第二話 Live in a fool's paradise.

 2-1 悪夢

 灰色の冷たい光が、ごつごつとした大地を照らしていた。長雨に濡れたような荒野には雑草一つ生えてはおらず、何かが腐ったような臭気を放っている。空は重くのしかかるような曇天だった。分厚い雲の灰色は、よく見れば虹色の幾何学模様が幾重にも折り重なってできたものだとわかる。空気は冷え切っていて、むき出しの手足に容赦なく突き刺さってくるようだ。
 フィラは寒さと恐怖に震えながら、足場の悪い荒野を走り続けていた。足下の薄い影が、よろめきながら先へ先へとフィラを急かす。不毛の荒野は見渡す限り地平線の果てまで続いていて、逃げ込む場所などどこにもない。
 耳に届くのは苦しい自分の呼吸と砂利を踏む足音だけだ。世界はフィラを威圧するように不機嫌に黙り込み、疲れ切った足音すらも沈黙に飲み込まれて反響することもなく消える。
 尖った岩肌に足を取られてよろめく。堪えようとした右足にはもう体重を支える力は残っていなくて、フィラはそのまま地面に崩れ落ちた。
 ――だめ。逃げなくちゃ――
 誰かの悲しげな声が耳の奥で響く。気持ちばかりが焦るのに、身体は思うように動いてくれない。じわりと滲み出すように影が背後から迫ってくる。
「愛するもの。愚かな娘」
 吹きすさぶ風のような、掠れた声で影は言った。
「お前に真実を見せてあげましょう」
 背後から差し伸べられた細い手がそっとフィラの頬をかすめる。爪が、黒い。
「いや……やめて、来ないで……!」
 その手を振り払って逃げだそうとするフィラを、背後から抱きしめるように魔女が捕らえた。柔らかく包み込むような感触なのに、どんなにもがいても抜け出せない。
「放して……!」
 叫ぶ自分の声すらも、無情に世界の沈黙に吸い込まれてしまう。
「逃げる必要はありません。お前はもう、選んでしまったのだから」
 耳元で風が鳴るように、魔女は高いとも低いとも言えない不思議な声でささやきかけた。その右手がそっとフィラの頭に伸びる。触れるかと思った手は、そのまま皮膚を突き抜けて何かを引きずり出そうとするように頭の中に入り込んできた。
 頭の中をめちゃくちゃにかき回されるような鋭い痛み。痺れるような感覚が脊髄を駆け抜け、体中に染み渡る。知らないはずの風景が視界を覆い尽くす。知らない場所、知らない空、知らない人々、濁った色彩、荒廃した都市、荒れ果てた森、悪意を宿した獣の瞳、知らない、生き物。
 魔女にかき回された思考は氾濫するイメージも痛みも処理しきれず、ただ振り絞るような悲鳴が喉からあふれ出た。

 午前二時を回った頃、ジュリアンが部屋を出て礼拝堂に向かったのは、悪い夢の余韻を冷ますためだった。寝静まった城内に人の気配はない。他人の魔力の影響がないのを良いことに結界の具合を調査しながら進み、礼拝堂の前に立つ。結界は礼拝堂の周囲をも取り巻いているが、ふとそれに妙な違和感を覚えた。ジュリアンは警戒しながらゆっくりと扉を押し開ける。
 深夜の礼拝堂はいつにも増して深く静まりかえっていた。石の森を思わせる広大な闇に、深海を思わせる冷たく静謐な空気がわだかまっている。人の気配はない。用心深く堂内の魔力を走査《スキャン》していくと、主祭壇の後ろに微弱な魔力の揺らぎが見つかった。覚えのある波形パターンだ。
「……フィラ?」
 検知された魔力はフィラがいつも纏っているものよりもさらに弱々しい。胸騒ぎに背を押されるように、ジュリアンは主祭壇に駆け寄った。
 回り込んだ主祭壇の後ろには、バラ窓から差し込む月の光が泉のように溜まっている。その光の中に倒れていたのは、やはりフィラだった。苦しげに歪んだ顔は血の気を失い、寒さを堪えるように身体を丸めて震えている。
「フィラ!」
 駆け寄って抱き起こす。薄い夜着越しにぴりぴりとした魔力の揺らぎが伝わってきた。魔力を消耗しきっているのに、それでもまだ混乱した魔力が出口を求めて暴れ回っている。このままでは危ない。
「フィラ! 起きろ!」
 軽く肩を叩いて呼びかけると、フィラは小さく呻きながらさらに身を縮めた。意識が覚醒し始めたのを確認し、呼びかけを止めて魔術を構築する。乱れきったフィラの魔力を己の魔力の網で絡め取り、同調させ、統御して混乱を鎮めていく。それと平行してこの状況を自分が認識したままに、言語化も圧縮もすることなく情報系魔術に乗せてティナへ送信する。
 人間の思考を理解するのに時間がかかったのだろう、十数秒後にティナから「わかりにくかったけどわかった」という返答がわざわざきちんと言語化されて届けられた。情報の解析にリソースを割く余裕がないことを配慮してくれたのか嫌みか。半々だろうと思いながらフィラの魔力を落ち着かせる方に集中する。
 魔力がどうにか落ち着いてきた頃、目覚めたフィラが怯えたように縋り付いてきた。団服の袖を、指先が白くなるほど強く握りしめて震える。たとえようもない恐怖が彼女の全身から伝わってくる。無意識らしいその行動に、「大丈夫だ」と繰り返しながらなだめるように背中を撫でてやれば、きつく握りしめていた手が少しずつ緩んできた。
「何があった?」
 その手を握って尋ねた。手袋越しでも、フィラの手の冷たさと震えが伝わってくる。
「魔女が……追って来たんです」
 あれほど魔力が乱れるような何かがあったにもかかわらず、フィラは震える声を気丈に抑えつけてジュリアンの質問に答えた。ジュリアンの胸に顔を埋めているので表情はわからないが、自分で自分を落ち着けようとしているのが気配でわかる。
「それで……真実を、見せるって……」
 緩んでいた手が再び強く握りしめられ、同時に魔力もまた少し乱れる。
「大丈夫だ。ここには誰も追ってこない」
 先ほどと同じ手順で乱れた魔力を鎮めながら語りかける。
「少し眠れ」
 精神的な混乱が落ち着いたのであれば、魔力を回復させるためにも眠った方が良い。指示と同時に眠りの術式を構築する。普通なら無意識にでも抵抗が働く魔術をフィラはあっさりと受け入れ、彼女の全身から力が抜けた。握っていた手をそっと下ろし、仰向けになるように姿勢を直してやってから寝顔を覗き込む。乱れていた魔力はだいぶ落ち着いてきたようだった。とりあえず危機はこれで脱しただろう。
 魔力を鎮める魔術を維持しながら、団服の襟元に仕込んである通信装置を起動した。呼び出す相手はフィア・ルカ。フィラと同じ魔力と容姿を持った、ジュリアンの部下だ。

 真夜中、突然イヤーカフスに仕込まれていた通信機が鳴った。睡眠時に待機させておいた術式が反応し、瞬時にフィアの意識をノンレム睡眠から覚醒状態へ移行させる。通信機が発する魔力波形パターンでジュリアンからだと判断したフィアは、即座に起き上がって応答した。
『夜分遅くすまない。礼拝堂まで来てくれ。理由はこちらで話す』
 通信機を通して聞こえるジュリアンの声は、いつもと変わらない落ち着いた様子だ。それでも真夜中に呼び出しがかかるということは緊急事態に違いない。
「了解。すぐ参ります」
 返答しながら、既に身体はベッドを降りて礼拝堂へ向かって動き出している。状況を確認するまでは憶測も不安も無用だ。眠るときにも着用したままだった団服のコートの裾を翻しながら、フィアは早足で礼拝堂へと向かった。
 礼拝堂へ向かう回廊は満月を少し過ぎた月に照らされて、暗視の魔術を使う必要がないほど明るい。色彩のない夜に落ちるくっきりとした己の影に、フィアは何だか落ち着かない心地になる。
 ユリンの月は好きだ。けれど、こんな風に静かな夜の中を一人で歩いているとその見慣れなさを強烈に自覚してしまう。
 微風に揺れる木々と夜行性の小動物が立てる微かな物音が静かな夜を細波のように満たし、夜露を含んだ植物の涼しげな香りが澄み切った空気と一緒に肺に流れ込む。普段ならば心地の良いそれらが、今はひどく不自然で不安を煽り立てるもののように思える。
 礼拝堂に近付くにつれて、その違和感が肌を刺す魔術の痕跡に取って代わった。痕跡の消去が始まっているが、制御系の魔術が使われた気配がまだ少し残っている。ということは、誰かが魔力を暴走させたということだ。訓練中でも戦闘中でもない真夜中に何が起こったのだろうか。
 フィアは唇を引き結び、礼拝堂の扉を押し開けた。魔術の痕跡を頼りに主祭壇まで早足で歩いて行く。その間にも魔術の痕跡は折り畳まれるように空間から消し去られていく。分析用のデータを記録し終わったところから、ジュリアンが余計な情報の流出を防ぐために消しているのだ。細かな揺らぎさえも拾い上げて完全に何もなかったかのように消し去っていく繊細な魔導技術の見事さに、フィアは聖騎士団に入ってから数度目になる感動を覚えていた。ジュリアンが若くして世界でもトップクラスの魔術師に数えられているのは、何も魔力の大きさだけが評価されているからではないのだと実感する。
 けれど痕跡が消えてしまったせいで何が起こったのか把握できないのも事実だった。主祭壇の脇まで辿り着いたところで、フィアは思わず足を止めてしまう。
「フィラ……? どうして、ここに?」
 ジュリアンの腕にぐったりと身体を預けているフィラの白い横顔に、フィアは一瞬冷静な判断を忘れた。
「わからない。先ほど突然転移してきた。魔力の消耗が激しい。何とか落ち着かせたが、補充を頼みたい」
「は、はい」
 気を取り直して走り寄り、屈み込んでフィラの額に手を当てる。魔力を回復させるなら質の近い魔力を持った者が直接注ぎ込むのが一番無駄が少ないが、そればかりが呼び出しの理由ではないだろう。半ば確信しつつも、まずは処置を終わらせるのが先だ。フィアは深く集中し、フィラの魔力に干渉を始める。
 回復は驚くほどの速度で進んだ。ジュリアンがフィラを落ち着かせているせいもあるのだろうが、完全に同質な魔力というものはこれほど回復効率が良いのかとフィアは驚く。それどころか、逆に自分が包み込まれているような不思議な心地がした。
 ――これは、フィラが『姉』だからなのだろうか。
 二度と会うこともないだろうと思っていたたった一人の家族。出会えばきっと、いつか訪れる危機に自分の身代わりとして利用することになるだろうと思っていた。だから捜したくなかった。
(でも、もし、フィラが『そう』ならば……)
 心地良い感覚から無理矢理理性を引きはがしながら、フィアは思う。
 そうだったら、フィアは逆にフィラの身代わりになることが出来る。そんな危機が来なければ良いと思うけれど、もし来てしまったら『あの人』の役に立てて、その上自分の方が身代わりになれるのだ。それは何も知らない双子の姉を犠牲にして生き延びるよりも、ずっと楽で甘美な生き方だった。
「フィア」
 落ち着いた声が思考を遮る。
「それが済んだら踊る小豚亭へ行ってくれ。早朝、ピアノの練習に出るまで身代わりを頼む。ユリンの住民にこのことが知られないように」
 目を閉じて、いつも通りに指示を与えてくれる声を聞いた。
「わかりました」
 魔術を維持したまま答える。
「フィラの部屋に残っている魔術と魔力の痕跡は夜明けまでに全て記録して持ち帰ってくれ。終わったら痕跡は除去。それと、ティナに状況の説明を」
「了解」
 魔力の補充を終えて、フィアはほっと息をつきながら顔を上げた。
「その後は……」
 ジュリアンは腕の中のフィラに視線を落として、魔力の様子を見ながら続ける。
「フィラの落ち着き具合を見て、戻すかこちらに留めるかを決める」
「そうですね。団長の処置が完璧でしたので、一晩寝れば落ち着くとは思いますが」
 世辞ではなかった。実際、フィアがいなくとも自然回復で何とか乗り切れるくらいには、フィラの様子は最初から落ち着いていた。
「そうだな。しかしここに寝かせておく訳にもいかないだろう。治療室を借りる」
「かしこまりました」
 私室とは別に管理を任されている治療室の鍵はここには持ってきていないが、ジュリアンなら城のどこにでも出入りできるから問題はないだろう。
 冷静にそう判断したフィアは、ふとフィラの横顔を見下ろして逡巡した。その言葉を口にする資格が自分にあるのかと、迷った。
 迷いながら顔を上げると、ジュリアンはひどく穏やかな瞳でフィラを見つめていた。何故だろう。それは、常に彼が纏っている緩やかな拒絶を含んだ穏やかさとはどこか違うもののように見えた。
「姉を、お願いします」
 躊躇っていた言葉がすんなりと滑り出る。
 頷いたジュリアンの顔に浮かんでいたのは微笑だっただろうか。わざと考えることを放棄して、フィアは立ち上がる。
「では、失礼します」
「ああ、よろしく頼む」
 追いかけてきたのは、聖騎士団団長としての――いつものジュリアンの声だった。