第二話 Live in a fool's paradise.

 2-4 不協和

 城内での生活条件を整えてくるからここで待機していろ、と、ジュリアンはフィラに言い置いて部屋を出た。ランティスも一緒に部屋を出て、ジュリアンの執務室へ向かう。黙り込んだまま考えるのは、先ほどのジュリアンとフィラのやりとりだ。ランティスが部屋に入る前、二人がどんな会話を交わしていたのかはわからない。けれど、なんとなくその場の雰囲気でわかることもある。
 フィラと会話していたときのジュリアンは、まるで学生時代にランティスとつるんで馬鹿なことを言い合っていたときの彼のようだった。聖騎士団団長の任を引き継いでから、あんな風に誰かとのやりとりを楽しんでいるジュリアンを見たことはない。それが果たして良いことなのか悪いことなのか、判断がつかずにランティスの眉間に皺が寄る。
「ランティス。何か不満でもあるのか?」
 執務室の前に辿り着いたところで、ジュリアンがランティスを振り返って尋ねかけた。
「お前、嬢ちゃんに惚れられちまったらどうする気だ?」
 思わず考えていたことがそのまま口に出る。
「は?」
 眉間に深い皺を刻んだランティスを見上げながら、ジュリアンも負けずに眉間に皺を寄せた。
「さっきの様子を見ていてどうやったらそういう仮定が出てくるのか全く理解できないな。そうなる可能性は低いと思うが……」
 ジュリアンの返答は、珍しくかなり頓珍漢なものだった。
「お前、本っ当に自分のことをわかってないな!」
 大げさに手を振って訴えると、ジュリアンは皺の寄った眉間に手を当ててため息をつく。
「お前こそ、俺がどれだけああいうまともなタイプにもてないか知らないのか?」
「そりゃお前が近寄りがたいから察しの悪いタイプしか近付かないんだろ。わかってねえ、本当にわかってねえよ。嬢ちゃんに接してるときのお前は近寄りがたくないんだよ!」
 そう。そうだ、確かにそうだった。
 例えば夏祭りの時、ジュリアンはランティスに対する態度を変えなかった。リサやダストやフェイルが一緒にいるときもジュリアンのランティスに対する態度は変わらないから、あの時は気にしなかったけれど、今考えれば妙だった。最初の出会いで少々揉めたからといって、ジュリアンが自分の態度を何も取り繕わないことなど常ならば考えられない。友人としてランティスに接する姿を、個人的な付き合いなどあるはずもない一般人に見せることはそれまでなかったのだ。
 光王庁から視察団が来ていたときもそうだ。明らかに近すぎた距離を咎めたランティスに、ジュリアンはろくな返答をしなかった。
 水の神器輸送任務を命じられたとき八つ当たりみたいなことをしていたのも、帰還後に礼拝堂でずいぶん長い間二人きりでいたのも、何もかも。
 一気に思い出したことで、ランティスは動揺する。
 ――そうだ。最初から、何もかもがおかしかった。
「だから彼女が俺に恋愛感情を抱く可能性があると?」
 問い返すジュリアンの態度はあくまでもいつも通りの冷静で淡泊なものだが、今のランティスには単なる無自覚としか思えない。
「あるだろ?」
「そうは思えないが、もし仮にそうなったところで何か問題が?」
「……ないのかよ」
 いろいろありすぎるはずなのに、ジュリアンの表情は変わらなかった。
「ないだろう。彼女がもし『そう』でないなら、俺が好意を無視すれば良いだけの話だ。そしてもし『そう』ならば、その感情には利用価値がある」
 あらゆる感情が抜け落ちた無表情に、ランティスは返すべき言葉を迷う。今必要なのは友人としての言葉だろうか、それとも部下としての意見だろうか。
「……嬢ちゃん、傷つくぞ」
 結局のところ、どちらも必要とされていないのだろうと思いながら、友人としての言葉を絞り出す。
「そうだろうな」
 表情は変えないまま、ジュリアンは視線を逸らした。
「お前は大丈夫なのかよ」
「俺が?」
 一度逸らされた視線が訝しげに戻ってくる。
「そうだよ。お前だ。大丈夫なのか?」
「傷つける側を案じる必要はないと思うが」
 呟いたジュリアンは、ふと視線を落として思案げに眉根を寄せた。
「どうした?」
「……いや。何でもない」
 答える声にも表情にも、珍しく隠し損ねた苦渋の色が滲んでいる。何でもないようにはとても見えなかった。
「何だよ。黙っててやるから言え」
 ジュリアンは迷うように瞳を揺らす。
「……それでも彼女は、俺を許すのかもしれない、と思って……」
「は?」
 ジュリアンの唇の端に、一瞬だけ自嘲するような笑みが浮かんで消えた。
「ランティス、悪いが、定時連絡の時間だ。執務室に戻る」
「お、おう……?」
 呆然としたままのランティスを置き去りにして、ジュリアンはさっさと執務室に入っていく。
「何だ……?」
 あらゆる疑問も質問も封殺するように閉じられた扉に、ランティスは自分でもそうとわかるほどの間抜け面を向けた。
「どういうことだ? もしかして、惚れてんのはあいつの方か……?」
 今の会話の流れでは、そういう結論に辿り着いてしまう。何とも言えない感覚が背中を走り抜け、全身に鳥肌が立った。
「ま、まさかなハハハ! こんなに空が青いから調子が狂ってんだな、うん。きっとそうだ!」
 声に出して笑いながら、ランティスはくるりとターンして反対側の窓から爽やかな青空を見上げる。
「廊下で何を大きな独り言を言っているんです。恥ずかしいですよ、良い大人が」
 呆れ返った男の声は、廊下の向こう側から飛んできた。
「フェ、フェイルのおっさん……」
 完全に油断していたランティスは飛び上がって振り向く。言葉の調子通り、心底呆れ返った表情のフェイルがこちらを見ていた。
「誰がおっさんです。暇なら仕事を手伝ってください。結界の調査はここからが本番なんですから」
 頭痛を堪えるように額に手を当てて、フェイルは深いため息をつく。
「あ、ああ、はいはい。そういうことなら喜んで」
「助かりますよ」
 おざなりに頷きながら廊下の先へ歩いて行くフェイルを慌てて追いかけながら、ランティスはさっきのジュリアンとの会話は、とりあえず自分の胸に収めておこうと決意した。

 執務机に座り、次々に送信されてくるユリン周囲の結界のデータをチェックする。前領主から引き継いだ頃は使い物にならなかったユリン内部の魔術通信網も、今はだいぶ整備が進んでいる。迷いの森などその地の神との関係で敷設できなかった地域はあるが、結界周辺から城まで戻ってこずとも、セキュリティを気にすることなくデータを送れる環境は整っていた。
 第一報は既にフェイルが精査して、調査済みの箇所に問題はないと結論まで出していた。その後送られているデータも同様だ。結界に綻びは見られない。
 一通りチェックが終わったところで、人の気配が近付いているのに気付く。魔力の波形パターンからカイであることを読み取って、ジュリアンは周囲に浮かび上がる積層モニターを正面から脇へ移動させた。
 程なく執務室のドアがノックされ、ジュリアンの了承を待ってカイが入ってくる。
「団長、結界の調査の件ですが」
 執務机の前に立ったカイは、緊張した面持ちで切り出した。
「何か見つかったのか?」
「いえ。申し訳ありません。今のところは、何も。しかしずいぶんと急な調査だったので……何かあったのか、と」
 昨夜フィラが転移してきたことを、カイにはまだ伝えていない。
「カルマの侵入を疑っている」
 伝える前に、確かめたいことがあった。
「カルマの……? 神器を狙ってきたのでしょうか。結界内で団長に戦闘を挑むのは愚策と思えますが」
「そうだな。他に思い当たる節は?」
 注意深くカイの表情を伺いながら、ジュリアンは尋ねる。
「現状、カルマが神器以外に執着するとは思えません。行方の知れない神器という条件で考えれば、風の神器でしょうか」
 いつも通りの、生真面目な声と表情。カイの様子に変わりはない。
「行方の知れない神器なら他にもあるだろう」
「しかしあれは……ユリンとは関わりがないはずです」
 カイの態度に困惑した様子が見え始める。さすがに質問の仕方が奇妙だと気付いたのだろう。
「もしもカルマの侵入が事実だとすれば、狙われているのはフィラ・ラピズラリだ。昨夜、カルマが彼女に接触を図った疑いがある」
 動揺につけ込むようにすかさず告げると、カイは何を言われているのかわからない、という表情で固まった。
「フィラ・ラピズラリ……?」
 呟いたカイの表情が、ゆっくりと驚愕に染まる。
「そんな、まさか。なぜ彼女が……彼女はただの一般人でしょう。狙われる理由など……」
 信じられないというより、信じたくない様子だった。
「カイ、お前、フィラ・ラピズラリのことを以前から知っていたな?」
「それは……私の方がユリンに先に入りましたから」
 あからさまに逸らされた視線が、その言葉が嘘だと物語っていた。カイも聖騎士団の一員だ。その気になれば、表情一つ動かさずに嘘を貫くことなど造作もない。嘘をつくのが下手なのは、カイに迷いがある証拠だ。ジュリアンに対する忠誠心と、嘘をつかなければならない何らかの理由の間で、カイは迷っている。
 そしてカイがジュリアンに対して迷いながらでも嘘をつく理由は、ジュリアンが知る限りたった一つだけだった。予想が確信に変わる。
「ユリンで彼女と出会う前から、エステル・フロベールの弟子である彼女をお前は知っていた。そうだな?」
「……はい」
 確信を深めた断定的な問いかけに、カイは観念したように肩を落として頷いた。
「直接会ったことがあるのか」
「い、いえ。直接、話したことがあったわけでは」
「会ったことはあるんだな」
 口ごもるカイにたたみかける。フィラが言ったとおり、確かに悪役みたいなことを言っている、と、ふと笑い出したい気分になった。
「見かけたことがあるだけです」
 今度のカイの言葉に嘘はない。視線も真っ直ぐジュリアンの瞳に向けられている。
「いつだ?」
「……お答えできません」
 それがジュリアンの望む答えにもなると、二人ともわかっていた。それでもそんな言い方しか出来ないカイに、ジュリアンはため息をつく。
「そうか。引っかけるような真似をして悪かった。だいたい理解できた」
「いえ……」
 安堵と後悔がない交ぜになったような複雑な表情でカイは俯いた。
「団長、しかし、彼女は……普通の、本当に普通の生活を送っていた一般人です」
「わかっている。今のところ、確証があるわけでもない。だが、もしもフィラと接触を図っているのがカルマだとしたら、考えられる可能性がそう多くないのも事実だ」
 フィラの供述を簡潔にまとめた画面をカイの方へ押し出す。
「ウィンドとも何度か接触があったようだしな。もっとも、ウィンドの場合は単なる気まぐれかもしれんが」
 ざっと目を通したカイはそれでも信じたくないと言いたげに首を振った。
「そんな……そんな、はずは……。彼女は本当にただの一般人です。そんなこと、あるはずがない……」
 カイが何故そこまで頑なに否定するのか、その理由はだいたい想像がつく。
「もしもフィラが『そう』だったとしても、先代の意図がわかるわけじゃない。それを知っている可能性があるのは、今のところフィラ・ラピズラリ本人だけだろう」
「フィラさんの記憶は……戻りそうにないのですか?」
「残念だが、今のところその兆候はない」
「そう、ですか……」
 カイは拳を握り、唇を噛みしめる。
「なぜ……そこまで追い詰められていたというのか……? 私たちが目指しているものは、一つだったはずなのに……」
 悔しげにこぼれ出る自責の言葉。カイが未だ抜け出せずにいる過去は、ジュリアンやリサの上にも重くのしかかっている。
「……それはわからないさ」
 勢いよく顔を上げたカイの咎めるような視線を、ジュリアンは静かに受け止めた。
「そんなもの、リラ教会が生まれた瞬間からバラバラだったのかもしれない」
 力の抜けた笑みを浮かべるジュリアンから、カイは苦しげに視線を逸らして俯く。
「とにかく、今は結界の調査だ。カルマの侵入が事実だとすれば、いくら警戒してもしすぎることはない」
 無理矢理顔を上げて話を聞く姿勢を取ろうとするカイに、ジュリアンは微笑した。
「カイ。あくまでも可能性の話だ。あまり考えすぎるな。それと、仕事に差し支えるようなら言ってくれ。分担を考える」
「ありがとうございます。ですが、私は大丈夫です」
 カイの表情には迷いが見えるが、言い切ったからには必ず責任を果たすのがカイという人間だ。
「なら良い。引き続き、調査を頼む」
「……了解いたしました」
 カイは深々と頭を下げ、何かを振り切るように決然とした足取りで執務室を出て行った。ジュリアンは扉が閉まるまで見送ってから、全てのモニターを消して背もたれに体重を預け、長くため息をつく。
 コートの下の胸ポケットから煙草を取り出し、少し皺の寄ったそれをじっと見つめる。
(もしも、フィラの中にあるものが『あの力』なのだとしたら)
「あんたは、もっと上手く騙してやれるんだろうな。あいつのことも、カイのことも」
 ぐしゃりと箱ごと握りつぶし、目を閉じた。
「……おれは、あんたと同じようにはできない」
 目を開き、つぶれた煙草の箱を見下ろす。
「ならば、どうする?」
 自問の答えは、まだ胸の内で形になってはくれなかった。