第二話 Live in a fool's paradise.

 2-3 調律

 小さなため息は、自分で思ったよりも強く部屋中に響き渡った。思わず息を詰めてしまうフィラに、ジュリアンが苦笑する。
「魔女が『風』と名乗ったのなら、それが何者なのか心当たりはある。それをお前に話すわけにはいかないが、彼女に狙われているならば危険だということは言える」
 これがジュリアンの精一杯の誠実さなのだと思うと、何だか泣きたい気分だった。
「だから、守護の魔術をつけておきたい。それと……しばらくこの城にとどまってもらう必要もあるな。魔女がユリンを守る結界をすり抜けて入ってきたのだとしたら、狙われている者を市街地に置いておくわけにはいかない」
 なんとなく、フランシスに出会った頃からわかっていた。瞬間転移してしまう体質は、きっとフィラ自身の手に負えるものではないのだろうと。でもこうして現実に目の前に突きつけられると、足下に暗闇が迫っているような薄ら寒さを感じる。
「エディスさんと、エルマーさんには……」
 無理矢理絞り出した声は細く掠れていて、大丈夫だと言って欲しい甘えた感情を隠しておける気はしなかった。
「俺から話しておく」
 ジュリアンの声も視線も、ひどく優しく穏やかだ。縋りたくなる自分を抑えつけて、フィラは真っ直ぐジュリアンを見上げた。
「私が狙われる理由は、瞬間移動してしまう体質のせい、ですか?」
「ああ。他に理由は考えられない」
「……わかりました」
 俯いて両手を握りしめる。指先が冷え切って震えているのが、嫌になるほど鮮明にわかった。
「妙に素直だな。そんなに怖かったのか?」
「え……?」
 ジュリアンの話し方が急に気安くなって、フィラは思わず目を瞬かせる。
「魔女のことだ。そうだな……一度、ベイカー夫妻を城に呼ぼう。直接会って、甘えておけ。両親みたいなものだろう」
「でも」
 そんなことをして良いのだろうか。エディスやエルマーにどこまで話して良いのか、どこまで話したら巻き込んでしまうのかもよくわからないのに。
「こんなときに遠慮するな。その方が向こうも嬉しいだろう」
 甘えたい気持ちを見透かされているようだった。
「……すみません……」
 泣きそうになって声が詰まる。なんとか涙だけはこらえようと瞬きを繰り返す。
「ごめんなさい、ちょっと……な、何だかやっぱり私、動揺してるみたいで」
 涙は押しとどめられても、声の震えは隠しようがなかった。
「気にする必要はない。今度は本気で泣かせるつもりだった」
「は……?」
 いつも通りの調子で冷静に告げられた内容が理解し難くて、思考が一瞬停止する。微妙な間をおいて顔を上げると、ジュリアンは笑っていた。悪戯が成功した子どものような、妙に得意げな表情だった。
「お前、やっぱり意地っ張りだな」
 呆けたようにぽかんと口を開けたまま、徐々に頬が熱くなっていくのを感じる。
「な、何ですかそれ! 泣かせるつもりだったって……ちょっと、団長!?」
 フィラが顔を赤くして立ち上がったところで、短いノックと共に扉が開いた。
「おおい、ジュリアン。何やってるんだ?」
 つかみかかりそうな勢いで立ち上がったままジュリアンを睨み付けているフィラとやけに楽しそうに微笑しているジュリアンを見て、入ってきたランティスは呆れ返る。
「お前ら、真面目な話してたんじゃなかったのか……?」
「してたさ」
 楽しげな視線をフィラに向けたまま、ジュリアンは軽く答えた。
「今終わった。ちょうど良いタイミングに来てくれたな。今から守護の魔術を使う。結界を張ってくれ」
「お、おう……?」
 フィラよりもさらに困惑している様子のランティスは、目を白黒させながらも条件反射的に頷く。
「魔力量は抑えるが、その分時間がかかる。その間保たせろ」
「もっと得意な奴呼んでくるか? カイとかクロウとか」
 真面目に問いかけるランティスに、ジュリアンは静かに首を横に振った。
「クロウに知らせる予定はない。カイもやめておいた方が良いな。動揺が魔術に影響する可能性がある」
「動揺……?」
 カイに何かあったのだろうか。問いかけるようにジュリアンを見上げるが、答えは「気にするな」という素っ気ない一言だけだった。
「始めてくれ」
「ああ。城内のネットワークからは切り離した方が良いんだよな?」
 ランティスが部屋の中央に進み出て目を閉じる。ジュリアンに仕草で座れと指示されたフィラは、元の椅子に腰掛けながらその様子を見つめる。魔力の動きがわからないフィラには、ランティスが何をしているのかもよくわからない。ただ剣の柄に手を添えて黙って立っているだけに見えるけれど、実際は結界を張るために集中しているのだろう。
 ジュリアンをちらりと見上げると、彼も真剣な表情でランティスの方を見ていた。ランティス自身ではなく、その周囲の空間を検分するように目線が細かく動いている。声をかけづらい雰囲気だ。
 不思議な気持ちだった。ジュリアンもランティスも、フィラには決して見ることの叶わない何かを見て、感じて、操っている。
(何だか、遠い)
 わかりきっていたことだけれど、改めて感じると何とも言えない物淋しさに襲われた。気付かれないようにゆっくりと息を吐く。ユリンの人々とも、聖騎士団の面々ともフィラは違う。中途半端な位置に、一人きりだ。
 でも、ジュリアンはどうなのだろう。彫刻のように整った横顔を見つめながら思う。
 聖騎士団の中にいても、どこか一線を引いたような雰囲気を常に纏っている彼は。ランティスやリサに対しては親しげな様子を見せているけれど、それでも礼拝堂で時折見せる投げやりで面倒くさそうな態度よりもずっと張り詰めたような空気が漂っている、気がする。
(そんなはずない)
 上司と部下という関係よりもさらに深い信頼で結ばれているらしいリサやランティスよりも、面倒ごとばかり持ってくるわけのわからない厄介者に心を許すなんて、あるわけがない。
(きっと、私には見えていないだけだ)
 それでも、時折ジュリアンが見せる無防備な表情に、一人きりで礼拝堂に佇んでいた姿に、底知れない孤独を感じたことは確かだった。
 エディスやエルマーは、記憶もなく何者なのかもわからないフィラのことを受け入れてくれた。不安に押しつぶされそうなときには、抱きしめて大丈夫だと信じさせてくれる。過去を共有できなくても、本心を打ち明けられなくても、それでも受け入れてくれる存在がいることに何度救われたことだろう。
 ジュリアンには、そんな存在がいるのだろうか。
 自分が心配するようなことではないと、頭ではわかっていても止められない。いつの間にか視線は膝の上に落ちて、両手を握りしめていた。
 誰か、いてくれれば良いと思う。ジュリアンが何を抱えているのかフィラにはわからない。血塗れの手袋の意味も、空を飛んではいけない理由も、何もかも。けれどそれを全て知った上で受け入れてくれる誰かがいれば、きっと彼は大丈夫だと信じられる。
「おい」
 すぐ側で声がして、はっと顔を上げた。その途端、驚くほどの至近距離でこちらを覗き込んでいたジュリアンと目が合う。
「うわっ!?」
 座っていた椅子が音を立てるほどの勢いで身を引いたフィラは、バランスを崩しかけて椅子の背もたれにしがみつく。いつの間に目の前に立っていたのか、全然気付かなかった。
「す、すみません! 私、ぼんやりしてて。び、びっくりした」
 背もたれにしがみついたまま勢いよく謝るフィラに、ジュリアンは腰を伸ばして呆れ返った視線を送る。
「先に声はかけたぞ。そこまで驚かれるとはこちらが驚きだ」
「申し訳ありません。でも団長、全然驚いてるように見えな……」
 つい口が滑った。ジュリアンの表情が目に見えて険しくなり、はっと気付いて口をつぐむとジュリアンの向こうでランティスが何かこらえるように肩をふるわせているのが見えた。よく見ると口元もぴくぴくと引きつっている。
「良い度胸だな。フィラ・ラピズラリ」
 ものすごい無表情で言われる。フィラはますます背もたれにしがみつき、「すみません」と消え入りそうな声で謝った。
「お前、覚えとけよ」
「団長たまに悪役みたいなこと言いますよね……」
 無表情は無表情なのだが何故か楽しそうな気配を感じてしまって、思わず言い返す。
「本当に悪役かもしれないしな」
 ジュリアンは言葉通り悪役じみた笑みを浮かべた。冗談ぽい表情とは裏腹に、こちらの方が本心に近いのかもしれない。何となく思って、フィラも曖昧な笑顔を返した。
「とにかく、始めるぞ」
 ジュリアンはそう言うと、左の儀礼用手袋の中指をくわえて外す。妙に色気のある仕草に動悸が跳ねて、フィラは思わずジュリアンの顔から視線を逸らした。まだ右手を自由に動かすことはできないのだろうか。もう布で吊ってはいないし、見たところ普通に動かせているようなのに。
「本調子じゃないだけだ」
 フィラの疑問を視線から感じ取ったのか、ジュリアンは軽く右手を振って言った。
「手を貸せ」
 言われるままに右手を差し出す。ジュリアンはその手を取ると、そっと左手を重ねた。ほんの少しだけフィラよりも体温が低い。繊細に見えて意外と骨張った、指の長い大きな手。楽器向きっぽいのに、ヴァイオリンをやめてしまったなんてもったいないなと場違いなことを考える。
「守護の魔術を付与する。とはいえ、諸事情あって大した魔力は動かせない。何か異変があった際、お前の魔力を平常に保ちつつ俺にそれを知らせる程度のものだ。外部への魔力の流出を防ぐため、魔術の付与は接触で行う。少し時間がかかるが、じっとしていてくれ」
「はい」
 ジュリアンはフィラの手を取ったまま跪き、目を伏せて集中し始めた。そこだけ見ていれば玉座に座る女王にかしずく騎士のようだが、相手が飾り気のない診察用の椅子に座ったただの庶民ではどうにもシュールだ。しかもこのアングルは以前パーティーの夜にバルコニーでからかわれたときと一緒で、心臓に悪い。ばりばりに緊張する。
「あまり緊張しないでくれないか。魔術がかかりにくくなる」
「そう言われても……」
 目を伏せたまま平静な声でのたまうジュリアンに答えた声は震えていた。
「呼吸を止めるな。そこまでがちがちに動くなと言っているわけじゃない」
「……すみません」
 慌てて深呼吸を始める。瞳を閉じてしまったせいで、右手に触れる少し乾いたジュリアンの体温と、じんわりとした不思議な感覚をやたら鮮やかに感じる。あたたかいような、仄かな光が灯っているような、協和音が鳴っているような、そのどれとも違うような不思議な感覚。これは何だろう。
 意識した瞬間、それまで穏やかに響いていた和音に不協和音がぶつかった。
「おい、抵抗するな」
 即座に不満そうなジュリアンの声が飛んでくる。何をどうすれば抵抗したことになるのか、どうすれば抵抗とやらをやめられるのかさっぱりわからない。とりあえず不協和音をどうにかすれば良いのだろうか。
 音に耳を澄ましながら意識のどこかを弛緩させると、響いていた一音が少し低くなった。緊張させれば、逆に高く。コツをつかめば、音を合わせるのは簡単だった。
「……そうだ。その調子で頼む」
 ジュリアンの言葉と共に、彼から流れ込んでくる音の響きが変わり、フィラはまた音を合わせていく。魔術が終わるまで、その作業は繰り返された。

「楽だったな」
 フィラの手を放して立ち上がったジュリアンが、ぼそりと呟く。
「定着まで少しかかる。もうしばらくそのまま座っていてくれ」
「はい」
 フィラはゆっくりと膝の上に右手を下ろして姿勢を正した。
「そうだ、フィラ。一つ提案があるんだが」
 元の椅子に腰掛けながら、ジュリアンが声をかけてくる。右手を使わないようにしていても、その動作はどこか優雅だ。
「何でしょうか?」
 思わず背筋を伸ばすフィラに、ジュリアンは苦笑した。
「そんなに身構えなくて良い。第三都市の音楽学校でピアノの教師をしていた人物がユリンに引っ越してくることになったんだが」
「ピアノの……?」
 一つ瞬きをしてジュリアンを見上げる。
「ああ。彼女はこちらでも誰かにピアノを教えたいと希望しているんだが、お前、どうだ?」
 視線を落として少し考え込む。確かに、ずっと一人で練習していると誰かのアドバイスが欲しいと思うことはある。きちんとしたピアノのレッスンが受けられるのだとしたら願ってもない話だ。
「……あの、ありがたいお話だとは思うんですけど、私、謝礼を払う余裕がなくて……」
「謝礼はいらない。ランティスが出すそうだ」
 ゆっくりとした仕草で足を組みながら、ジュリアンが言う。
「ランティスさんが? ど、どうしてですか?」
 まだ結界を維持しているらしいランティスを思わず見上げると、視界の端でジュリアンが軽く肩をすくめた。
「さあな。将来あのピアニストを育てたのは俺だって自慢したいらしいが。俺にはよくわからん。やけに楽しそうだったから放って置いてやれ。どうせあいつ、金は余ってるからな」
 結界魔術に集中しているランティスの表情がぴくぴくと引きつっている。
「そ、そう言われましても……」
 ランティスのその表情をどう判断したものか迷って、フィラはジュリアンとランティスの間で視線を彷徨わせた。
「とにかく、一度会ってみたらどうだ?」
 ジュリアンの言葉に、ランティスが集中の合間を縫って素早く二回頷く。
「そう……ですね」
 ランティスが同意してくれるのなら、それも良いかもしれない。
「教師との相性もあるかもしれないしな。ベイカー夫妻とも相談して決めれば良い。返事は急がない」
 偉そうに腕組みをしながら、ジュリアンが微笑する。
「ありがとうございます」
 その笑顔に礼拝堂で見せたような翳りは見えなくて、フィラはほっとしながらジュリアンとランティスに微笑み返した。