第五話 闇の竜と魔女

 5-3 ラン 〜The demigod of the Paradise〜

 今なら使えるかもしれない。触れることが、できるかもしれない。魔竜石を使って魔術を発動させたときのように。集中して、自分の中の魔力を探る。
 思った通り、魔力の源はさっき感じた場所にあって、触れればすぐにでも使えそうだった。
 それでも躊躇ってしまう。
 出来るだろうか。自分に。まだ一度も満足に魔術を使ったことがないのに。さっき心配をかけてしまったばかりなのに、また同じことをしようなんて無茶にもほどがある。
 握りしめた指先が、緊張に冷たくなる。
 ――でも、他に手段がないのなら。
 結局、賭けてみるかどうかの判断はジュリアンに委ねるしかない。
 胸の前で両手を握りしめ、大きく深呼吸した。
 覚悟を決める。後は決断を仰ぐだけ。
「団長」
 一歩前へ進み出て、真っ直ぐジュリアンを見上げた。ティナが肩の上でぎょっと身を強張らせる。
「私、届けられると思うんです」
「フィラ!」
 ティナに咎めるように名を呼ばれたが、フィラはジュリアンから視線を逸らさなかった。ジュリアンも静かな瞳でじっとフィラを見つめ返す。心の奥まで見通すような視線を臆さず受け止めようと、フィラは全身に力を入れた。
「さっきの転移でどこに『触れ』れば良いのかわかりました。だから」
「しかし、カルマに気づかれたらお嬢ちゃん一人じゃどうにもならねえだろ」
 ランティスがフィラに向かって言った言葉に、ジュリアンの表情が一瞬だけ歪んだ。まるで痛みを押し殺すように。
「一瞬で城を覆う結界の外に出られれば気付かれない可能性はある」
 表情を消したジュリアンが告げたのは、間違いなく賛同の言葉だ。覚悟は決めていたはずなのに、いざ賛成するようなことを言われると一気に緊張が高まってくる。フィラは小さく息を詰めた。
「お前……!」
 フィラ以上の驚愕に目を見開いてジュリアンに向き直るランティスに、ジュリアンが静かな瞳を向ける。そこには先ほど見せた苦渋の影は見当たらなかった。
「さっきも言ったが、勝機があるとすれば、神器をリーヴェ・ルーヴに呑み込んでもらうことだけだ。代案があるなら出してくれ」
 息を呑むランティスの向こうで、リサとカイが目を見合わせている。無言のまま互いの意思を確認し合った二人は、同時に頷いた。
「他の案は思いつきません」
「全員で死を待つよりはマシじゃない?」
 それぞれに賛成の意を表する二人に、ランティスは困惑の視線を向ける。
「でもよ、水の神器を持っていくんだったら、それがここにないことはすぐわかっちまう。そうなったらカルマは結界の外だろうと探すに決まってる」
「そうだな。ティナ、水の神器の魔力波形パターンは模倣出来るか?」
 ジュリアンは落ち着いた声と視線をフィラの肩の上に向けた。それまで呆けたようにじっとしていたティナは、迷いを振り払うように首を振って姿勢を正す。
「出来なくはないけど、僕の魔力は小さすぎる。契約者でもないのにそれを増幅するなんて……」
 そこではっと何かに気付いて、ティナは毛を逆立てた。
「まさか、お前と契約しろって言うのか!?」
「俺はここで死ぬわけにはいかない。手段を選んでいられないんだ。お前にも……他に案があるなら聞くが」
 肩の上に乗せているフィラには、ティナが迷うように身じろぎするのが直接伝わってきた。迷った末に、ティナは小さく舌打ちする。
「わかったよ。背に腹はかえられない」
 ジュリアンは返事を聞くと同時に歩み寄り、ティナの額に手を当てた。ティナの全身を虹色の幾何学模様が駆け抜けて、消える。どうやらそれだけで『契約』は完了したようだった。
「ティナ、フィラが転移すると同時に魔力波形パターンを変更してくれ。魔力波の増幅に関する制御は俺がやる」
「了解」
 ティナはフィラの肩からジュリアンの肩に飛び移りながら答える。
「カイ、カルマが広間に入ると同時に結界を展開し、封じ込めてもらう必要がある。準備をしておいてくれ。私たちの相手をしながら結界を破ってフィラを追うことは不可能だし、水の神器が遠ければ本来の力も発揮出来ないはずだ。勝機はある」
「了解」
 振り返って指示を出し始めたジュリアンの背中を見つめながら、フィラは呆然としそうな自分を叱咤して必死でこの状況についていこうとしていた。ジュリアンは決断してくれたのだから、もうフィラは自分のやるべきことをやるしかない。ぼんやりしている場合じゃない。
 指示を受けたカイが神器をジュリアンに渡し、結界構築のために剣を構えて集中し始める。
「ランティスとリサは迅速に攻撃を開始しろ。俺もすぐに参戦する」
「了解」
「了解」
 ランティスももう、反論しようとはしなかった。ジュリアンの決断に命を預けると、彼らは最初から決めていたのだろう。その重さを考えるだけで息苦しくなる。そして、今からフィラもその一部を背負わなくてはならない。それは酷く恐ろしいことだった。膝が震えそうになる。
(……だめだ。しっかりしなくちゃ)
 どうにか緊張をほぐそうと、深呼吸して震えを追い払った。
「団長、広間の結界を突破されました。もうすぐ来ます」
 カイが魔術に集中したまま、端的に報告する。
「わかった。間に合いそうだな」
 ジュリアンは頷いてからフィラに向き直り、こんな状況にはそぐわないほどの穏やかな微笑を浮かべた。
「もう少しカルマを引き付けてから転移魔術を発動させたい。ゆっくり魔力を解放してくれ。魔術の制御と転移先の指定は俺が引き受けるから、お前はただリラの魔力を引き出すだけで良い。出来るな?」
「はい」
 明らかに安心させようとしているのがわかる笑みを向けられながら、実際に安心してしまっている自分を感じる。だからこそ、考えずにはいられなかった。
 いつもこうしてきたのだろうか。ユリンの外の、敵意に満ちあふれた世界で。不安や痛みを感じないはずはないのに、それを一人で抱え込んで。礼拝堂や塔の上で見せた弱さも、確かに彼のものなのに。
「研究所跡地まで直接転移するのはお前の魔力容量では不可能だ」
 ジュリアンの声に我に返る。今は余計なことを考えている場合じゃない。心を落ち着けて耳を傾ける。
「転移先は城の地下大空洞を指定する。空洞にある足場は研究所跡地の地下まで繋がっている。通路に出たら真っ直ぐ前に走れ。突き当たりの扉がリーヴェの寝床に直結している。こちらの状況は恐らくわかっているはずだ。後は神器を呑み込めと頼むだけで良い」
「わかりました」
 息苦しさを堪えながら、何とかそう答えた。
「ティナ、準備は良いか?」
「いつでも行けるよ」
 肩の上のティナと横目で視線を交わしたジュリアンは、フィラに水の神器を差し出す。片手で握り込めるほどの小さな水晶玉。受け取ったフィラはそれを強く握りしめる。
「よし。始めてくれ」
「はい」
 胸の前に両手を重ね、瞳を閉じて自分の中にあるリラの魔力を探した。見つけた魔力の源に恐る恐る触れる。どうしたらゆっくりと引き出せるのかわからないから、とにかく慎重に。やがてじわりと何かが溢れ出すような感覚が現れた。ジュリアンが両手をフィラの肩に乗せる。触れられたところから流れ込んでくる魔力が、リラの力を探している。フィラが魔力の源から引き出した力を、ジュリアンの魔力は包み込み、正しい流れへ導いていく。
「何があっても責任は俺にある」
 思っていたよりも近くで声がして、はっと目を開いた。至近距離にある真剣な瞳を見つめ返しながら、言われたことの意味をようやく理解する。
「そんなことない。私も……!」
 ここにいる皆の命を背負っていくのだとわかっている。ジュリアンにだけ全ての責任を押しつけるなんて、出来るわけがない。
 そう思ってとっさに口をついた言葉に、ジュリアンは穏やかに微笑した。先ほどの、わざとらしく思えるほど完璧な微笑ではなく、どこかほっとしたような、呆れたような、隙のある笑顔だった。
「行ってくれ」
 低いささやきと共に魔術が発動する。視界が切り替わる。ジュリアンの姿とぬくもりが消える。
 代わりに目の前に現れたのは、一昨日初めて見た城の地下に広がる大空洞だ。広大な空間に一本だけかけられた、構造用丸パイプの骨組みに鉄板の踏み板を敷いただけの、頼りない足場の上にフィラはいる。真っ直ぐに続く足場の先は闇に消えていた。両側には巨大な魔竜石が一定の間隔を置いて並んでいて、魔竜石の表面を覆う幾何学模様を駆け抜ける虹色の光が大空洞の闇を少しだけ薄めているおかげで、足下の視界はどうにか確保されている。
 真っ直ぐ前へ走れ。そうジュリアンは言っていた。
 フィラは右手に握った神器の感触を確かめ、走り出す。焦りと緊張でもつれそうな足を叱咤して、ただ前へ進むことだけを考える。
 しばらく走ったところで、さっきティナと二人がかりで撃ち殺したのと同じコウモリ型の天魔が数匹近寄ってきた。天魔はフィラの行方を邪魔するように体当たりを仕掛けてくるが、無視して走り続けることしか出来ない。片手はふさがっているし、拳銃は弾切れだし、何より相手にしている時間が惜しい。
 左手で襲ってくる天魔を振り払いながら進む。少しずつ数が増えてきている。フィラの腕に取り憑いて噛みつこうとした天魔が、ばちりという電気的な音と共に耳障りな悲鳴を上げて離れた。右手の甲が少しだけ熱くなる。三日前にジュリアンが付与してくれた守護の魔術だと思い当たる。何か異変があったときに魔力を平常に保ちつつ異常をジュリアンに知らせる程度の魔術だと言っていたけれど、さっき転移する前に何か変更してくれたのかもしれない。
 自分は守られてばかりだ。ジュリアンにも、聖騎士たちにも。たとえそれがフィラの中にある光の神の力を守るためだとしても。それでも今は、フィラにしか出来ないことがある。だから立ち止まるわけにはいかない。
 青白い雷光に邪魔されながら、それでも何匹かの天魔はフィラの手や顔に引っかき傷をつけていった。左腕で顔を庇うけれど、だんだん前を見ることすらつらくなってくる。ひときわ大きな天魔が飛びかかってきて、バランスを崩した。どうにか手すりにつかまって体勢を立て直す。その間に追いついてきた無数の天魔が行く手を阻む。
 それでも天魔をかきわけて前へ進もうとするフィラの頬に、ふっと柔らかな風が吹き付けた。
 天魔の攻撃が止む。腕を下ろして周囲を見ると、柔らかいと思った風はフィラを取り巻くような暴風になって周囲の天魔を吹き散らしていた。
 風はフィラの背を押すように、導くように、道の先へと流れていく。顔を上げて通路の先を見たフィラは、細い足場を駆けていく少女の後ろ姿に気付いた。
 まったく日焼けのない白い肌。薄茶色の瞳。地下で育った植物を思わせる、透き通りそうな儚さを持った少女。フィラが着ている団服と似た白い布地で作られた、膝丈までの長さがある長袖の服には、襟や袖に金属が使われているようだった。膝まで覆う服と同じ素材の靴も白い。少女自身の色素の薄さと相俟って、まるでこの世のものではないみたいだった。
(ウィンドさん……?)
 見た目は全然違うのに、なぜかその名が心の中に浮かんだ。フィラを導くように、少女は先に立って走っていく。走っているはずなのに、まるで空中を滑るように重さを感じさせない。人ではないのだろうか。
 不思議に思いながらも、彼女を追うように走り出す。正体も何もわからないけれど、助けてくれたのだということだけはわかる。
 少女がふっとこちらを振り向いた。薄茶色のやはり色素の薄い瞳がフィラを捕らえる。
 ――ごめんなさい――
 どこか悲愁を秘めた瞳が、そう語った気がした。
(どうして?)
 この少女をフィラは知らない。なのになぜ少女が泣きそうな表情でこちらを見るのかわからない。忘れているのだろうか。失った記憶の中で、会ったことがあるのだろうか。
 考える間にも足は勝手に研究所跡地を目指す。
「あなたは、誰――!?」
 走りながら、叫ぶように尋ねていた。どうして助けてくれたのか知りたかった。
 ――私は――
 竜と話したときのように、直接心に響く『声』が言う。少女の足はもうほとんど動いていない。それなのに姿だけが遠ざかっていく。
 ――私の名は、ラン――
 行く先に壁が見える。足場はその壁に開いた扉へ続いている。
 ――私は、世界を滅ぼした者――
 扉に触れる直前でかき消すようにランの姿が消えた。直後に開いた扉の中へ、フィラは全力疾走の勢いのまま走り込む。中は円筒形の広間になっていた。中央にはエレベーターを兼ねた柱がそびえ立ち、その柱に巻き付くように幅の広い螺旋階段が上へ伸びている。
 その柱と螺旋階段をさらに取り巻くように、漆黒の闇の竜は巨体を丸めていた。