第二話 Live in a fool's paradise.

 2-2 「風」

 治療室前の廊下で、フェイルはジュリアンと落ち合った。石の廊下に敷き詰められたカーペットには、早朝の光が長くアーチ型の光を投げかけている。窓の外には小鳥たちが朝の挨拶を交わす声。牧歌的な朝だったが、フェイルの表情は硬い。朝早くから内密の話があると呼び出されるなど、良い予感がするわけがなかった。
 治療室から出てきて扉を音もなく閉め、何やら考え込みながらこちらへ歩いてきたジュリアンの様子を伺う。廊下は密談には向かない場所だが、夜明け前に叩き起こして連れてきたランティスが見張っているので立ち聞きされる心配はない。
 ジュリアンの様子は落ち着いていた。何か考え込んではいるものの、それに付随する感情が喜びなのか不安なのかさえ表に出してはいない。聖騎士団に入る前からジュリアンの秘書役や執事役を務めてきたフェイルにとっても、今のジュリアンの内心を伺うことは難しかった。
「坊ちゃま、内密のお話とは」
「フィラ・ラピズラリのことだ。午前二時十分、礼拝堂に転移してきた。魔力の乱れが酷かったので私とフィア・ルカが治療に当たった。今は治療室で寝かせている」
 ジュリアンの口調に、フェイルの自分の精神状態が自然と引き締まっていくのを感じた。フィラのことはジュリアンに命じられて調査を進めているが、調べれば調べるほどわからなくなるのだ。彼女の経歴のどこにも、転移能力を持っていた証拠に繋がるような記録は見当たらない。その力の源がジュリアンの懸念しているものだったとしたら当然接触していなければならない人物との接触も、あり得たはずがないという結論にしか達しないのだ。調査はほぼ行き詰まっていた。
 フィラの経歴に謎めいたところは何もない。フィア・ルカと共にとある研究所で実験的に生み出されたことに疑念の余地はない。実験の記録は全て残っていた。魔力的に優秀な個体となるよう掛け合わせてはいるものの、遺伝子的には普通の人間とまったく変わらないこともわかっている。生まれた直後にフィラからフィアに魔力を移植する実験が行われているが、こちらの実験内容も全て把握できていた。フィラが死亡しフィアが消滅する可能性があったという点で人道的に許されないものであったとしても、瞬間転移に結びつくようなものではないことは証明されている。
 フィアと共に収容されていた施設から、とあるピアニストに引き取られた後の足跡にも謎はなかった。ピアニストの方は光王庁のスパイと何度か接触しているが、よくある情報提供者の一人に過ぎず、行動記録にも不審な点は見当たらない。光王庁に提供された情報も全て走査したが、ピアニストが社交の場や生活していく上で知り得た程度のものだ。わざわざ幼い弟子を使ってスパイ活動をしていた可能性はほぼゼロに近く、フェイルが調べていた特定の人物と秘密裏に接触している可能性もないと言って良かった。ティナもピアニストの守護神として正式に登録されていた神で、現在の能力が登録されていたデータと完全に一致していることもわかっている。ここにも謎はない。二年前、育ての親であり師でもあるピアニストが亡くなった数週間後に自宅の練習室で消息を絶つまで、フィラの足跡に謎はないのだ。
 だからこそ、わからない。経歴にも能力にもなんら謎めいたところのない普通の少女が、なぜ瞬間転移などという力を得ることになったのか。
「ぎりぎりのタイミングだったが、転移してきた直後に居合わせることが出来た」
「それで、いかがですか。彼女は」
 ジュリアンは眉根を寄せて視線を落とす。
「魔力がひどく乱れていたからな。初めて彼女と出会ったとき以上の情報は得られなかった」
 フィラの経歴に有力な情報がない以上、普段はないとしか言いようのない彼女の魔力が解放される転移の瞬間は、今のところ唯一手がかりを得られるチャンスだ。それすらもままならないと知って、フェイルは落胆する。
「あの魔力の正体は不明のままですか……」
 ジュリアンのことだ。魔力の乱れを治めたと言いながら、探っていないわけがない。それでも問わずにはいられなかった。
「ああ。やはり生命維持に最低限必要な程度の魔力以外は強固に封印されている。安定しているので普段の生活に支障はないが、今回のようなことがあると……」
「転移の条件は本人の意志よりも外部からの干渉、という線の方がまだ有力でしょうか」
 思わず遮るようにして質問を重ねていた。人道的にそれ以上に重要なことなどないとわかっていながら、フェイルの興味はどうしてもフィラの生命よりも彼女の持つ魔力の方に引き寄せられてしまう。
「それは何とも言い難い。フィアが持ち帰ってきたデータの方にも、外部からの干渉を証明できるような有力な手がかりはなかった。ただ……」
 咎めるでもなく淡々と答えたジュリアンは、ふと言葉を途切れさせて腕を組んだ。
「ただ?」
 物思いに沈んだジュリアンに続きを促す。
「……消されているようだったが、微かに風の魔力を感じた」
「風の……? 風属性の転移であると? だとしたら彼女は『そう』ではないということになりますが」
 結論を急いでいる自分に気付いて、フェイルは苦いものが胸の内に広がっていくのを感じた。自分の半分も生きていないジュリアンの方がまだ冷静だ。
「魔術が発動した時間も測定したが、やはり魔力が乱れていて特定できなかった。誤差は約十分。光の速度には劣るとしても、風属性の転移でも十分あればあの距離を移動することは可能だ。つまり転移が風属性か光属性かは五分ということになるが……ただ、一つ気になることがある」
「お聞かせください」
 結論は出ない、という結論だが、ジュリアンの表情はそれ以上に浮かないものだった。
「フィラが『魔女』に追われていたと言っていた」
「魔女、ですか」
「風属性と魔女、だ」
「……まさか」
 繰り返すジュリアンに、フェイルの表情も強張る。その二つのキーワードが意味するところは、今の聖騎士団にとって非常に重いものだ。
「そうだ。早急にユリンの結界を全調査する。現在ユリンに駐屯している聖騎士全員に通達を頼む」
「かしこまりました。しかし……もしカルマが……URS-049が絡んでいるとなると」
「彼女が『そう』である可能性は逆に高まるな」
 ジュリアンが結論を先送りにした理由にようやく合点が行って、フェイルも深々と頷く。
「危険ですね」
 早朝の爽やかな陽光にも和やかな小鳥たちの声にも、到底似合わない話をしている。自分はともかく、ジュリアンにはこんな立場に立って欲しくはなかった。
「光王庁に漏れる危険はあるが、守護の魔術を付けておくしかないだろう」
「隠密性に優れた術を構築するとなると、やはり団長に頼るしかないのですが」
「わかっている。俺がやる」
 ジュリアンは腕組みをとき、治療室へ戻ろうと姿勢を変える。
「お気を付けください。まだ高度な魔術を使えるほどには、あなたも回復していないはずです」
「心配するな」
 気遣わしげに声をかけるフェイルに、ジュリアンは振り向いて微笑した。余裕の見えるその表情に、この方はいつの間にこんな表情を部下に見せるようになったのだろうとどこか場違いなことを考える。
「光王庁の目を避けるとなれば、どちらにしろ動かせる魔力はそう多くない」
「……よろしくお願いします」
 それ以外の言葉など言えるはずもない。いつからかジュリアンの前に立つ度に感じるようになった無力感を隠すように、フェイルは深く頭を下げる。
「ああ。調査の件は頼むぞ」
「お任せください」
 頷いたジュリアンが治療室の扉に消えるまで、フェイルはじっと頭を下げたまま見送った。

 治療室に戻ったジュリアンを迎えたのは、ベッドの上に起き上がったフィラの困惑した表情だった。
「団長……? ここは……?」
 寝起きの掠れた声で呟いたフィラは、はっと気付いたように髪に手をやり、自分の服装を見下ろし、わかりやすく顔色を変えた。
「着替えならフィアが用意していたのを使え。そっちのサイドテーブルに置いてある。顔を洗いたければそっちの流し台を使って良い。俺は向こうの部屋で控えているから、終わったら呼んでくれ。事情を説明する」
「は、はい」
 恐縮するフィラに背を向けて、そのまま待合室へ移動する。待っている間は手持ち無沙汰だ。待合室の窓から中庭を見下ろすと、だいぶ高くなった太陽に照らされて鮮やかに輝く緑が目に飛び込んできた。ユリンの緑はよく繁る。下級の僧兵たちが訓練の合間に慣れない手入れを交代でしているが、こんなに生命力旺盛だとは思わなかったという会話がジュリアンの耳にも届くことがあるくらいだ。
 ぼんやりとそんなことを思いながら、ただ木々の緑を眺める。治療室の扉の向こうからは、微かな衣擦れや水の流れる音が聞こえてくる。生きて、生活していく人間の音だ。
 どれほどそうしていただろうか。控えめに扉を叩く音に、ジュリアンはようやく我に返る。
「あの、団長。支度、終わりました」
 控えめな呼び声に答えて治療室に入ると、ジュリアンが立ち止まったのを見計らったフィラがいきなり深々と頭を下げてきた。
「申し訳ありませんでした!」
「いや、謝る必要はないんだが」
 素朴で真っ直ぐな謝罪に、ジュリアンはわずかに気圧される。こういう直球勝負には慣れていなかった。
「でも、私、寝ぼけて大変なご迷惑を」
「ああ、そういう解釈になるのか」
 泣き出すんじゃないかと思えるくらい顔を青くして言いつのるフィラに、ジュリアンは額に手を当ててため息をつく。
「え……?」
「別にお前は寝ぼけていたわけじゃない」
 呆れているのは、フィラに対してではなく自分にだ。魔術の素養が全くないということがどういうことなのかもこの状況を素直に解釈したらどうなるかもわかっていたはずなのに、どうも調子が狂う。
「何者かの干渉によって、お前が危機的状況に陥っていたのは確かだ。転移先に礼拝堂を選んだのも適切な判断だった。謝る必要はない」
 フィラは目を丸くして呆然とジュリアンを見上げる。まったく思考が追いついていない様子に、ジュリアンは微笑した。
「事情を説明する。とりあえず、座れ」
 促されるままに診察用の椅子に腰掛けたフィラと向かい合うように座る。フィラは緊張に身体を硬くしながら膝の上で両手を握りしめている。
「とは言っても、説明できる事柄はそう多くない」
 またかと呆れられそうな気がしたが、フィラは神妙に頷いただけだった。
「話せないことも多いが、それ以上に今回の件については不明な点が多い。とりあえず、わかっている範囲で説明する」
「お願いします」
 俯いたまま、フィラはさらに強く両手を握り込んだ。白くなった指先に、縋り付いてきた彼女の頼りない感触を思い出す。その記憶を振り払うように、ジュリアンは努めて事務的に話し始めた。
「午前二時十分、お前は酷く魔力が乱れた状態で礼拝堂に転移してきた。俺はたまたまその場に居合わせたので、魔力の乱れを鎮めると同時に転移の前後にどのような魔術が働いたのかを調査した。だが、詳しいことはわからなかった。推定を交えずに話せば、それが全てだ」
 こんな説明でわかるはずもない。それでも、事実として話せるのはそれだけだった。あとはまだ、全てが推測の域を出ない。
「ここから先は推測だ。あくまでも可能性の話として聞いて欲しい」
「はい」
 強ばった表情のフィラを前にしていると、ふと何故かフィアと話しているような錯覚を覚える。いつもの柔らかそうなスカート姿ではなく、フィアの趣味らしい黒のタートルネックに細身の綿パンを身につけているせいだろうか。服装が入れ替わってしまえば、双子だけあって容姿にはほとんど差がない。
「お前は何らかの魔力的な干渉を受け、恐らくはその危機を回避するために礼拝堂に転移した可能性が高い。転移してきたとき、俺に話したことを覚えているか? 魔女が追って来た、という話だ」
「はい。でもあれは、夢の話で……」
「どんな夢だったか、詳しく聞かせてくれないか」
 困惑した表情でジュリアンを見上げたフィラは、目が合った瞬間にきゅっと口を引き結んだ。
「わかりました。覚えている範囲で、お話しします」
 言い方がやけにフィアに似ている。一緒に育ったわけではないのに、やはり双子は双子なのだなと妙なところに感心しながら、ジュリアンは頷いた。

「最後のイメージは全て見覚えのないものだったんだな?」
 念を押すジュリアンに、フィラは自分でも緊張しているとわかるぎこちなさで頷いた。
「はい。全部、ユリンではなかったと思います。空の色も夢の中と同じで変な灰色だったし……」
「そうか……」
 厳しい表情で考え込むジュリアンにとって、この情報がどんな意味を持つものなのかフィラにはわからない。誰かが干渉している、という話は、瞬間移動する理由について尋ねたときにもあった。でも、さっきの話では干渉された危険を避けるために転移したということだから、干渉しているのは二人ということになるのだろうか。
(誰が何のために……?)
 ちらりとジュリアンの表情を伺うと、思い切り眉間にしわを寄せて考え込んでいた。この様子では、恐らくジュリアンにもそこはわかっていないのだろう。非常に頼りない状況のはずなのに、一緒に悩んでくれる人がいることに妙にほっとしてしまう。
「以前、幽霊を見かけたと話していたな。魔女の容貌はその幽霊と一致していたか?」
 しばらく考え込んでいたジュリアンが、新たな疑問を投げかけてきた。
「はい、一致している、と思います。それと、私、実はあの後も何度か魔女を見かけているんです」
 出来るだけ隠し事はしたくなかった。ジュリアンが立場故に秘密を多く抱えているということはわかっている。ジュリアンに話してもらえない以上、フィラは大事な判断を彼に任さざるを得ない。だからこそ、その判断を妨げることがないように、できるだけきちんと情報を伝えたいと思う。
「そのときの状況も教えてくれ」
 どんな情報が重要なのか、フィラにはわからない。伝えるべきことは何だろう。フィラは緊張しながらも、ゆっくりと言葉を選んで話し始めた。
「二度目に見たのはフィアの歓迎パーティーの日です。そのときも魔女は私に何か言おうとしていたみたいなんですけど、その前に『危ないよ』って声が聞こえて、すぐに転移してしまったから……何を言おうとしていたのかは、よく、わからないんですけど」
「危険を告げた声に聞き覚えは?」
「それもよく……声が小さすぎてわかりませんでした」
 フィラが瞬間移動するのは誰かが干渉しているからだと以前教えてくれたとき、直接精神に呼びかけられているような感覚がなかったかと尋ねられたことを思い出す。その声が誰のものだったかわかれば、そちらの謎にも答えが出るのかもしれない。それでもあの声はいつだって唐突で、どこか遠くで鳴る風の音のようで人間の声としては聞き取れない。
 落ち込むフィラに、気にせず話を続けろとジュリアンが先を促した。
「三回目は夜中です。窓の外に姿が見えて……でも、そのときはウィンドさんかもしれないと思ってました。それで、四回目、は……」
 言葉が途切れた。四回目は、礼拝堂の中だ。ジュリアンが傷ついて帰ってきたあの日。忘れろと言われたし、それ以上にあのことにどう触れて良いのかフィラ自身もわからない。
「……四回目は、八月の最後の日、です」
 さんざん迷った末に、フィラは日付だけを口にした。ちらりとジュリアンを見上げると、見事に表情が固まっている。けれどジュリアンはやはりまずかっただろうかと両手を握りしめるフィラに気付いて、すぐに無表情を取り繕った。
「その時の様子は話せるか?」
 尋ねる声もいつも通りだ。取り繕う余裕すらなかったあの時とは違う。そのことに少しほっとしながらも、やはりどう話したものかと悩んでしまう。
「あの時……私は、礼拝堂にいて……ぼんやり、してたんですけど」
「気にせず話せ。どうせここには俺しかいない」
 あからさまに話しにくそうだったせいか、ジュリアンが気まずそうに助け船を出してくれた。けれど話しにくいのはむしろ相手がジュリアンだからだ。自覚したばかりの感情を、フィラはもてあましていた。
「……すみません。魔女がどこから入ってきたのかはわからないんです。気がついたら目の前にいて……」
「何か言われたのか?」
 言われた、ような気はする。確かにあったことのはずなのに、夢の中の出来事よりも記憶が朧気だ。
「確か……私は『風』だって」
 それはウィンドが名乗ったときと同じ言葉だった。
「占い師と同じ名乗りか」
 難しい表情で考え込むジュリアンに、フィラは小首を傾げる。
「ウィンドさんのこと、団長はご存知なんですよね?」
「ああ」
「あの人は……いったい何者なんですか?」
 ジュリアンの表情がますます険しくなる。
「ここにはいないはずの者だ」
 それ以上話せることはないのだろう。ジュリアンの言い方と表情からそう察して、フィラは小さくため息をついた。