第五話 闇の竜と魔女

 5-7 まどろみの底

「い、いや、リサさん、そういう意味じゃなく……! そ、それに浮いた噂がないって、ダストさんがいるじゃないですか!」
 うっかり触れて欲しくないところに話題が戻ってきてしまって、フィラは慌てて話の方向転換を図った。リサの発言からすると、きっと好意がバレた、とかそういうことではないのだと思う。今ならまだ誤魔化せる。と思いたい。
「えー、あれ浮いてないよ。どっちかってと気が重くなる話だよ」
「気が……重くなる……?」
 一気に低くなったリサのテンションに驚いて思わず顔を覗き込む。リサは不満そうに頬を膨らませていた。
「だってほら、ダストあれじゃん? 竜でしょ? 戦略兵器なわけよ。んで、暴走したら止められるのはジュリアンだけだから、まあ、ジュリアンを保険にして戦線投入したいお偉方もいるわけ。でも二人が恋人同士だったらいざってときに止められないかもしれないって不安が出るから、それで無茶な戦線投入が抑えられるってのがあってさ」
 無意味に水面を指先で弾きながら、リサは苛立ちを隠そうともせずに話し続ける。
「浮いてないよまったく。だいたいダストが好きなのってルーチェだけだと思うし。ルーチェがいなくなる前は男になりそうだったし」
「男に、なりそう……?」
 言葉の意味がわからなくて、フィラは呆然と復唱した。
「そ。ダストってもとは竜だから。竜って性別ないってこたないけど生殖しないからあんまり関係ないしさ。人間の姿になるときも前は少女だったり少年だったり安定しなかったんだよね」
 不機嫌なリサの声に、どこか苦しげな響きが混じる。
「安定したのは四年前。ルーチェがいなくなったとき」
 ふいに思い出した。ルーチェはカイが言っていた名前だ。フィラのことを知っていた可能性がある、もう一人の人。
「ルーチェってのは私とカイ君の前にリタの護衛してた聖騎士ね。ダストの教育係でもあり、当代随一の結界師でもあったんだけど、四年前に行方不明になっちゃってさ。ダストと二人でまあ、とある任務についてたんだけど、戻ってきたのダストだけだったんだ」
 リサの手が何かをすくい上げようとするように湯の中を彷徨う。
「ダストは、戻ってきたときにはもうあの姿だった。ルーチェそっくりの」
 水の中に何かを睨み付けるようにしながら、リサは低く呟き、そして短く息を吐いた。
「ま、中身が全然違ったから誰も間違えなかったんだけど。女言葉が板についてきたのもここ一、二年の話だしね」
 リサはすぐに元の調子を取り戻したけれど、垣間見えた複雑な感情にフィラは言葉を返すことが出来ない。
「今でもぶち切れたら元の口調に戻りそう。とか思ってつい喧嘩売っちゃったりするんだけど」
 不穏な台詞を吐きながら、リサの表情は妙に苦しげだ。
「今のダストさんは……ルーチェさんにそっくり、なんですか?」
「いーや全然。ダストは怖いおねーさんだけど、ルーチェは優しいおねーさんだったもん」
 リサは不機嫌に頬を膨らまして言い、突然両手で水面を叩いた。
「あいつホント馬鹿!」
 思わず身を引いたフィラに、リサはきっとした視線を向ける。
「つーわけだから。まあ、ジュリアンてどっちかってとオススメできる男じゃないし、好きになれとかあんまり無責任なこと言えないけど。でもさ、そのまま嫌いにならないでいてやってよ」
「は、はい」
 話のつながりはよくわからなかったが、リサの勢いにそう答えるしかなかった。
「いやー、フィラちゃん良い子だね〜」
 リサはにこにこ笑いながらフィラの頭を撫でる。大人しくされるがままになりながら、フィラは困惑していた。ダストの話はどう判断したら良いのかわからないし、そもそも聞いて良かったのかと思うのでとりあえず脇に置いておくとして。どうやらリサにジュリアンへの好意がバレてしまった、というわけではないらしい。
 気持ちを誰かに打ち明けたいとはどうしても思えなかった。わかってしまったときのジュリアンの反応が、きっと良いものではないだろうと予想できるから、なおさら。疎まれるのも罪悪感を抱かれるのも御免だけれど、それ以外の反応は余り想像できない。相手が誰であったとしても、たぶんジュリアンの中で恋愛の優先度は不要に近いくらい低いだろう。だからきっと、黙っているのが一番だ。少なくとも、ジュリアンが光の巫女の力を必要としているうちは側にいなくてはいけないのだから。その間は黙っていて、側にいられなくなったら忘れてしまえば良い。時間はかかるかもしれないけれど。
 いつまで、とは、正直あまり考えたくなかった。なぜなら、最終的にユリンに戻したいと言ったジュリアンの台詞には、「不幸にする」と「未亡人にする」という最悪な前提条件がついていたのだから。
 思い出してしまったフィラは、なんだかものすごく誰かを罵りたい気分になった。

 もちろん、忙しそうな本人を目の前にすれば罵りたい気持ちは消えてしまうわけだ。「寝る前には迎えに来るからちょっと待ってて」と言い残して消えてしまったリサを恨めしく思いつつ、フィラは団長執務室のソファで小さくなっていた。
 ティナの姿は見えない。先ほど一瞬戻ってきたのだが、ジュリアンと何やら魔力を媒介にしてやりとりした後またすぐいなくなってしまったから、会話も交わしていない。
 ジュリアンは部屋の隅に設置された直径三十センチほどの黒色の球体から伸びたケーブルと積層モニターに囲まれて何か作業をしている。一番大きなモニターに表示されているのはユリンの全体図で、ユリンを広く取り囲むように引かれたライン上にはいくつものエラーが表示されていた。ジュリアンが何か作業をするたびにそのエラー表示が一つずつ消えているから、きっとこれは結界の修復作業をしているのだろう。
 エラー表示がまた一つ消える。フィラが来た時にはぱっと数えられないくらいあったエラーは、これでもう残り十数個ほどだ。
『東二地区、排除完了』
 表示されたモニターの一つからダストの声がする。
「ご苦労。戻ってくるか?」
 端末を操作する手は休めることなく、ジュリアンは淡々と問いかけた。
『いえ、まだ動けるわ。起きたばかりだし。夜明けまでにDランク以上の天魔は掃討しておく。それでとりあえず僧兵も外に出せるでしょう?』
「ああ。無理のない範囲で頼む」
『了解。貴方に言われたくないけどね』
 どこか笑いを含んだ声と共に通信が途切れる。ジュリアンはそれにむっとした様子もなく、淡々と作業を続けた。東二地区、と書かれた辺りに集中していたエラー表示が一気に消えていく。
 エラーが一通り消えたところでティナがジュリアンの手元に現れた。
「調整終わったよ」
「ああ、助かった」
 簡潔に報告するティナの頭をジュリアンはごく自然な仕草で撫で、ティナはそれを猫パンチではねのける。
「再起動はレーファレスを使用する。その後、お前は結界に穴がないか点検を頼む。ルートは任せる」
「……良いよ。本当、人使い荒いよね」
 ジュリアンの表情に一瞬お前人じゃないだろ的な感情が浮かんだ気がしたが、何かに懲りたのかすぐに彼は無表情を取り繕った。
 ジュリアンが最後のエラーを消して魔術を使うためだろう集中に入ってしまったのを見て、ティナはフィラのところへやって来る。
「お疲れさま」
 膝に上ってすり寄ってきたティナの背を撫でてやると、ティナはごろんと横になった。
「まったく。ひどい一日だったね」
 そうまとめられてみると確かにそうだ。魔女との戦闘がつい数時間前だなんて信じられないけれど、全部たった一日で起こったことなのだ。その時間が濃密すぎて、今は時が引き延ばされているような妙に間延びした感じがする。そう思いながらティナの顎の下を撫でていた。ティナは気持ちよさそうに目を細めてごろごろと喉を鳴らす。
「ティナ」
 魔術を使い終わったらしいジュリアンに名を呼ばれて、ティナはめんどくさそうに身体を起こした。
「くつろいでいるところ悪いが、行ってもらえるか」
「はいはい」
 いかにも嫌そうに返事をしたティナはフィラを見上げて小首を傾げる。
「じゃあ、行ってくるよ」
「うん。行ってらっしゃい。気をつけて」
「みゃー」
 何故か猫の鳴き声で返事をしたティナは実体化を解く前にジュリアンの執務机に飛び乗った。
「君、いい加減魔力調律した方が良いよ。酷使しすぎ」
 言うだけ言って姿を消したティナに、ジュリアンは長く深いため息をつく。
「……確かに、疲れたな……」
 深くため息をつきながら背もたれに体重を預けるジュリアンを、フィラは思わず凝視してしまった。浮かび上がっていた積層モニターが次々に消えていくけれど、ジュリアンは動こうとしない。確かに神域との交錯からしっかりと身体を休める暇もなく連戦だったのだから、疲れているのは間違いないだろうけれど、ここまではっきりと疲労を表に出すのもちょっと意外な感じだ。
「大丈夫……ですか?」
 思わず問いかけてしまった。顔色はものすごく悪いし、動きも何だか鈍い。見るからに大丈夫ではなさそうだ。ジュリアンはどこかぼんやりした瞳でフィラを見て、ゆっくりと立ち上がった。そのまま執務机を回りこんでこちらに歩いてくる。気怠い仕草でジュリアンが隣に座っても、その姿から目を逸らすことが出来なかった。
「悪いが……」
 やはり気怠そうに手袋を外しながら、ジュリアンは言う。
「調律、頼んでも良いか」
「調律……」
「竜化症の応急処置と同じ手順で良い」
 ジュリアンの表情を見て冗談じゃなさそうだと判断したフィラは、フィアから預かりっぱなしだった魔竜石のペンダントを右手で握りしめ、もう片方の手をジュリアンが差し出した手に重ねた。フィアとの訓練の成果で、魔術はすぐに発動出来る。聞こえてきた音は不快なノイズにまみれていて一瞬怯んだが、気を取り直して瞳を閉じ、一つずつ音を合わせていく。音程の狂った金属音はまだ直しやすかったが、ノイズを消すのはやり方を理解するまでにかなり試行錯誤しなければならなかった。かなり時間がかかってしまったと思うのだが、ジュリアンは黙ったまま身じろぎ一つしない。
 後は細かい揺らぎを調整するだけ、というところまで来た時、フィラはふいに肩に重さを感じた。感触からして考えられる可能性は一つだけだったけれど、目を開けて確かめずにはいられない。
 恐る恐る開いた目に飛び込んできたのは予想通りの光景だった。でも、だからといって衝撃が薄まるわけではない。
(ね、寝てる――!?)
 叫ばなかった自分を誉めてあげたくなる。フィラの肩に頭をもたせかけて、ジュリアンは目を閉じていた。無防備な寝顔はいつもより幼く見えて、つい二年前まではこの人も十代だったのだと急に実感が湧いてくる。
(いやいやいや、そうじゃない、そうじゃなくて! どうしよう……)
 調律を続けるべきか、起こすべきか。がちんごちんに固まったまま必死で考えを巡らせるフィラの前で、執務室の扉が開いた。
「やっほージュリア……ごめんなさい」
 ノックもなしにドアを開いたリサは、こちらを見た瞬間に真顔になってそのままのスピードでまたドアを閉じる。手を繋いだまま寝ているジュリアンを見てリサがどんな誤解をしたのかは推して知るべしだ。
「リサさん待って……!」
 思わず呼びかけた声に反応したのは、リサではなくてジュリアンだった。ぼんやりと瞳を開き、顔を上げる。
「すまない……寝てたのか」
 身体を起こしたジュリアンは、眩しそうに瞬きしながらかすれた声で呟いた。
「いや、あの、良いんですけど、リサさんが……」
「ああ」
 おろおろと扉とジュリアンを見比べるフィラを見て、ジュリアンはどうやらだいたいの状況を把握したらしかった。
「リサ、入って良いぞ」
 寝起きの不機嫌な顔で扉を睨み付けながら、ジュリアンは低く宣言する。躊躇うような沈黙の後で、しずしずと扉が開いた。
「えーと、お邪魔じゃない?」
 顔を覗かせたリサが、明らかに笑いを堪えている表情で尋ねてくる。しかし真っ赤になって動揺するフィラとは対照的に、ジュリアンの方は落ち着いたものだった。
「ああ。結界の再起動は終わったので、明日は一日討伐になるだろう」
「へーい。覚悟しとくわ」
 手袋を取って立ち上がるジュリアンを、何故かリサはかわいそうなものを見るような目で見ている。
「フィラ、ジェフ・ダレルはまだ起きていないから、明日の朝食の準備は頼む」
「はい。わかりました」
 少しだけ覚束ない足取りで扉へ向かう背中に、フィラは慌てて頷いた。
「俺は寝る。おやすみ」
「お、おやすみなさい」
「うん、寝た方が良いね、確実に」
 すれ違いに出て行くジュリアンに、リサは生ぬるい笑みを浮かべている。そのままジュリアンは控え室も抜けて出て行ってしまった。取り残された女二人は、何とも言えない視線を交わし合う。
「いやー、悪いね。うちの団長が。いつもはあんなじゃないんだけど」
 それはわかる。それだけ疲れていたということなのだろう、たぶん。
「いえ……」
 困惑しながら立ち上がったフィラの肩を、リサは親しげにぽんと叩いた。
「嫌いにならないであげてね」
「な、なりませんよ」
 リサが一体どういう方向性に誤解しているのかわからなくなりながら、フィラは首を横に振った。
「それは良かった」
 リサは満足そうに笑って頷く。
「私の部屋にベッドもう一台入れたからさ。今日は一緒に寝よ」
 上機嫌なリサに背中を押されて、フィラは執務室を後にした。

 その後リサの部屋で眠りに就こうとしていたところに戻ってきたティナは、
「あいつ死んだように寝てるから報告は明日にする。問題なかったし」
 と言ってフィラの隣で丸くなったのだった。