第一話 竜と幻

 1-1 真夏の森の竜

 ほとんど護送車に近い軍用車両の中で夢を見た。
 腐った竜のような化け物になる夢だった。
 自分の足下で崩れていくのはユリンの町で、そこに住む人々は悲鳴を上げて逃げまどっていた。仲間の聖騎士たちも、自分を遠巻きに取り囲みながら剣を抜き、結界の中に封じ込めようと必死になっている。
 当たり前だ。誰もこんな禍々しい存在に触れたいなどと思うはずがない。全身に死臭を纏い、捻じ曲がった鉤爪を誰かの血に赤く染めながら、それでも無様に足を引きずって、行く手を遮るすべてのものを破壊しながら進んでいく。
 ――こんな、ものに。

 瞳を開いて、ユリンの陽光に照らされた己の掌を仰ぎ見た。
 夢から覚めても変わらない。染みついた死臭。血に染まった手。多くの命を奪い、それ以上の数の命を秤にかけ、半分以上を犠牲にしながら戦って、すべての責任を投げ打ってでも守りたかったはずの人さえも犠牲にしてしまった。他人の命を搾り取りながら進んでいく。これは、そういう生き物の手だ。
 かざした右手をきつく握りしめる。乾いた血糊に柔らかさを失った手袋の生地が掌で軋む。
 ――当たり前だ。誰も触れたいなどと思うはずがない。
 返り血にまみれた、残酷で醜い化け物などに。

 軍用車両がユリンに入る三日前、彼――ジュリアン・レイは森の奥にいた。
 息が詰まるような湿気と暑さ。やかましくわめき立てる蝉の声。補給は途絶え、睡眠は天魔の襲撃で頻繁に中断させられていた。そんな状況では、もともと精鋭とはとても言えない周囲の兵士は足手まといにしかならない。どんなに強大な魔力があったとしても、敵の位置もわからないまま闇雲に戦えば、味方に被害が出るばかりだ。そして敵が狙う『輸送品』――水の神器には、如何なる理由があろうとも聖騎士団団長ジュリアン・レイが触れることを禁ずる、と、光王自ら発した命令が掛けられていた。誰がそれを所持しているのかさえ、ジュリアン・レイには知らされなかった。
 内部からの情報操作と恐らくは意図的な連絡ミス。最大限の注意を払っていても、光王からの命令を無視できない限りは、誰にもどうにも出来ないような状況だったと、分析に当たった監査部の調査官は述べている。

 ユリンの市街地でも蝉が鳴いていた。空は青く潤み、入道雲が地平線にかかる。リサは城の裏木戸に立ち、果てしなく広がる草原と巨大な入道雲の城を見つめていた。
 待ち人はさほど間をおかずに現れた。場違いなほどスマートな黒いセダンから降り立った場違いなくらい無個性なスーツの男は、迷いのない歩調でリサに歩み寄る。中央省庁区ならそれこそ目を離した途端に記憶から消えてしまうくらい目立たないのだろうが、中世風の城の裏木戸にこの格好はものすごく浮いて目立っていた。
「聖騎士団第二護衛部隊所属、リサ=ミズホシです」
 リサは組んでいた腕を解き、間近まで歩いてきた男に向かって敬礼する。
「機密事項への接触は」
「第五レベルまで許可をいただいております」
 無表情なリサの返答に、男もまた無表情で頷いた。
「ルッカ・エイディ情報担当官です。これを」
 差し出された紙切れに、リサは素早く目を通す。
「水の神器輸送任務は失敗。聖騎士団団長ジュリアン・レイは天魔数十に包囲された状態から部下数人と共に生還。輸送品は放棄、部隊の三分の二が死亡。……ユリンからは初年兵二人……ね」
 報告書から顔を上げて、リサはスーツの男を見上げる。
「この二人は軍葬に?」
「はい、中央省庁区にて」
「了解。確言は出来ませんが、軍葬式典には副団長カイ・セルスが出席することになるかと思います」
 リサはそこで言葉を切り、やや不安を滲ませながら息を吸った。
「団長は……?」
「負傷の程度は軽微であると確認できております。本人の希望により、治療はユリンにて。本日午後二時、戦地から直接ご到着の予定です。その後は負傷からの回復を確認し次第、中央省庁区に出頭いただき、事情聴取を受けていただくことになります」
「さらにその後って……軍法会議?」
 紙切れを細かく折りたたみながら、リサは低く尋ねる。
「確定しておりません」
「……了解」
「個人的な見解になりますが」
「うん?」
 予想外の言葉を与えられて、リサは紙切れを弄る手を止めた。
「任務を与えた側の不備について、監査部調査課からも指摘が上がっております。突き詰めれば光王猊下の責任問題にもなりかねない。水の神器喪失の情報は秘匿される可能性が高いでしょう。軍法会議は避けられると思います」
「ああ、そう。そっちも一枚岩じゃないんだ」
 細かくたたみすぎた紙切れをまた広げながら、リサは苦笑する。
「はい。軍法会議や降格等の処置はなされないものと考えてよろしいかと」
 男はあくまでも生真面目な態度を崩さず、無表情に答えた。
「それじゃ、聖騎士団ごとユリンに封じ込め、ってのがいいとこかな?」
「はい」
 頷く男の顔には、やはりどんな表情も浮かんではいない。
「まあ良いけどね。休暇だとでも思って楽しませてもらうから」
 リサは適正な大きさにたたんだ報告書を指先で弾いて、顔を上げた。
「ルッカ」
「はい」
 先程までと変わらぬ表情で、スーツの男は呼びかけに応える。
「随分変わったんだね。途中まで、君だってわからなかった」
 ルッカと呼ばれた男は、リサのその言葉に苦笑を浮かべた。機械人形のようだった顔に、人間味とあどけなさが灯る。
「仕事ですから」
「今日はありがとね。お疲れ様」
 ルッカは力なく首を横に振り、踵を返した。

 密林のキャンプ地で、天魔に包囲されていることに最初に気付いたのは、斥候でも警戒に当たっていた兵士でもなく、仮眠を取っていたはずのジュリアン・レイだった。
 キャンプ地を覆う結界がいつの間にか破られていた。結界担当の兵士はその後の戦闘で死亡しており、原因と責任の所在は未だ明確にはなっていない。ジュリアンが戦闘準備の指示を出した後のことは、生き残った十人にも満たない兵士全員の意見が食い違っている。
 わかっているのは、戦力になるだけの実力を備えていたのが隊の中の僅か数人だったこと、その数人に向けて十数体の虎型の天魔が殺到したことだけだ。
 ある兵士の証言によると、叫び声を上げる間もなく三人が噛み殺された。その後天魔たちは、ジュリアンの魔術に討たれながらもほんの一瞬のうちに五人を引き裂いたと、別の兵士は証言している。吹き上げる血飛沫が一瞬でその場の空気を血生臭く変化させ、恐慌を来した兵士たちの結界魔術は猿型の天魔によって引き裂かれ、その隙間を縫ってさらに何体もの虎が侵入した。
 一番近くにいた味方の軍が、司令官であるジュリアン・レイ本人によって、通信兵を通しもせず直接出された救援要請に応えて駆けつけたのは、交戦開始から三十分もたった後だった。
 到着したときには全てが終わっていた。

 フィラが午後の練習のために城を訪れたとき、裏木戸に立ったリサは呆けたように地平線を見つめていた。
「リサさん?」
 不審に思っての呼びかけに対する反応も、信じられないくらい鈍かった。数秒経ってからリサはようやくフィラに視線を移し、力なく笑う。
「ごめん、今、この城立ち入り禁止なんだわ。今日は遠慮してくれる?」
 どうしてなのか聞けるような雰囲気ではなかった。
「明日か……明後日には大丈夫だと思うから。そんときまた来てよ」
 頷いて来た道へ足を向けたフィラに、リサが背後から言う。背中越しにありがとうございますとまた頷いて、フィラは町へ戻ろうとした。
 城壁の周囲を巡り、リサの視界から消えるまでは、真っ直ぐに踊る小豚亭へ戻るつもりだったのだ。
 足を止めたのは、正門に向かう小道から城壁の向こうに礼拝堂の尖塔が見えたためだった。
 ピアノのことより先に、ジュリアンのことを思った。大地の果てで会って以来、もう一ヶ月近く顔を合わせていない、恐らく今ユリンにいない彼の面影を。
 別れる直前に聞いた会話から、ジュリアンが危険な任務を果たすためにユリンを出たのだろうことは予想がついていた。
 ――リサの、あの様子。
 もしかして、ジュリアンに何かあったのだろうか。
 胸の中で、ふいに冷たい何かがふくれあがる。苦しくなって無理矢理息を吸い込む。そんなこと出来るはずもないけれど、今すぐ戻ってリサに尋ねたかった。どうして今日は駄目なのか……ジュリアンは無事でいるのか。
 ぬるい夏の空気は、胸に吸い込んでも心を落ち着けてはくれない。
 知らぬ間にうつむいていた顔を上げ、礼拝堂の尖塔を見上げる。昨日も入ったばかりだというのに、あの場所の静謐な空気が懐かしかった。聖なる場所に特有の敬虔な空気。リラを信仰してもいないのに虫の良い話だと思うけれど、フィラはあの聖なる空気に身を浸すのが好きだった。思い切り吸い込むだけで、静寂が体の内側に満ちていくような気がする。その深い静寂の中に、何もかも忘れて最初の一音を落とすことができれば。
 ――そうすれば、この不安もきっと消え去ってくれるのに。
 そう思った瞬間、周囲の空気が変わった。暖められた夏草と土が香る外の空気から、早朝も昼も冷ややかな聖気に満たされた、石造りの建物の内部の空気へ。
 たった一度の瞬きで、目の前の風景も一変する。痛みと錯覚するほど眩い夏の日差しが消え去って、目前に広がるのは整然と並んだ信者席のベンチと、巨大な森のようにそびえ立つ石柱の群れだ。
「……来てたのか」
 何度目になっても慣れない唐突な転移に戸惑うフィラの耳に、久しぶりに聞く低い声が届いた。反射的に声の方に振り向けば、礼拝堂の扉を押し開けたまま軽く目を瞠っているジュリアンの姿がそこにある。フィラの驚きは彼以上だった。
 浅く吸い込んだきり息をつくのも忘れて、まじまじとジュリアンを見つめる。
 真っ白だった団服が見る影もない。白い面積の方が少ないほど血と泥で汚れきった衣服には、数箇所の裂け目も見て取れた。血の気を失った頬には痛々しいほどはっきりと血糊の跡が残り、いつもは指通りの良さそうな金髪も、今は色艶を失って血と汗に固まっている。
「だ、団長、それ、あの、あの、大丈夫なんですか? 怪我とか」
 我に返ったフィラは、慌てて駆け寄りながら急き込んで尋ねた。
「怪我はない」
 ジュリアンはため息をつきながら、礼拝堂へ足を踏み入れる。
「そういうことにしておいてくれ。しばらく一人になりたい」
 フィラの隣をすり抜けながら、ジュリアンは疲れ切った声で呟いた。頬を撫でた血の臭いを含む空気に、フィラは息を呑む。
「……わかり……ました」
 どうにか絞り出した声は、どうしようもないくらいかすれていた。すれ違う一瞬に感じた静かで強烈な拒絶に、それ以上言葉を紡ぐことができなかった。
 ここにいてはいけないのだと、転移してきてしまったのは間違いだったと、強い後悔に胸が痛む。

 生き延びられたのは、水の神器が奪われた直後、敵に生じた隙をついて逃がすことが出来た数人だけだった。退路を開くために、味方を一人、背中から魔術で撃たなければならなかった。数体の天魔と共に雷撃を受けた少年兵は、信じられない、という表情でジュリアンを見つめたまま絶命し、彼の死体を踏み越えて運の良い数人が戦線を離脱した。タイミングを逃して最後まで戦場に残った兵は、二人を残して全滅した。子飼いの兵士だろうと無理矢理つけられたユリンの初年兵二人も、最後まで戦い、死んでいった数人の中に含まれていた。
 動ける状態だったたった一人――ジュリアンは、血だまりの中に倒れた二等兵の身体を、白い団服が血に染まるのも気に留めず助け起こした。
 自発呼吸、脈拍共に微弱。体温は低く、左足は根本から噛み切られ、左腕も異常な方向に捻れている。治癒呪文をかけながら催眠呪文を併用し、脳を騙して生命維持活動を無理矢理持続させ――それでも命は腕の中から零れ落ちていき、彼の体温は下がり続ける。

 早足で礼拝堂を出て行くフィラの気配を最後まで追って、扉が閉まる音に耳を澄ました。
 泣かせてしまったのかもしれない。取り繕う余裕などなかった。
 ジュリアンは祭壇に歩み寄り、左胸に右手を当ててその前に跪く。バラ窓から差し込む光が、前方に幾何学的な模様を描いている。礼拝堂の静寂の中に、自分が引き連れてきた乾いた血の臭いと死臭が染み通っていく。
 救援要請に駆けつけた隊の治療部隊に引き渡した後、あの二等兵がどうなったかは知らない。後で渡された死亡者リストに彼の名はなかったが、彼が助かったという証拠にはなり得ない。人は簡単に死ぬ。どんなに強い魔力を持とうとも、その事実の前に人は無力だ。壊すのは容易く、癒すのは難しい。
 左胸に当てた右手を握りしめる。
 その手に残る生々しい感触。真夏の熱。森の木々から発せられる青臭い湿気と、焼け焦げた草の臭い。
 ユリンの暖かな陽光も、礼拝堂の静謐な空気も、それを消し去ってはくれない。