第五話 闇の竜と魔女

 5-2 奪回

 霧の隙間から聖騎士たちが戦っている姿が見えた。まだ誰も怪我はしていない様子だけれど、雰囲気から攻めあぐねているように感じられた。対する魔女はまるで獲物をいたぶる猫のように余裕の表情を浮かべている。
「ティナ……神器って、どこに……」
 作戦会議の時、ジュリアンは水の神器奪還を優先すると言っていた。聖騎士たちはきっと、それを狙って戦っているはずだ。
「魔女が持ってるよ。ほら、あの右手の上に浮いてる奴」
 目を凝らして見ると、確かに魔女の手の上に不思議な球体が浮いている。透明な水晶玉のように見えるが、その中できらめく虹色の光が、それが魔術的な品物であることを示していた。
「ずいぶん力の強い神器みたいだ。あれ、中に封じられてるのはたぶんグロス・ディアで生まれた水の神だね。相当ヒューマナイズされててもおかしくないはずだけど……意志ごと封じ込められてるのかもしれない」
 酷いことするよね、とティナはため息をつくが、酷いのは誰なのだろう。神器を操っている魔女のことなのか、神器を作った人間のことなのか。何となく後者じゃないかと思えて、フィラは確認するのを躊躇った。
 魔女が戯れのように放った黒い霧の槍を避けたランティスが、刀身に炎を纏わせながら魔女に迫る。その進路を阻むように魔女が作り出した魔力壁にリサの放った氷の槍が突き刺さり、浸食して自壊する。硝子が割れるような音を立てて崩壊した魔力壁に向かって、ランティスが気合いの声を上げながら突進していくのを、フィラは中途半端に銃を構えたまま呆然と見つめていた。
「まずい、罠だ……!」
 ティナが焦った声を上げ、思わずといった様子でフィラの肩に爪を立てる。
「え……」
 魔女の唇が妙にゆっくりと笑みを刻んだ。呼吸を忘れて目を見開く。指先が冷たく痺れていく。
 しかし次の瞬間、魔女の笑みは横からなぎ払うように現れた雷撃にかき消された。魔女が保っていた余裕が少しだけ突き崩される。二方向から斬りかかるジュリアンとランティスに、魔女は水の神器をかざして力を込める。圧倒的な魔力が神器から溢れ出すのが、ほとんど魔術の知識のないフィラにさえ肌感覚で感じられた。ジュリアンの魔力も、それを凌駕するように膨れあがる。
「あれに対抗する気!? 無茶だ! 消滅《ロスト》するぞ!」
 ティナの叫びに肌が粟立った。それでも対抗しなければ待っているのは死だけなのだと、フィラにもわかる。
「団長……!」
 思わず声を上げた瞬間、身体の奥から何かが溢れ出してくるような感じがした。魔竜石から魔力を引き出すときに似た、けれどそれよりもはるかに強い感覚。魔術の訓練を受ける前には知覚できなかったそれを、今は不思議なほどはっきりと感じられている。自分では制御できない魔力がどう働こうとしているのか、今ならわかる。
 ――転移させられる。
 とっさに銃を構え直した。
 目に映る風景が切り替わる。肩に乗っていたティナの重みが消える。目の前に斜め後ろの背中を見せた魔女の姿が現れる。
 その手の上にあるのは、水の神器。
 それを知覚した瞬間、周囲に存在するもの全てがモノクロの背景と化した。
 さっきの天魔より的は近い。そして生き物じゃない。
 そう思うだけで、すっと冷静になれた。まるで自分のものではないみたいに、自然と身体が動く。狙いをつける。引き金を引く。迷うことなく、続けざまに、四回。
 一発目は神器をかすめ、二発目が命中し、三発目と四発目が虚空を切った。金属質の音を立てて、神器が弾き飛ばされる。素早くカイが走り寄って拾い上げるのが、振り向く魔女の肩越しに見えた。
「おのれ……」
 魔女は憎悪に満ちた目をフィラに向け、こちらに手を伸ばす。まだ、全てがスローモーションで動いているようだった。魔女の手がゆっくりと伸びてくるのに、逃げ出したいと思っているのに、動けない。
 ――逃げられない。
 そう思った。
 思わず目を閉じたフィラの身体を、誰かが横からかっ攫う。酷くゆっくりだった時の流れが、急激に加速した。
「作戦成功! 退却、退却〜!」
 はしゃぐような声が聞こえる。薄目を開けて見ると、リサが陽気に叫びながら水蒸気の煙幕をまき散らしていた。視界の端で色素の薄い金髪が揺れる。そこでようやく、フィラは自分がジュリアンの肩に荷物のように担がれていることを認識できた。ものすごいスピードで周囲の景色が流れる。すぐ後ろからランティスとリサ、最後にカイがついてくる。残弾ゼロの拳銃から手が離せないまま、フィラは腕だけでジュリアンの肩にしがみついていた。

 作戦通り玄関広間へ移動し終わったところで、ようやくフィラは地面に降ろされた。
「カイ、水の神器の魔力を封じろ」
「はっ」
「リサとランティスは魔力の調整。次の戦闘が本番だ、準備を整えろ。十分程度は時間があるはずだ」
「了解」
「了解〜」
 そのままへたり込んでしまったフィラには見向きもせず、ジュリアンは矢継ぎ早に騎士たちへ指示を飛ばす。退却の際、どうやら先頭を走っていたらしいティナが寄ってきて、慰めるように手の甲に身体をすりつけてきた。
「フィラ」
 一通り指示を終えたところで、ようやくジュリアンがフィラを見る。
「は、はい」
 絶対零度の視線を向けられて、フィラは縮こまった。静かだけれど激しい怒りに満ちた瞳が怖い。しかし、怒られて当然のことをしてしまったのだということもわかっていた。
「お前は一体何を考えている? ここにいる全員がお前を守るために戦っているとわかっていないのか?」
 酷く静かな声だったけれど、その声にも怒りが隠しようもなく滲んでいる。心の底から激怒している。こんなに怒っているジュリアンを見るのは初めてだった。
 転移の魔術をフィラが自分で制御することは出来ないが、でも初めてあんなに鮮明に発動する瞬間や魔力の流れが知覚できたのだから、もしかしたら抵抗することも出来たのかもしれないと今になって思っている。どちらにしろ、聖騎士たちが何よりも守りたがっていた光の巫女の力を危険にさらしてしまったことには変わりない。
 怒られて当然だ。本当に。
「おーい、ジュリアーン」
 謝ろうと口を開きかけたのを遮るように、リサが軽い調子で呼びかけてきた。
「旦那様ぁ? さっそく夫婦喧嘩ですかー?」
 完全にからかっている口調で話の腰を折られて、ジュリアンの表情がさらに険しくなる。無言で睨まれたリサは、まったく臆することなく肩をすくめた。焼き尽くすような怒りを含みながらも酷く冷たい視線がリサの方に逸れて、フィラはほっと息をつく。
「ていうか、冷静になりなよ。あの力、別にフィラちゃんが自分で使えるわけじゃないでしょ?」
「……何が言いたい」
 訝しげに眉根を寄せるジュリアンに、リサは人を食ったような笑みを向けた。
「いやあ、覚えがあるんだよね、あの無茶あのタイミング。わかってるでしょ? リタはもういない。つまり光の巫女の魔力を動かしているものがあるとしたら、それは残留思念みたいなもの。生前のリタの意志や経験に基づいて動く魔術的なプログラムって言い換えてもいい。特殊な状況において、似たような状況をリタが経験したことがあったとしたら、そのときにリタが取った行動に基づいて魔術が発動する可能性は高い。ここまで合ってるよね?」
「……ああ」
 リサの話を聞きながら、ジュリアンの纏っていた怒りのオーラがゆっくりと引いていく。
「さっきのあれさ。似たような状況が前にもあったわけ。リタの護衛してるときにね。あの時リタが叩き込んだのは鉛玉じゃなくて回し蹴りだったけど」
「……リタはいつもそうだったのか?」
 そう呟いた声にはもう怒りの気配はなく、ただ純粋に呆れ返っているように見えた。
「ま、おーむね?」
 リサは軽く苦笑しながらまた肩をすくめる。
「だからとっさに対応出来たんだと思うんだよね。私とカイ君」
「だよなあ。俺驚きすぎて反応遅れたからな」
 自分の剣に向かって何か魔術を施しながら、ランティスが大げさにため息をついた。
「つーことで、夫婦喧嘩は後で後で」
 リサはひらひらと手を振りながらランティスの方へ行き、魔術を手伝い始める。
「……夫婦喧嘩……?」
 ジュリアンが不満そうに呟くが、さすがにこの雰囲気の中で「まだ結婚してないですよね」と正論を吐く勇気はフィラにもなかった。
 ジュリアンはため息をつきながらフィラを見下ろす。
「それ、もうしまってくれ」
「え……?」
 それが何だか一瞬わからなくて戸惑ったが、ジュリアンの視線を辿って拳銃のことだと気がついた。
「あっ、はい」
「次は使わせるようなことはしない」
 ジュリアンの声と表情に苦い後悔が滲んで、フィラも胸が苦しくなる。結果的には上手くいったけれど、危ない状況に陥ってしまったのは事実だし、ものすごく心配をかけてしまったのも確かだ。とにかく言われたことに従おうと銃を握る手を開こうとして、フィラは困惑した。
「……あれ?」
 指が固まってしまったように動かない。力は入れているはずなのに。強く握りしめすぎたのだろうか。自分のものではないみたいに、力を込めても指はぴくりとも動かない。
 ジュリアンはその様子を見てまた一つため息をつき、フィラの前に跪いた。静かに手を重ねられて、鼓動が跳ねる。
「一度強く握って、それからゆっくりと放せ」
 言われたとおりに手を握りしめ、ジュリアンがゆっくりと指を引くのに従って手を開く。固まっていた指は、今度はすんなりと開いた。
「あ、ありがとう、ございます」
「いや……」
 半ば呆然としながらどうにか言葉を絞り出したフィラから、ジュリアンは不自然に目を逸らして立ち上がる。
「……まったく。早く制御出来るようになってもらわないとこちらの心臓が持たないな」
 疲れた表情のジュリアンに、緊張した面持ちのカイが駆け寄った。
「団長、すみません」
「どうした?」
 問い返すジュリアンの方にも、一気に緊張感が戻っていく。
「封印が上手くいかないんです。どうしてもカルマとのつながりを断ち切れない。まるで……カルマと契約を終えているかのようです」
「なんだって!?」
 素っ頓狂な声を上げたのはランティスだ。
「ちょっと待ってよ、どういうことそれ?」
 リサもランティスを手伝う手を止めてこちらへやって来た。
「神と契約できるのは現界の生き物だけだ。荒神が神と契約するなんて……」
 フィラの肩に飛び乗ったティナが呆然と呟く。
「カルマに人としての性質も備わってるってことか?」
「うっそ、それマジでシャレになってないんだけど」
 ランティスとリサが目を見合わせる間に、フィラは拳銃をホルスターにしまって立ち上がった。
「いや、思い当たる節はある。厄介だな。断ち切るためには竜素で遮断するしかない。しかし……」
 ジュリアンは難しい表情で考え込むが、声の調子が落ち着いていたせいか聖騎士三人の動揺も少し収まったようだった。フィラはただ黙って見ていることしか出来ないけれど、かなり危機的な状況であることは騎士たちの様子を見ているだけでもわかる。
「団服……で、足りるわけないよね」
 ティナがぼそりと呟いた。
「当然だ。竜に呑み込んでもらうくらいじゃないと安心は出来ねえな」
 ランティスは感情を押し殺したように答えるが、表情には隠しようもない焦燥が伺える。
「竜に呑み込んでもらうとしたら……リーヴェ・ルーヴは遠すぎるし、ダスト起こして暴走させるわけにはいかないし、もう一個の選択肢はどう考えても却下でしょ?」
 リサの表情からも、いつもの余裕が消えていた。
「せっかくこっちにあるのに結局神器の力を持ったあのアレとまた戦わなきゃいけないってこと? 正直勝てる気しないんだけど」
「リサ!」
 決定的な弱音を吐いたリサの名を、カイが叩き付けるように呼ぶ。
「仕方ないけどさ……!」
「勝機があるとすれば、リーヴェ・ルーヴに呑み込んでもらうことだけなのは事実だ」
 冷徹に宣告するジュリアンに、全員が息を詰めた。
「しかし、リーヴェ・ルーヴに届けるにしても……誰が……」
 救いを求めるように、カイがジュリアンを見つめる。
「誰が行くにしても、神器持って結界出た時点でバレるだろ。そうなったら各個撃破されんのは目に見えてる」
「いっそ全員で逃げてみる?」
 半ばやけっぱちの調子でリサが言うと、ジュリアンは静かに首を横に振った。
「それでも無理だろう。リーヴェ・ルーヴを先に殺される」
 冷静な声で否定しながら、ジュリアンも必死で打開策を考えているはずだ。焦りも苛立ちも見えないけれど、本当に感じていないのか隠しているだけなのか、フィラにはわからない。
「打つ手なしじゃん!」
 リサは大げさに天井を仰ぎ、次いではっとフィラの肩に乗ったままのティナに向き直る。
「あ、そうだ、ティナちゃんこれくらいの重さなら運べたりしない?」
「無理に決まってるでしょ。僕の魔力が小さいことくらいわかってるよね?」
 ティナはにべもなく言い放ちながら、フィラのことをちらりと見た。
「まあ、そのくらいの質量ならフィラは運べるかもね。リラの力が使えればだけど」
「しかし、彼女はまだ力を制御できていないのでしょう。意図的に転移の魔術を発動することは不可能なはず」
 カイが悔しげに首を振る。
「あーもう! 本当に打つ手なしじゃん!」
 リサも頭をかきむしった。その会話を聞きながら、ジュリアンは思案に沈んでいる。
 ――リラの力を使えれば。
 ティナの言葉を胸の内で繰り返した。胸に手を当てて、探り出そうとする。さっき転移したとき感じた、魔力の源を。