第七話 誰が雨を降らすのだろう

 7-6 約束

 数歩後ろを、フィラの静かな足音がついてくる。ほとんど魔力のないフィラの気配は、すぐに周囲の自然に溶け込んでしまうから、そうと意識していなければ後ろにいることを忘れてしまいそうになる。
「ユリンから離れる日だが、明日からに決定した」
 振り返ることなくそう告げると、背後で小さく息を呑む気配がした。
「……お仕事、なんですよね?」
 抑えた声音は隠しきれない動揺に震えている。
「ああ。厄介な任務だが、俺本来の仕事はどちらかといえば今回の任務の方だ。ここに来てしばらく、現実から目を背けてしまっていた気がするな」
 ユリンの人々が紡ぐ日常は間違いなく現実だが、しかしそれは『ジュリアンの現実』ではない。
「……夢は、いずれ覚めるってことなんだろう。俺は俺の世界に戻らなければならない」
 半ば独り言のように呟き、ため息をつく。
 決して親しいとは言えない、何も知らない少女を相手に、自分は一体何を話しているのだろう。酷く馬鹿馬鹿しい気もするが、人を顧みもしない神に懺悔するより気が晴れるのもまた事実だった。
「任務って、昨日、ランティスさんと話していた……」
「ああ」
 ふと立ち止まって振り返る。唐突に見つめられたフィラは、不思議そうに瞬きをしながらジュリアンを見上げる。
「昨日は……八つ当たりをしてしまって悪かった」
 無表情を保ったまま、低く謝罪の言葉を告げると、フィラは小さく首を傾げた。
「あれ、八つ当たりだったんですか?」
「まあ、そうだ、な」
 昨日の酷い態度などまるで意に介していないようなフィラの様子に、ジュリアンは思わず視線を逸らしてしまう。
「そう……なんですか。良かった、ちょっとほっとしました。怒らせちゃったかと思ってたから」
 胸を撫で下ろしたように微笑むフィラに、ジュリアンは目を細めた。意地を張っていることが多い印象の少女だが、恐らくはこんな風に素朴な表情を浮かべる素直さが彼女の本質なのだろう。
 ジュリアンは再びゆっくりと歩き始めた。後ろをついてくるフィラの控えめな足音と、道の両脇の草地を風が渡る静かなざわめき。夏の空は鮮やかに青く、降り注ぐ陽光は穏やかに暖かく、肌を撫でる風は涼しく爽やかだ。
 本当に夢のようだと思う。道が終わることなくいつまでも続けば良いと思ってしまうくらいには、この道行きは穏やかで心地が良かった。
「あの、質問しても良いですか?」
 フィラがそっと尋ねる。
「構わんが、返事は期待するなよ」
 周囲の空気に溶け込むようなフィラの柔らかな声音と違って、答える自分の声はひどく硬質に、異質な響きを持って響いて、ジュリアンは微かに眉根を寄せた。
「団長は……竜化症、なんですか?」
 緊張した声とその内容に、ジュリアンは思わず足を止める。追いついてきて横に並んだフィラを見下ろして、短くため息をついた。
「お前、竜化症が何だか覚えているのか?」
「いえ……わからない、ですけど」
 フィラは戸惑ったように瞳を伏せる。
「だったらそのまま、知らずにいてくれ。ユリンに生きる者には、必要のない知識だ」
 低く答えて歩き始めると、フィラも小走りで追いついてきて横に並んだ。
「……先に伝えるべきことがあったな。忘れるところだった」
 真っ直ぐ前を見据えながら、それでもフィラがこちらをじっと見上げてくる気配を感じる。
「礼拝堂の管理はひとまずリサが引き継ぐことになった。その他お前が抱えている問題についてはカイに一任してある。何かあったらその二人に聞くと良い」
「は、はい。わかりました。あの」
 ためらうように言葉は途切れ、不思議に思って振り向くとフィラは少し後ろで立ち止まっていた。
「……団長」
 フィラは何度かためらった後、俯いたまま小さく呼びかける。
「何だ?」
 立ち止まったままのフィラはまだ何か迷っているらしく、なかなか口を開こうとしない。ジュリアンは踵を返し、フィラのすぐ近くまで歩み寄る。
「あの」
 フィラが決意を固めたように顔を上げたところで、ジュリアンは自分が距離を誤ったことに気付いた。軽く手を伸ばせば届いてしまうくらい近すぎる位置から、フィラの褐色の瞳が真っ直ぐジュリアンの瞳を見上げている。色の濃いフィラの瞳は黒に近いのに透明度が高くて、そんなはずはないのに心の奥深くまで見通されそうな気がする。
「団長は、戻って来るんですよね?」
 さんざん迷った末に発された割には、その言葉に迷いはなかった。
「戻って来て欲しくないのか?」
 そんなことを訊ねる必要はなかった。フィラが何を思って訊ねたかなんて、わからないわけがない。
「ち、違います! そうじゃなくて!」
 慌てて否定するフィラに、ジュリアンは微笑する。
「確言は出来ない」
 自分でも驚くほど素直に、答えは口をついて出た。
「戻って来たいとは、思ってらっしゃるんですよね?」
 どこか思い詰めたような光を宿す瞳を、ジュリアンはじっと見つめ返す。そこまで必死になって問いつめるようなことなのだろうか。同じ状況に置かれるたびに、物わかり良く諦めてきたジュリアンにとって、その反応は頭では理解できても感情的にはどうしても理解しがたいものだった。
「な、何ですか?」
 ほとんど不躾と言っても良いほどの視線に、フィラは僅かにたじろいだ様子を見せる。
「そうだな。……戻って来たいのかもしれないな」
 もしも相手が部下だったら、必ず戻ってくると答えていただろう。相手がカイやフェイルやランティスのような側近だったなら、戻れなかった時のことを取り決めておく必要はあったかもしれない。それでも、こんな風に自分自身の希望を語ることなどないだろう。
「またこの間のような演奏が聴けるかもしれないし」
 冗談めかして続けながら、誰にも語るはずのなかった希望を告げている自分を不思議に思う。
「この間?」
 聞き返すフィラの表情は、本当に思い当たる節がないと考えているようだ。
「『沈める寺』」
「あ、ああ。あ、あれですか。それは、その、あの、ありがとうございます」
 簡単に答えてやると、フィラは面白いくらいに動揺して視線をあちこちにさまよわせた。
「伝えるべきことは以上のはずだが……他に何か聞いておきたいことはあるか?」
「え? ええと、それじゃ……」
 フィラはなおも視線をさまよわせながら、周囲の風景に答えを探す。軽く訊ねたジュリアンの方が申し訳なく思ってしまうほどの熱心さだった。フィラが答えを見つけ出すのを、ジュリアンは根気強く待ち続ける。
 いろいろと考え込んでいたフィラは、ふと空を見上げてはっと表情を変えた。
「あ、雨!」
 雨でも降ってきたのかと一瞬空に目を向けたが、青空には一点の曇りもない。
「雨、次は、いつ降りますか?」
 どうやらフィラが空に見つけたのは、雨粒ではなくて『聞いておきたいこと』だったようだ。
「そうだな。いつがいい?」
「え?」
 軽く聞き返すと、フィラは不審そうな表情でジュリアンを見上げてきた。
「いつ降るのが良いんだろうな?」
「さ、さあ? 晴れてる方が良いんですけど、あんまり降らないのも困るし……二週間後、くらい、とか」
 訝しげな表情で、それでも律儀に答えるフィラに、ジュリアンはまた小さく笑った。
「そうか。じゃあ、二週間後に」
「……団長が降らせているわけじゃないんですよね?」
 ますます訝しげに眉をひそめながら、フィラが低く問いかける。
「さあな」
「ああもう、すぐそうやってごまかす! 団長って本当に……!」
 軽く肩をすくめて歩き出すと、背後から盛大な抗議の声が上がった。

 何やかやと言い合ううちに、ユリンの街並みが眼前に迫ってくる。街に近付くたびにフィラの口数は減っていって、やがてアザミの間を飛び交うマルハナバチの羽音すら聞こえるほどの沈黙が舞い降りた。静寂と夏の日差しに暖められた青臭い空気が、胸の奥底まで染み通っていくような気がする。
「あの、団長」
 市街地に差し掛かる少し前に、フィラが立ち止まって呼びかけてきた。
「何だ?」
「私、踊る小豚亭に戻るので」
 城へ向かう道と斜めに交わった道を指差すフィラの声は、なぜか少し震えている。
「ああ、そうか。それじゃあ、ここでお別れだな」
 ジュリアンはフィラに向かって向き直り、静かに頷いた。
「そうですね。それじゃ」
 フィラはそっと瞳を伏せ、勇気を振り絞るように大きく息を吸い込む。
「それじゃあ、また」
 答えるまでに、二秒ほど時間が必要だった。
 意味を理解するまでに一秒。答えを決めるまでにもう一秒。
「……ああ、またな」
 小さく息をつきながら答えた声は、ほとんど自分のものとは思えないほどに柔らかく響いた。
 答えを聞いたフィラは、一瞬目を見開いてから、心底嬉しそうに微笑む。
 ジュリアンが一瞬呼吸を忘れて見入ってしまったことに、恐らくフィラは気付かなかっただろう。
 さっき彼女自身が見せた笑顔よりも、ずっと柔らかで優しい、それでいてどこか愁いを含んだ笑顔。無防備なほど素直なその表情は、一瞬のうちにジュリアンの胸に焼き付いてしまった。
 いつか見た、真昼の月と同じように、鮮やかに。