笑顔を残して、フランシスはフィラに背を向ける。
「私たちは上へ戻る。お前はヤンが起きたら共に避難場所へ向かい、友人と合流しろ」
 ジュリアンも淡々と指示を出し、フランシスの後に続いた。
 ジュリアンとフランシス。いったいどういう関係なのだろう。遠ざかる二人の背中を見送りながら、フィラは考え込む。
 正直、さっぱりわからない。立場上は対立しているけれど、仲が悪いわけではないとジュリアンは言っていた。さっきのやりとりからも、緊張感を保ちつつも妙な気安さが感じられた。
「ところでジュリアン、さっきの君の戦いぶりを見ていて思ったんだけど、もしかして竜化症、進行してませんか?」
 前を行くフランシスが背中越しにジュリアンに問いかけている。また、竜化症だ。実はわざと聞かせているんじゃないだろうか。なあんか、それっぽい性格のような気がするし。そう思ったフィラは、ついじっとフランシスの背中を見つめてしまった。
「お前には関係のないことだろう」
 答えるジュリアンの声には、気安さを含んだ冷淡さが滲む。
「心配しているんですよ」
「光王親衛隊隊長に心配されるいわれはない」
 遠ざかる二人の声を聞きながら、フィラは地面に座り込んだ。緊張と興奮で上がりすぎた体温を下げたくなって冷たい石壁に寄り掛かり、それだけでは足りなくて頬も押しつける。深いため息をつくと、自分でも意外なくらい疲労感が滲んでいた。
 少年兵が作りだした魔力光は、彼が意識を失っているにもかかわらず、未だ煌々と辺りを照らし出している。