第五話 闇の竜と魔女

 5-6 レイ家の事情

 ユリンの町明かりが消えているせいで、いつもよりもさらに星が綺麗だ。ちょうど半分になった月もくっきりとその輪郭を夜空に浮かび上がらせている。偽物だなんて信じられないくらい壮大な夜空が、草原の上に広がっていた。車のエンジン音以外何も聞こえない。
「少し、寄り道しても良いか」
「は、はい!」
 助手席の窓からぼんやりと外を眺めていたフィラは、声をかけられてはっと姿勢を正す。ジュリアンは黙ってハンドルを右に切り、城へ向かう道から大地の果てへと続く脇道へ入った。明かりの灯った城が視界から消えてしまうと、漆黒の大地と満天の星空だけが車を取り巻く全てになってしまう。世界中から取り残されたような気分になって、思わず隣のジュリアンを見上げた。いつも通りの冷静な横顔を瞬き二つ分見つめて、膝の上で丸くなっているティナに視線を落とす。耳の後ろを撫でてやると、ティナは気持ちよさそうにぐるぐると喉を鳴らした。
 静かだ。静音性の高い車のエンジン音とティナが喉を鳴らす音と、時折吹き過ぎる風の音。通奏低音のような単調な音だけが響き続ける。嵐のような数日間の後で、この静けさは何だかとても不思議な感じがする。穏やかな静けさの中で、隣にジュリアンがいるのも。
 領主と領民、研究者と研究対象、保護者と被保護者。それだけだったはずの関係に、今は婚約者という場違いな関係が加わっている。危機的な状況が過ぎ去ってしまった今、その現実とどう向き合えば良いのかよくわからなかった。
 これから、どうなっていくんだろう。もう戻れないユリンでの日常に変わるものが何なのか、全然見当がつかない。不安、なわけではないと思うのだけれど、どこかふわふわとした覚束ない感じがする。
 そんなことを考えながらティナを撫でているうちに、車は大地の果てに辿り着いていた。
「しばらく時間がかかる。降りていても良いが、あまり離れないでいてくれ」
 エンジンを切り、シートベルトを外しながらジュリアンが言う。
「あ、はい。わかりました」
 ジュリアンが一人で降りて行ってしまった後で、フィラも少し考えてから車を降りた。車のライトも消えているから、辺りを照らすのは月と星の淡い光だけだ。車のすぐ側に立ったまま、腕に抱えたティナと一緒に満天の星空を見上げる。
「綺麗だね……」
「うん」
 ふと視線を地上に戻すと、一人で崖っぷちまで歩いて行ったジュリアンがレーファレスを呼び出すのが見えた。しばらくその刀身を見つめていたジュリアンは、やがておもむろに地面に剣を突き立ててこちらへ戻ってくる。
「団長、何を……?」
 その行動の意味がわからなくて、迎えるフィラは目を瞬かせた。
「気持ちの整理を付けたいんだそうだ」
「レーファレスが?」
 ティナがうさんくさそうに崖っぷちに突き刺さった剣を見る。
「ああ」
「あいつにそんな複雑な感情あるの?」
「俺にはよくわからないが、前の持ち主の感情を引き継いでいる面もあるんだろう」
 答えながら、ジュリアンは車の腹に寄りかかった。フィラも真似するようにその隣に並んで背中を車体に預ける。
「そっか。あんまりヒューマナイズされてない神なら契約者の影響を受けやすいのかもね」
 ティナが無理矢理自分を納得させるように呟いて、それきり沈黙が舞い降りた。ジュリアンはどこかぼんやりとした瞳でレーファレスを見つめている。
「今後のことだが」
 長い沈黙の後で、ジュリアンがぽつりと声を落とした。
「中央省庁区から増援が到着し、結界の補修と結界内の安全確保が完了するまではユリンの住民を戻すことはできないし、俺も動きが取れない。お前にはしばらく城で暮らしてもらうことになる。行動を制限することになって申し訳ないが、必ず聖騎士の誰かと行動を共にしてくれ」
「は、はい」
 カルマの脅威が去ってもやっぱり物々しい感じなのかとフィラはちょっと怯む。
「人手不足だからな。こちらの動きに合わせてもらうことになるが」
「いえ、それは……もちろんです」
 ものすごく多忙そうな聖騎士たちにフィラの動きに合わせてもらおうなんて思えるわけがない。それに城の中で何をして過ごせば良いのか、そこがそもそもわからないのだ。
「あの、もし何か手伝えることがあったら……」
 言いかけた瞬間、ジュリアンの表情がものすごく微妙な感じに歪んだ。
「お前……光の巫女に雑用を頼むのにどれだけ勇気が必要だと思って……」
「えっ? ゆ、勇気……?」
 思いがけないことを言われてフィラは目を見開く。
「リラ教会において、光の巫女は信仰の対象そのものだ。俺は立場から言えばその下の下に過ぎない」
「そう言われても……」
 ジュリアンより自分の方が立場が上だなんて、まったく現実味がない。
「まあ、人手不足は間違いないから手伝ってもらえるなら助かるんだが」
「……結構ファジーなんだね……」
 あっさり前言を翻したジュリアンにティナが半眼を送る。
「私は、出来ることがあるならしたい、です」
 何もすることがないと、いろいろ余計なことを考えてしまいそうだ。非日常を手放したくない気持ちが背中を押した。
「ああ……指示はその都度出す」
「よろしくお願いします」
「しばらくはユリンにとどまるってことだね。中央省庁区にはいつ移動するの?」
 もぞもぞとフィラの肩の上によじ登りながら、ティナが尋ねる。
「光王庁の判断にもよるが、落ち着き次第だな。中央省庁区では、俺の実家に預けることになると思う」
「団長の……?」
 思わずジュリアンの横顔を見上げると、ティナの耳の先が頬に当たった。どうやらティナも一緒になってジュリアンを見上げているみたいだ。
「ああ。現状では聖騎士団よりもレイ家の方が力が大きい。俺の婚約者として迎え入れてもらうことで、レイ家にお前の後ろ盾になってもらう」
 淡々と語るジュリアンの声からは、家族に対する感情は読み取れなかった。
「終わったみたいだな」
 何か聞こうとする前に、ジュリアンはふっとレーファレスの方へ視線を投げて車から体を離す。
「レイ家の本家か……なんかすごそう」
 ティナがぼそりと呟いた。

「風呂だー!」
 日付が変わる頃、城に戻った二人と一匹を出迎えたのは、リサの機嫌の良い叫び声だった。
「よっ、団長! 遅かったね! 城内の天魔は一掃したよ〜!」
 玄関ホールの端から端まで駆け抜けながら、リサは上機嫌に手を振る。
「結界も城を守る分は補修終わって、今お風呂直したとこ」
 神域との交錯の後、厨房やお手洗いはすぐに使えていたけれど、浴場は閉鎖されていた。どうも優先順位の問題で修理を後回しにされていたようだ。
「いやぁ、三日ぶりの風呂ですよ。もう待ち遠しくって。あ、フィラちゃんも一緒行く?」
 軽く誘われて、フィラは目を瞬かせた。確かに寝る前に汗を流してしまいたい、とは思う。しかし、今はそういう状況なのだろうか。判断できなくてジュリアンをちらりと見上げると、行ってこいと言うように頷かれた。
「あの、それじゃ、ご一緒します」
「おっけ。じゃ、部屋に寄って着替え持ってこよっか。団服は私のと一緒に補修クリーニング出しちゃうから」
「ちょっと待て。ティナを借りたいんだが」
 歩き出そうとした二人を、ジュリアンが呼び止める。
「な、なんでだよ」
 フィラの肩に乗ったままついていく気だったティナは身を引きながら毛を逆立てた。
「猫の手も借りたい状況なんだ」
 真顔で言っているが、もしかして冗談なのだろうか。真剣に悩むフィラの肩から、ジュリアンはティナを抱き上げる。
「猫扱いするな!」
「してない」
「しただろ! たった今!」
 暴れる子猫をジュリアンが抱いている姿はものすごくシュールだ。どう反応したら良いのかわからずに固まるフィラの手を、リサが容赦なく引っ張った。
「さ、行こうか〜」
「あ、あれ、放って置いて良いんでしょうか?」
「いんじゃない? 仲良さそうで結構なことじゃないの」
 わーわー文句を言うティナと、それを適当に流しているジュリアンの声を背中に聞きながら、フィラはリサに引っ張られて玄関広間を後にした。

 城内には人の気配がほとんどなかった。今起こすと時差ボケするから最低限の人数しか目覚めさせなかったのだと道々リサが説明してくれた。
 結局一晩しか使わなかった部屋に戻り、フィアが踊る小豚亭から持ってきた着替えとタオルを用意して浴場へ向かう。相変わらず上機嫌なリサと共に渡り廊下を通り、鍵付きロッカーの並んだ脱衣所で団服を脱ぎ、ほとんどリサに引っ張られるようにして浴場に突入した。
「いーい湯っだっなー」
 一通り汗を流して湯船に浸かったところで、リサが満足そうに節を付けて歌った。ものすごく音痴だったのでどんなメロディかはわからなかったが、気持ちよさそうな気配は十全に伝わってくる。
「団長のご家族って、どんな方なんですか?」
 しばらく腰を落ち着けそうな気配のリサに、隣に並んだフィラは控えめに尋ねかけてみた。
「ん? あー、そうか。結婚相手だもんね。気になるよね」
「はい……」
 結婚相手、という単語にものすごい違和感を覚えながらも、フィラはどうにか頷く。
「とりあえず兄弟姉妹はリタだけね」
 フィラのためらいに気付いているのかいないのか、リサはあっさりした口調で話し始めた。
「両親はねー、すっごいよ。お父さんはレイ家の当主でリラ教会の重鎮で、あ、リラ教会って光王の下に五人の神祇官《じんぎかん》ってのがいるんだけどさ。ジュリアンもその一人だけど、お父さんもなんだよね。だから仕事では結構話してると思うなー」
 ジュリアンが自分は光の巫女の下の下だと言っていたことを思い出す。今の話からすると、光の巫女の下は光王でその下がジュリアンだ。
(めちゃくちゃ偉い人じゃないですか……!)
 自分のことは棚に上げて心の中で突っ込みを入れた。その間にもリサの話は続く。
「私にとっては直接の上司じゃないからあんま話したことはないけど、見た感じすごいデキる男って感じ。冷徹〜な感じなんだよね。壊滅しかかってた聖騎士団を救うためにジュリアンが奔走してたときも簡単には手貸してくれなかったらしいしさ」
 気楽な調子で話しているが、リサがジュリアンの父親を怖い人だと思っていることは何となく伝わってきた。
「あ、でも顔は良いよ。シュッとしたロマンスグレーって感じ。ちょっと学者っぽいかな?」
「団長、お父さん似なんですか?」
 学者っぽいイメージはジュリアンにも少しある気がして、フィラは小首を傾げる。しかしリサは首を横に振った。
「いやー、あれは母親似。お父さんは何か年齢重ねて格好良くなった感じだけど、あいつまだ若造じゃん?」
「は、はあ……」
 肯定も否定もしようがなくてフィラは口ごもる。年齢が若いことは確かだけれど。
「お母さんはね、マジ超美人なんだよね。元女優で歌手っていうね。天然であれだけ美人はなかなかいないよホント。四十越えてるけど本気で二十代に見えるから。しかも、歌も上手いし魔力もスゴイ。まあ、リタが光の巫女に選ばれた後のごたごたで旦那さんがぶち切れていろいろ引退させちゃったから、今は主婦なんだけど」
 つまり、ジュリアンやリタの容姿と魔力は母親譲りということなのだろう。
「私は遠くから見たことあるとかテレビで見たことあるとかそんくらいなんだけど、優しそうだったな〜」
「セレスティーヌさん、ていうんですよね」
 何故か自分自身に言い聞かせるようだったジュリアンの声を思い出しながら、その名を口にする。
「うん。て、あれ? 誰から聞いたの?」
「あ、さっき……団長から」
 答えると、リサは訝しげに眉根を寄せた。
「……どんな話の流れで?」
「え、ええと……」
 どんな、と聞かれると困ってしまう。何故ジュリアンがあんなことを言い出したのかフィラにはよくわからなかったし、魔女がジュリアンに呼びかけたときの聖騎士たちの反応を思い出すとその話題自体出しにくかった。
「いや、言いづらいんだったら良いけど」
「すみません……ちょっと、上手く、説明できなくて」
 言葉を選ぶのを諦めて、フィラはため息をつく。
「ううん。全然。でもしかし意外だな〜。あいつ、私やカイ君とだってプライベートの話とかほとんどしないのに」
「プライベート、なんですかね……」
「なんじゃない? まあ、あいつプライベートなんてほとんどなさそうだけど。ああいうのどうかと思うよホント」
 リサは心底呆れた様子で肩をすくめた。
「そうですね。何だか……逃げ場がなさそうですよね」
 だからたまにぷつっと緊張が切れて弱みが出てしまうんじゃないだろうか。常にどこか張り詰めた空気を纏っているジュリアンのことを思い出すと、またため息が出そうだった。
「だよね! 私だったら何かヤなことあったらカイ君とかランティスとか僧兵の誰かとか連れてラーメンでも食いに行っちゃうけどさー、あいつそういうのなさそうなんだもん。あるとしたら煙草? あいつ未だに隠れて吸ってるよね?」
「え、いや、禁煙するって言ってました、けど」
「え、いつ!?」
 喫煙していることを知っているなら禁煙したことも言って良いのかと思ったが、リサの反応は思った以上に大げさだ。
「えっと……三日前の夜……かな」
 もうずいぶん前のことのような気がするのに、改めて日付を数えるとたった三日前のことで不思議な気分になる。
「へえ……」
 浴槽の湯を両手ですくい上げるリサの声が、感慨深そうに低く響いた。
「あのさ、フィラちゃん」
「はい?」
 改まった調子で向き直られて、フィラは目を瞬かせる。
「あいつのこと、どう思ってる?」
「どうって……」
「好き?」
 鼓動が一つ、跳ねた。
「は……はい?」
 何か好意がバレるような発言をしてしまっただろうかと、フィラは必死で考える。
「じゃあ……嫌い?」
 迷っている間に繰り出された次の質問は、フィラの懸念を打ち消すものだった。
「い、いや、嫌いではないです」
「そっか。そりゃ良かった」
 リサはほっとしたように肩まで湯に浸かり、また浮上する。
「いやー、めでたいね。浮いた噂一つないうちの団長にもついに春が来たか〜」
 浮き上がった声で爆弾発言をかまされて、フィラの思考は凍りついた。