第一話 竜と幻

 1-8 惑いの泉

「どうしよう……」
 柔らかな日差しが差し込む午後の森。こんこんと湧き出る澄んだ泉のほとりで、フィラは頭を抱えて座り込んでいた。
 ティナはいない。はぐれた、というよりは、やっぱりいつもの瞬間移動だ。なんとなくウィンドの占いがあった時点でそうなるんじゃないかとは思っていたのだけれど。
「ここ、どこ……?」
 泣きそうな気分で呟く。たぶん、目の前にあるのは惑いの森に湧き出ているという惑いの泉だ。常にその居場所を変化させていて、いつどこで行き会えるかわからないという不思議な泉。つまり、ここがどこか知るための手がかりにはなりようがない。泉の水を飲めば何でも一つ願いが叶うという噂が本当なら、無事家に帰り着けるようにしてくれと願いたいところだ。ソニアやレックスとのピクニックでは辿り着けなかった惑いの泉を、こんな形で一人で見つけても嬉しいとは思えない。
「願いが叶うって、本当なのかな」
 いつまでも落ち込んでいても仕方ないと開き直って池を覗き込んだ。その瞬間、透明な水を透かして、泥の底から黄金のように光る瞳と目が合った。
「きゃ!?」
 ぎょっとして尻餅をついた姿勢のまま後退る。縦長の細い瞳孔は、猫ではなくて蛇のもののようだった。でももしそうだとしたら、めちゃくちゃ巨大な蛇だ。頭の大きさがフィラと同じくらいはあったように見えた。パニックに陥りかけたフィラが恐怖に満ちた目で見つめる先で、池から全く予想通りの大きさの巨大な白蛇が顔を出す。
「ふぉんとうしゃよ」
 蛇が舌をちろちろ出しながら、何やらやたら子音のSが効いた発音で言った。けれど文字通り蛇に睨まれたカエル状態で固まっているフィラには、蛇が何を言っているのか聞き取る余裕などない。叫び声が声にならず、酸素不足の魚のように口を開けたり閉めたりしているフィラをしばらくじっと見た後で、大蛇は鎌首をもたげた。
「……っ!?」
 血の気の引いた音が自分でもわかるほどの恐怖に、一瞬にして手足が冷たくなる。それでも目を離すことが出来ないフィラの前で、じっとこちらを見つめていた瞳はそのままに、ふいに蛇の輪郭がぼやけて溶けた。
「しょうこわがらなくとも」
 拡散したシルエットは瞳を中心に再び凝縮し、ローブを着た小柄な老人の姿になる。
「だ、ど、どち、どちら様……?」
 腰を抜かしたままほとんど息も絶え絶えに問いかけるフィラに、蛇の瞳の老人は微かに笑んだようだった。
「わしゃこの池のぬししゃ」
 フィラが落ち着きを取り戻してその言葉の意味を理解するまでに、さらに数分かかった。

「わしゃおぬしについておる光の化身と似たようなものしゃ」
 池の畔《ほとり》にあぐらをかいた老人のローブの裾から覗いているのは、蛇の尾だ。話すたびに細い二股の舌がちろちろと見えるのも気になる。落ち着かない気持ちのまま、フィラは池の主の前に正座していた。
「えっと、つまり、この池の神様ってことですか?」
「おぬしにとってあの光が神ならば、しょうなる」
 重々しい台詞だが、しゅるしゅるとした発音のせいであまり深刻そうには聞こえない。
「わしゃユリンでは『蛇《へび》の目様』と呼ばれておるようしゃ。おぬしは何者しゃ?」
「私、フィラです。フィラ・ラピズラリと言います」
「おぬし、魔術師か?」
 蛇そっくりで表情のわかりにくい老人の瞳が、心なしか険しくなった気がした。
「いえ。私、魔力がないらしくて、魔法は使えないんです」
「ならばどうやってここに来たのしゃ? おぬしの出現の仕方は魔術でなければ説明できんしゃろ?」
 疑い深そうな老人の視線にフィラは居心地悪く姿勢を正す。
「これは……その、特殊な体質みたいなものなんですけど、でもまだ原因がよくわかってなくて」
「自分のことなのにわからないのしゃ?」
 返す言葉もなく小さくなるフィラに、老人は険のある視線を緩めた。
「わしはおぬしが現れるところを見ておった。とても魔力がないとは思えぬ様子しゃった」
「この能力が何なのかわかるんですか?」
 ウィンドの言葉を思い出す。『素敵な出会い』とは、もしかしてフィラの抱えている謎を解き明かしてくれる存在のことなのだろうか。せめてヒントだけでも、と、フィラは身を乗り出す。
「おぬしにわからんことは、わしにもわからん」
 希望はあっという間に打ち砕かれた。力なく肩を落とすフィラに、老人が何とも言えない視線をよこす。
「しょう気を落としゅでない。わかる時が来ればわかるものしゃ」
 かけられた言葉には憐れみの感情が浮かんでいたが、それ以上に優しくて、フィラはちょっぴり泣きそうになった。
「しょれよりおぬし、気をつけたふぉうがよい」
 声の調子が変わり、蛇の瞳にふと深刻そうな影が過ぎる。
「わしの同類たちには人間を憎んでいる者も多い。不用意にこのような場所に近づいてはいかん。ましてしょんな無防備な魔力で突然現れるなどもってのふぉかしゃ」
 どういう意味だろう。フィラは瞳を瞬かせた。

 フィラがいないことに気付いてすぐ、ティナは実体化を解いた。もともと現世の存在でない光の神は、実体化を解けば光そのものになる。もう一度実体化するのにはかなり魔力を消費するが、急いで移動したい時には文字通り光の速さで動く方が良いに決まっていた。向かう先は城――聖騎士団の本拠地だ。ティナにとっては非常に不本意なことだが、フィラの特殊な体質を知っていてこの事態を収拾できそうな人物と言えば一人しかいない。
 一筋の光になって空を走ったティナは、瞬く間に城の窓からジュリアンの執務室へ入り込んだ。久しぶりの光速にヒューマナイズされていた思考の方が追いつかず、実体化した瞬間にそこがジュリアンの手元にあった書類の上だったことに気付く。ティナに関しては(おそらくはフィラに何かあった際の連絡役としてだろうが)城内出入り自由にしてくれたジュリアンもこれほど唐突な登場はさすがに予想していなかったらしく、思わずといった体でぎょっと身を引いた。その拍子に前足についてしまったインクを神経質に舐め取ってから、ティナは顔を上げた。
「フィラが消えたんだ」
 端的な報告にジュリアンはため息をつく。
「少し待て。探す」
 ジュリアンは羽ペンを放り出して立ち上がり、執務室の隅に設置された、腰の高さほどの円柱に歩み寄る。その十センチほど上空に浮かんでいる、虹色に輝く幾何学模様の回路がびっしりと描き込まれた直径三十センチほどの黒色の球体がユリンの結界管理端末だ。ジュリアンは球体に左手をかざし、その場で瞳を閉じて集中し始める。ジュリアンの体内から湧き出た魔力が、端末の変換プロトコルを通して網となり、速やかに広がっていくのをティナは感じた。ティナですら触れるたびに戦慄を覚えるほど強力な魔力であるにもかかわらず、ジュリアンが紡ぎ出す魔術は繊細で良く制御されている。その魔術が監視用のネットワークに乗ってユリンの隅々まで瞬く間に行き渡る。
「……見つけたぞ」
 程なくジュリアンは瞳を開けて執務机の前に戻った。
「惑いの泉の主と一緒だ。とりあえずは危険はないだろう」
「どこにいるか教えてよ。僕が迎えに行く」
「惑いの泉の主なら俺が行く方がトラブルが少ない。少し待っていろ」
 ティナは文句を言おうと口を開くが、ジュリアンがあっという間に書類に集中してしまったのを見て黙り込む。何を言っても、たぶん無駄だ。いらいらと尻尾を動かしながら待つ間、ティナは実体化するために消費した魔力がいつもより遙かに速いスピードで戻ってきていることに気付いた。気付いた瞬間、舌打ちしたい気分になる。
(余計なことを……)
 いつの間に構築したのか、ジュリアンの魔術に従って光の魔力が集まってきていた。ティナの信用を勝ち取る必要性などないにもかかわらず、なぜこういうことをしてくるのか。ティナはまだジュリアンを信用していないし、したいとも思っていないのに。
(もしかして手の込んだ嫌がらせ……?)
「ティナ、フィラが消える前に何か前兆は感じなかったのか?」
 先ほどの書類を執務机の引き出しにしまい込みながらジュリアンが尋ねかけてくる。右側の引き出しにわざわざ左手でしまっているのを見て、さっき羽ペンを握っていたのも左手だったことを思い出した。記憶にある限りでは右利きだったと思うのだが、怪我でもしているのだろうか。
「……感じなかったよ。すぐ側を歩いてたんだけど」
「そうか」
 ジュリアンはため息をついて立ち上がり、引き出しから取り出した三角布で右腕を吊った。
「行くぞ」
「怪我でもしてるの?」
「動かすなと主治医に言われてるんだ」
 ジュリアンは答えながらティナの身体をすくい上げ、左肩に乗せる。抗議しようかと一瞬迷ったが、どうせジュリアンについていくしかないのならこちらの方が楽だ。ティナはあっさりと、肩に乗せて連れて行ってもらう方を選んだ。

「お主、ジュリアン・レイは知っておるのしゃ?」
 しばらく途切れていた会話を、蛇の目の老人が何の前触れもなく再開させた。
「え? あ、はい。蛇の目様もご存知なんですか?」
「協力を約束しておる」
 重々しく言い放った老人に、フィラは小首を傾げる。
「協力……?」
「力を貸す代わりにこの泉を守ってもらっておるのしゃ」
 ふと遠くに流れた老人の視線を追って、フィラも森の奥を見つめた。木立の合間に何か白いものが動いている。
「あれは……?」
「お主を迎えに来たようしゃ」
 蛇の目の老人が告げると同時に、ジュリアンがほとんど音もなく木立をかき分けて現れた。フィラは思わず立ち上がって彼に駆け寄る。
「団長、どうしてここに……?」
 あのとき礼拝堂で会って以来見かけることすらもなかった。目が合った瞬間、一気に緊張してしまったフィラとは対照的に、ジュリアンの方はまるで何事もなかったかのようにいつも通りだ。血と泥で汚れきっていた団服も今日はしみ一つなく、リラの教えを象徴するように陽光に白く浮かび上がっている。
「領民を保護するために決まってるだろ」
 藪をかき分けてきた割に葉っぱの一枚もつけていないジュリアンが、フィラを見下ろして偉そうに言い放つ。
「お仕事は……?」
 放ってきてしまった、なんてことは彼に関してはあり得ないだろうが、もしもそうならそれだけ迷惑をかけてしまったということになる。
「フェイルが怪我の療養を言い訳に中央省庁区からの仕事を半分以上蹴ってくれた。おかげでしばらく暇だ」
 フィラの不安に気付いているのかいないのか、ジュリアンはあっさりと答えて蛇の目の老人に向き直った。
「世話になった。彼女は……」
「妙な魔力を持っておるようしゃの」
「……ああ」
 答えにくそうに視線を逸らすジュリアンに、老人も疑い深そうな瞳を細める。
「お主の目的に関係あるのしゃ?」
「調査中だ」
 老人は値踏みするようにジュリアンとフィラを見比べ、やがて頷いた。
「しょうか。ならば今はそれで良いしゃろう。フィラと言うたな」
「は、はい!」
 急に名を呼ばれたフィラは、ジュリアンの肩から飛び降りたティナを抱き上げる手を止めて勢いよく顔を上げる。
「お主のこと、覚えておこう。では、またな」
 最後の言葉をジュリアンに向かって言い放つと、老人は瞬く間に大蛇の姿に戻って泉の中へと滑り込んだ。

「あの、団長。右手……怪我されてるんですか?」
 後ろについてこい、というジュリアンの言葉に従って、フィラは彼の背中を追いかけていた。何か魔術を使っているのだろう。森の木々も下生えも、ジュリアンが足を踏み出す先を避けるように二つに分かれ、フィラの背後でまた元の位置に戻っていく。
「いや。お前の妹に動かすなと厳命されているだけだ」
 ジュリアンは振り向くこともなく答え、ただフィラの歩調に合わせたゆっくりとした速度で進んでいく。
「さっき主治医って言ってなかった?」
 帰りは自分で歩くと決めたらしいティナが、フィラの足下からうさんくさそうな声を上げた。
「主治医で間違ってない。フィア・ルカの治癒魔術は間違いなく世界でもトップクラスだからな。世話になっているんだ」
 前を行くジュリアンの右腕を見つめる。思い出されるのは、右手は竜化しかけている、というフィアの言葉だ。
 竜化症の行き着く先は肉体の消滅――背筋が寒くなる。なぜそんな病があるのだろう。フィアの話を聞いた限りでは大きな魔術を使った際の代償のようにも思えたが、消滅するリスクを冒してでも使わなければならない魔術があるなんて、フィラには想像もつかない。
「あの、さっき蛇の目様が言ってた団長の目的って……」
 なんとなく話しかけづらい気分に陥りながら、いかにも自分に関係がありそうだった話題だけはどうしても気になって尋ねかけてみる。
「教えられない」
「そう……ですよね」
 ジュリアンの回答は簡潔で、そして予想通りだ。フィラは小さくため息をついて黙り込んだ。
「今日はおとなしいんだな」
「どういう意味ですか?」
 肩越しに振り向いてちらりと視線をよこしたジュリアンに、フィラは少しだけ語気を強める。
「いつもなら何で教えてくれないのかと突っかかってくるところだろ?」
 ジュリアンはどこか状況を面白がっているふうだったが、今日のフィラに反論する元気はなかった。
「……すみません」
 視線を落とすフィラの前でジュリアンがゆっくりと立ち止まって、つられるようにフィラも歩みを止める。
「フィラ。お前、大丈夫なのか?」
 身体ごとこちらに向き直ったジュリアンの声音に、気遣うような気配が混じった。
「何がですか?」
 そんなに不自然になるほど意識してしまっていただろうかと、フィラは慌てて動揺を押し隠しながらジュリアンを見上げる。
 なかったことにしなければならないはずなのに、どうしてもあの礼拝堂での出来事が頭を過ぎってしまうから――やはり、いつも通りにできていないのだろう。でも、それでは駄目だ。
(わかってるんだけど、でも、どうしたら……?)
 フィラが脳内で反省会を繰り広げていることには気付かない様子で、ジュリアンは言葉を続ける。
「さっきの水の神のことも……先日、礼拝堂で見せてしまったこともそうだ。お前にはユリンで生きていくのに余計な知識ばかり与えてしまっている。周囲の人間と違った知識や認識を隠して生活するのは、お前にとってもつらいことのはずだ」
 ――彼は、何を。何を、言っているのだろう?
 ジュリアンの目を見ていられなくなって、フィラは再び視線を足下に落とした。
「元々は俺のミスだ。お前が忘れたいと願えば、忘れさせてやることは不可能ではない」
 今更だ、と思う。
 でも、いつなら受け入れられたかと考えると答えは出ない。忘れることは怖かった。知ることにためらいを覚えても、知ったことすべてを忘れたかったわけじゃない。ジュリアンと出会ってからの記憶をリセットして、そして元の生活に戻ることなんて――考えられない。
「私は……記憶を失うのは嫌です。これ以上、不安になりたくない……」
 自分でも嫌になるほど弱々しい声が出た。目尻に力を込めて、あふれ出ようとする感情の波を必死で押しとどめる。
「……フィラ」
 わずかな逡巡の後で、ジュリアンはフィラのすぐ側まで歩み寄った。俯いた視界の中に、ジュリアンの白いアーミーブーツのつま先が入り込んでくる。抱き寄せられた感触を思い出して、自然と身体が硬くなる。
「俺は、無理強いするつもりはない」
 少しだけぎこちない動きで、ジュリアンはフィラの頭を撫でた。慣れないことをされてどう反応したら良いかわからず、フィラは身体を硬直させたまま動けない。けれどジュリアンの声と仕草の柔らかさに、心のどこかが暖かくほどけていくのも感じていた。
「その記憶を一人で抱えているのがつらいなら、忘れる手段はあるということだ」
 ますます泣きたくなる気持ちをどうにか抑えつけて、そっとジュリアンを見上げる。
「……泣かす気ですか?」
 見つめられたジュリアンは気まずそうに手を引っ込め、ついでに視線も逸らした。その頬にわずかに赤みが差しているのを見て、フィラは目を丸くする。なんだかとんでもないものを見てしまったような気分になる。
「……いや。そういうわけでは、ない、たぶん」
「たぶんて」
 ジュリアンはますます気まずそうにフィラに背中を向け、それでもゆっくりとした歩調で歩き出した。
「良いから。行くぞ」
 フィラは一つため息をついて、ジュリアンの背中を追いかける。何だかちょっと優しくされたような気がするから今日はごまかされておいてあげよう、なんて偉そうなことを考えながら。