第六話 Dance on the balcony. Dance with the half moon.

 6-8 変曲点

 ヤンが目覚めるのを待ちながら、フィラはさっきの会話から発生した疑問を整理した。
 キーワードは三つ。天魔。光王庁の目。竜化症。
 天魔は恐らく危険な存在。天魔の侵入により、皆は避難することになった。聖騎士団は恐らくそれと戦っていた。光王親衛隊の結界術師はそれを操ることが出来る。それがどういう存在なのか――生物か無生物かはわからない。なんとなく生き物、みたいな気はするけれど、失った記憶の中の知識なのかただの勘なのか自分でも判断がつかないから、この件は保留。ユリンでは天魔は存在しないことになっている、というフランシスの言葉が気になる。
 光王庁の目には見つかるとまずい。視察団が擁する魔術的な探査装置か何かなのだろうと予想できるが、詳細は不明。結界術師、という人もいるくらいだから、もしかしたら探索に特化した魔術に精通した人のことなのかもしれない。それに関連して、フィラが視察団に見つかることについて、ジュリアンが抱いている危機感が思った以上に大きいらしいことに気付くことが出来た。フランシスは次期の光の巫女が見つかるまではフィラは光王庁の人間に見つかってはならないのだと言っていたが、ジュリアンもその言葉を否定したりはしなかった。とすると、これはフィラ一人の問題ではないということになる。フィラ一人の問題だったら、光の巫女や光王庁が出てくる意味がわからない。何故ジュリアンはそれを教えてくれなかったのか。そこにある意味と意図は何なのか。これだけの情報では判断できない。出来ないけれど、この件に関してだけはきちんと知っておきたい。知らないままでいるのが怖い。知らなければ誰を信用して良いのかすらもわからない。ジュリアンだって、味方だとは限らないのだ。どうにかして調べるか聞き出すかしなければ。
 ――とても難しそうだけど。
 フィラはため息をつく。そんなスパイみたいなことできるのだろうか。無理だろうな、と思う。結局、聖騎士の誰かに聞いてみるしか手段はないし、その限りでは答えてもらえたとしても偏った情報しか手に入れられないだろう。
 これ以上考えていたら泥沼にはまってしまいそうだ。フィラは無理矢理意識を別の方向へ向ける。
 気を取り直して竜化症。名前からして病気。フィアとジュリアンは竜化症である。竜化症は進行する。ユリンは竜化症の治療には最高の環境。原因や症状などは不明。尋ねる相手としては……やっぱり当事者であるフィアに聞いてみるのが最初だろうか。同じ当事者でも、ジュリアンには何か聞きづらいし。
 なんでこんなにわけのわからないことばかりあるんだろうとフィラがもう一度ため息をついたとき、ヤンが寝苦しそうに身動きした。
「あの、大丈夫ですか?」
 フィラは恐る恐る問いかける。ヤンは言葉にならないうめき声を上げながら、まぶしそうに瞳を開いた。
「大丈夫、ですか?」
 念のためもう一度問いかけてみる。
「いたた……あ、だ、大丈夫です」
 ヤンは殴られた頭をさすりながら起きあがり、きょろきょろと周囲を見回した。
「あの、一体何が……?」
「えーと」
 どう説明すれば良いのだろう。フィラは内心頭を抱える。
「……それは」
 そう言えば別に口止めはされていなかったなあ、なんてふと思ってしまったりして。
「あのですね」
 ――もういいや、正直に話してしまえ。
 フィラは心を決めた。
「フランシス・フォルシウスさんが私と話をしたかったみたいで、ヤンさんを殴って気絶させたんです。それで意味がわからないことを一方的に話して、去っていきました」
「はい?」
 当たり前だけれど、ヤンはきょとんと目を見開いている。
「すみません、私にもさっぱりわけがわからなくて」
「あ、いえ。わかりました」
 ヤンは立ち上がりながら慌てて頷いた。
「全然わからないってことはよく理解できましたから」
「はは……ありがとうございます」
 フィラも虚ろな目で笑いながら頷く。
「とりあえず、避難場所への案内、もう一度お願いしても良いですか? 友だちとも合流したいので……」
「あ、はい! もちろんです」
 ヤンは力強く頷くと、フィラの前に立って歩き始めた。

「お疲れ様」
 岩とコンクリートの殺風景な地下シェルターで二人を出迎えたのはダストだった。
「お友達、心配してたわよ。あっちにいるから、行って合流してくれる?」
 ダストは入り口から皆が集まっている広間の一角を指して言う。大勢を詰め込んだ広間は、上のパーティー会場ほどは広くないため、どう見ても定員オーバーなほど混み合っていた。この中からソニアたちを探し出すのは難事業だろう。ダストの案内は渡りに船だ。
「はい。ありがとうございます」
 フィラは礼儀正しく頭を下げてから、ヤンの方へ振り返ってもう一度頭を下げた。
「ヤンさんも、どうもありがとうございました」
「い、いえ。俺は……俺の方こそ、いろいろ至らなくてすみません」
 ヤンは何故か気まずそうに頬を染めながら首を横に振る。
「さあ早く。この扉、さっさと閉めてしまいたいんだから」
 何か言い返す前にダストに急かされて、フィラは広間へ押しやられた。

 人ごみをかき分けながらダストに示された方向へ向かうと、すぐにソニアの声が耳に飛び込んできた。
「……私と同い年くらいの女の子なんですけど」
 誰かに向かって話しかけているソニアに、フィラは手を伸ばす。
「ソニア!」
 肩を叩きながら呼びかけると、ソニアは即座に振り向いた。
「フィラ!? 良かったぁ。今までどこにいたの?」
「うん……ソニアたちのこと、探してた。レックスは?」
「擦れ違いにならないように、隅っこで待機してる。一緒に行きましょ。あいつも心配してたから」
 フィラの手を取って歩き始めたソニアの背中に、フィラは小さく「ごめん」と呟く。せっかく心配してくれたのに、返事をはぐらかしてしまったのが何だか申し訳なかった。
 広間の隅で待っていたレックスは、どこで出会ったのかティナを抱えていて、ソニアがフィラを連れてきたのを見るとほっとしたように微笑した。
「あ、フィラ、いたんだ。無事で何よりだよ」
 レックスの腕の中で、ティナがもぞもぞと身をよじる。
「この猫、フィラのペットだろ?」
 ティナは首を傾げるレックスの腕から飛び出して、フィラの足下へ駆け寄ってきた。
「さっき、広間でうろうろしてるところを捕まえたんだよ。踏まれそうで危なかったから」
「ありがとう」
 フィラはほっと肩の力を抜いて、ティナを抱き上げる。
「何だかすごく緊張してたみたい。肩がもうばきばき」
 フィラは苦笑いしながら、凝ってしまった肩を回して見せた。そんなフィラに、レックスが笑い返す。
「緊急事態って、何だったんだろうね?」
「さあ? これから説明あるんじゃない?」
 領主様もいらしたみたいだし、と、ソニアは身を返して広間の端にしつらえられた壇を指差した。ちょうどジュリアンが壇上に現れたタイミングだったので、三人はそのまま黙って彼の挙動に注目する。
「皆様、ご静聴願います」
 ジュリアンの良く通る声に、ざわめいていた広間は静まりかえった。
「緊急事態への迅速なご協力、心より感謝いたします。事態の収束を確認いたしましたので、これより皆様には順に上の広間へ戻っていただきますが、その際、お一人ずつ入場名簿との照合をいたします。お時間をいただくことになりますが、皆様の安全を確認するために必要な処置ですので、どうぞご容赦下さい」
 ジュリアンは一礼し、また顔を上げる。
「事態の説明については、皆様の無事を確認した後、上の広間にて行います。それでは、係の者の指示に従って、お一人ずつ出口へお進み下さい」
 ジュリアンは言い終えると、先程よりも丁寧な礼をして壇を退いた。事務的な説明に疑問の声が上がることもなく、フィラからは人波に埋もれて見えない遠くの出口で移動が始まる。

 それからフィラたちに順番が回ってくるまでに、十五分程の時間が必要だった。出口に使われている扉は同じ壁に並んだ三つで、各扉の両脇に一人ずつ聖騎士たちとフランシスが立っていた。ユリンの町の人々は必ず彼らの前で立ち止まって、側頭部に何かよくわからないハンドタイプの機器を押し当てられている。
「あれで入場名簿と照合してるのかな?」
「そうなんじゃない? 中央省庁区にはその人固有の魔力波形パターンで個人を特定する機械があるって、以前父さんが話してた気がする」
 レックスとソニアが順番を待ちながら囁き交わす。しかし、フランシスもいるということは、それだけではなくて、同時に人々から天魔襲撃の記憶を消してもいるのかもしれない。必要な処置なのかもしれないが、あまり良い気分はしなかった。やはり、他人の記憶を弄ってしまうのは怖いことだと思えてならない。
 一人で考え込んでいたフィラは、不意に横から肩を叩かれて振り向いた。にこやかに手を振っているのは、ついさっきまでその辺でフィアと共に列の整理と扉への案内をしていたはずのリサだ。
「あー、フィラちゃん。君はこっち」
「え?」
「フィラちゃんは住民登録してないっしょ? だから別に手続きが必要なの」
 フィラに、というよりもむしろ驚いているソニアとレックスに聞かせるような大きさの声でリサは言い、フィラを締め切られている扉の方へ引っ張っていった。
「ごめんね、面倒なことさせちゃって。ちょっとこっちでもフィラちゃんの処置どうしようかって意見が割れちゃっててさ。結局、団長とのお話で決着付けてもらいましょうってことになったから」
「はい?」
 一方的にまくし立てるリサが何を言いたいのか、フィラにはいまいちよく理解できない。
「まあつまり、団長から説明とお願いがありますよって話。詳しいことは」
 リサは振り向きながら優雅に扉を開いてみせた。
「本人に聞いてやって」

 広間の喧噪から隔てられた通路の先。ジュリアンとフィラの間には、何とも言い表しがたい沈黙が横たわっていた。
 ジュリアンはフィラが広間から出てきたのをちらりと見たきり、厳しい表情で口をつぐんでいるし、フィラとフィラの肩に乗ったティナもジュリアンの出方を待って黙りこくっている。狭く薄暗い通路には、広間からの喧噪もほとんど届いては来ない。
「……あの」
 沈黙に耐えきれなくなったフィラが、ついに控えめな声で話しかけた。
「フランシスが余計なことを言ってくれたから、もう予想出来ているだろうとは思うが」
 ジュリアンは観念したようにため息をつき、話し始める。
「今広間で行われているのは、入場名簿との照合と同時に天魔襲撃の記憶を消す作業だ。緊急事態の発生による避難命令以降の記憶は全て除去する。今日のことは、お前も話題に出すな」
 リサはお願いだと言っていたが、ジュリアンの口調は命令そのものだった。フィラは諦めの心地で頷く。
「わかりました。でも、どうして私の記憶は消してしまわないんですか?」
 問いかけられたジュリアンは、迷うように視線を逸らして俯いた。
「消せないんだ。お前の許可、取っていないだろう」
「許可?」
「記憶を消す許可だ」
 ジュリアンはゆっくりと顔を上げ、フィラを見つめて苦しげな笑みを浮かべる。
「いつまで続けられるんだろうな」
 弱々しい呟きがなぜかいたたまれなくて、今度はフィラが目を逸らす番だった。
 訊きたいのはこっちの方だ。いつまでこんな状態を続けられるのだろう。恩人にも友人にも、いろいろな事を黙ったままで。皆と同じごく普通のユリンの住民ではいられず、かと言って聖騎士団の仲間でもあり得ない、こんな中途半端な立ち位置のままで。
 自分の中の冷静な部分は、とっくに理解してしまっていた。見て見ぬふりをしていられる間だけ、ユリンの町に留まっていられるのだと。
 何かすがるよすがが欲しかった。
 ――せめてこの人のことを信じることが出来れば良いのに。
 フィラは強く拳を握りしめる。
 そんなこと、言えるはずがない。信じるかどうかなんて、フィラが自分で決めるしかない。
「もう、行っても構いませんか?」
 これ以上顔を合わせていると余計なことを口にしてしまいそうで、フィラは逃げの一手を打った。
「ああ、広間へはこの先を道なりに行けば良い。協力、感謝する」
 騎士の礼を取るジュリアンに軽く会釈して、フィラは通路の先に続く階段へ向かう。
 ――いい加減、認めてしまおう。
 広間への階段を登りながら、フィラは思った。
 自分はジュリアンのことを知りたいのだ。相手が貴族だからとか他人のプライベートに首を突っ込む資格なんてないとか、そんな言い訳をしなければならないこと自体、それを証拠付けている。
 彼がどんな人間であるか知りたい。
 自分の中に芽生えてしまった信頼感――信頼しても良いんじゃないかという期待が、正しいものであると信じたい。ジュリアンの立場や思想や任務や、その他もろもろの事情やら理屈やらではなく、彼の人間性を知ることで。
 どちらにしろ、ユリンに留まっていたいなら事情やら理屈やらを知るわけにはいかないのだろう。だったら、ジュリアンが信じるに足る人間であるかどうか判断するためには、彼自身を見るしかない。
 何かまた余計な言い訳をしているような気配はあるものの、その説明でなんとか自分を納得させて、フィラは一気に階段を駆け上がった。

 ユリンの町の人々が全員城を後にする頃には、もうすっかり夜が更けてしまっていた。事態の収拾に奔走していた聖騎士たちにも、ようやく一息つく暇が与えられる。
 ジュリアンとカイは正門に面したバルコニーに出て、夜風に当たりながら家路を辿る人々を見送っていた。
「団長……彼女は、ピアニスト、なんですよね」
 賑やかな一団の中に、白い子猫を肩に乗せた少女を見つけてカイが呟く。
「ああ、そうらしいな」
 手すりに片手を置いて真っ直ぐ立っていたジュリアンが、顔だけをカイに向けて頷いた。
「ここへ来る以前は、そこそこ名を知られていたとか」
「音楽に興味のある者の間では、それなりに知られていたようだが。どうした?」
 じっとフィラを見つめているカイに、ジュリアンが訝しげな声を上げる。ジュリアン相手に『さりげなく』何かを聞き出すなど、自分には不可能だと知っているカイは、早々に遠回しな尋ね方を止めることに決めた。
「エステル・フロベールというピアニストの弟子だと、先日ランティスが言っているのを聞いたので。彼女の他にエステル・フロベールの弟子はいなかったのでしょうか」
「いないな。元々、エステル・フロベールは弟子を取らない主義だったようだ。そのため、フィラ・ラピズラリを引き取ったときには音楽業界でかなり話題に上ったらしい。フィラ・ラピズラリの経歴を調べた際、そういった雑誌記事を多く目にした。エステル・フロベールの唯一の弟子だと書いている記事も相当な数だったし、情報源として信頼性が高いと思われるものにもそう表記されていたからな。確かな話だろう」
 ジュリアンは淡々と説明した後でふと息をつき、今度は体ごとカイへと振り返る。
「だが、そう言う話ならランティスの方が詳しいぞ」
「あ、いえ。ありがとうございます。……充分です」
 カイは慌てて頭を振り、また視線をフィラの方へ向けた。その視線に気付くはずもないフィラは、友人たちと談笑しながら城から遠ざかっていき、やがてカイの視界からも消えた。