第六話 町を出る日

 6-2 リサの記憶

「いやしかし、まったく信じられないよね」
 食器を食堂に戻してきたモニカが席に着きながら呟いた。
「光の巫女の力が行方不明ってのは知ってましたけど」
 エセルも端末を立ち上げながら頷く。
「私はこのような嘘はつきませんよ」
 対するフェイルはいつも通りの笑顔だ。
「わかってます。実感ないけど疑ってはないです」
 エセルが眼鏡の縁を押し上げながら言うと、モニカもうんうんと頷いた。
「ていうかうちらこんな情報知ってて大丈夫かね。いつか消されそう」
「大事な子飼いの部下を消させたりはいたしませんよ」
「わー、フェイルさん頼もしいー」
 にこやかに告げるフェイルにモニカが拍手を送る。
「四年前に事務官もずいぶん引き抜かれてしまいましたからね。あなた方に頑張ってもらわなければどうしようもないんですよ。ですから、あなた方が下手を打たない限りは私が守ります。下手を打たない限りはね」
「わー……フェイルさん頼もしいー……」
 にこやかにどす黒いオーラを振りまくフェイルに、エセルが引きつった笑顔を向けた。
「さあ、午後もばりばり働きますよ。明日の朝には報告書の原稿ができあがっているはずです。そうなったら内容のチェックと添付資料の作成に追われますから、今日中に出来ることはやっておかないと」
「いえっさー!」
 二回手を叩いて場の空気を変えたフェイルに、二人の僧兵は元気よく返事をする。
 そうやって午後の仕事は始まった。

 午前中と同じ作業をひたすら繰り返し、指示されたファイルの処理を全部終えた頃には夕方になっていた。
「いやあ、助かりましたよ。比較的単純な作業なんですが、扱っているデータの機密性が高いのでカイ君辺りを付けないといけないかと思ってたんです」
 終了報告を受けたフェイルは、嬉しそうに微笑む。
「では、私はデータを確認いたしますので、フィラさんはリサさんが迎えに来るまでゆっくりしていてください」
「あ、紅茶飲む? 淹れるよ」
 立ち上がりかけたモニカにフィラは慌てて両手を振った。
「紅茶なら私が。モニカさんはお仕事を続けてください」
「え、いいの? じゃあ、お願いしちゃおっかな」
 事務室の隅の給湯コーナーで四人分の紅茶を淹れる。全員の前にティーカップを置いたところで、自然と休憩タイムに突入した。
「明日は報告書ですよね。徹夜覚悟しといた方が良いですか?」
 紅茶を一口飲んでため息をついたエセルが、不安そうにフェイルを見る。
「大丈夫です。今回の報告書作成者は団長ですから」
「やったー! 早く帰れる!」
「だからといって、気を緩めないように。団長も人間です。今までミスがなかったからといってこれからもないとは限りません」
 両手を上げて喜ぶモニカに、フェイルはすかさず釘を刺した。
「はーい、了解でーす」
「もちろんです、その辺は心得ています」
 二人は調子よく返事してまたゆったりと紅茶を味わう。
「しかし団長、討伐から帰ってきてから報告書作成かー」
 モニカがカップの中を見つめながら感慨深そうに呟いた。
「あの人いつ寝てるんだろ」
「坊ちゃまは昔から余りお身体が丈夫ではございませんから、無理はして欲しくないのですが、こればかりは団長にしか出来ない仕事ですからね」
「出たー。フェイルさんの坊ちゃま呼び」
「それ絶対嫌がられてそうですよね」
 冷やかすような二人の言葉に、フェイルは苦笑を浮かべる。
「そうでございますね。坊ちゃまも結婚されますし、そろそろ旦那様とお呼びしなければなりませんかね」
 その様子を眺めながら、フィラはこの三人はしっかりした信頼関係で結ばれているのだなと何だか羨ましく思っていた。
 ジュリアンが恐れられながらも嫌われていないのは、フェイルを通した信頼感があるからなのかもしれない。それにしても身体が丈夫じゃないって、大丈夫なのだろうか。さっき話した限りでは昨夜ほどの憔悴した感じはなかったけれど、無理してそうで心配だ。もちろん、フィラが心配したところで何が出来るわけでもないのだけれど。
 そんなことを考えながら、ゆっくりと紅茶を味わう。
 皆のティーカップが半分ほど空になったところで、事務室の扉がノックされた。
「お疲れー」
 開いた扉から顔を出したのはリサだ。
「お、リサさんお疲れー」
「お菓子食べてく? 新発売のチョコ取り寄せたんだけど」
「食べる食べるー」
 僧兵二人に誘われて、リサはいそいそと空いている席に着く。
「討伐どうだったんですか?」
「ん、順調順調。夜の間にダストが大物はほとんど仕留めといてくれたし、今日はジュリアンも出てたからねー」
 エセルが差し出した小箱から個包装のチョコレートをつまみながら、リサは機嫌良く話し始めた。
「明日はランティスとカイ君と私で僧兵の……戦闘訓練終わってる子たち連れて行く予定。ジュリアンは内勤」
「ああ……報告書の修正とか、機密情報専用回線の修理とか」
「団長にそういう技術的なことまでやらせるのってどうなんだろ」
 エセルとモニカもチョコレートをつまみながら世間話に花を咲かせる。
「いやー、人がいないからねー。あいつしか出来る奴いないし。ルーチェがいれば結界関係は任せられたんだけどさー」
「恐ろしいほど人材不足ですよね」
「ルーチェを数に入れても聖騎士団の欠員十名だしね。僧兵も初年兵ばっかだし。良い人探してきてよお二人さーん」
「探してます。常に。全力で」
 拳を握って主張するエセルを眺めながら、そういえば聖騎士って何人いるんだろうとフィラはぼんやり考えた。
「あ、フィラちゃんも食べる?」
 モニカが小箱をこちらに押しやりながら小首を傾げる。
「ありがとうございます。聖騎士団って、全部で何人いらっしゃるんですか?」
 チョコレートを受け取るついでに感じていた疑問もぶつけてみる。
「今は十五人ですね」
 フェイルが即答した。
「団長はジュリアンで、副団長はカイ君で、参謀がフェイルで、第一戦闘部隊の指揮官がランティスでしょ。第一戦闘部隊の中の前衛部隊が私とジクストゥスとフラウ。ジクストゥスとフラウは今光王親衛隊にくっついて前線に派遣中だからユリンには来たことないんだけど」
 リサは話しながらまたチョコレートの箱に手を伸ばす。
「んで、遊撃部隊がダスト一人で、治療部隊はフィアちゃんとシリイだね。シリイも今は前線に派遣中。第二護衛部隊はレイヴン・クロウと行方不明のルーチェと前線派遣中のトライの三人ね。第三特殊任務部隊のメンバーは二人いるけど詳細は秘密」
「軽く説明するとー」
 モニカがきらりと眼鏡を輝かせながらフィラを見た。
「第一戦闘部隊はその名の通り戦闘関係を得意としている部隊ね。天魔の掃討とか、荒神の襲撃への対処とかが主な仕事。前衛部隊が主戦力で、遊撃部隊は陽動とか撤退時に殿《しんがり》務めたりとか一番危険な任務に就くことになってるんだ。治療部隊は名前通り。第二護衛部隊は要人護衛が主な任務だけど、最近は光王親衛隊にお株を奪われてるから第一戦闘部隊の援護ばっかり。第三特殊任務部隊の任務は秘密。お察しください」
「ちなみに第一戦闘部隊はレギオン、前衛部隊はデュランダル、遊撃部隊はアズラエル、治療部隊はメングラッド、第二護衛部隊はイージス、第三特殊任務部隊はレイリスって呼ばれることが多いんですよ。めっちゃ文化も宗教もバラバラのとこから引っ張ってきてるけど」
 エセルも何故か嬉々として説明してくれる。
「レギオンがローマ軍団でデュランダルがどっかの聖剣の名前だっけ。アズラエルはイスラム教の天使だよね」
「メングラッドは北欧神話でしたっけ?」
「あ、私その辺全然わかんない」
 話を振られたリサはあっさりと肩をすくめた。どうやら興味がないらしい。
「イージスはギリシャ神話だった気がする。レイリスはグロス・ディア語だよね。何だっけ、でかい猫みたいな姿の神様だったかな?」
「見事に由来がバラバラなんですね……」
「まあ、昔の人が悪ノリでつけたあだ名がそのまま残っただけでしょう。さて、皆さん」
 延々と続きそうな雑談を、フェイルは手を叩いて打ち切った。
「そろそろ夕食の時間です。夕食は食堂でいただきましょうか」

 何だかものすごく久しぶりに会った気がするジェフに挨拶をして、フェイルとリサとエセルとモニカに囲まれて夕食を取った。
 夕食後、また仕事に戻る三人と別れてリサと入浴し、リサの部屋に戻るために廊下を歩く。
 フィラは落ち着かない気持ちでリサの後を追いかけていた。シリイはプラネタリウム育ちだから星に詳しいとかトライの飼っているペットロボットはお馬鹿で可愛いとか機嫌良く話していたリサが、ふいに黙り込んでしまったからだ。黙ったまま歩き続けるリサの雰囲気はいつもと違って、少し怖い。
「ずっと考えてたんだけど」
 妙に平坦な声で、リサはぼそりと呟いた。
「君、誰だっけ?」
「え……?」
 思いがけないことを言われて、フィラの思考は凍りつく。投げかけられたリサの冷たい視線に、背筋をぞくぞくとした恐怖が駆け抜けた。
「つーか、どこだここ」
 立ち止まって周囲を不審そうに見回すリサの表情からはいつもの人を食ったような笑みが消えている。ぬくもりを感じさせない無表情が痛々しく思えて、フィラは息を呑んだ。
「あー……忘れてるのか、私」
 何でもないことのように呟いて、リサはぱっと笑顔を作る。いつものリサの笑顔に近かったけれど、急激な変化と作ったようなわざとらしさが――やっぱり、怖かった。
「ごっめーん。ちょっと思い出せなくて判断できないからさ、一緒に来てくれる?」
「ど、どこに!?」
「わかんなーい」
 適当な方向に歩き出そうとするリサの袖をフィラは必死で捕まえる。
「わかんないって……あ、だ、団長! 団長の所に行きましょう!」
 他にこの状況をどうにかしてくれそうな人がとっさに思いつかなかった。
「ん? 場所わかるの?」
「はい……たぶん」
 全然地理を把握できていないリサを引き摺って、フィラは団長執務室に向かう。場所を覚えていて本当に良かったと思った。

 決死の覚悟で団長執務室の扉をノックすると、中から冷静な声が「入れ」と言ってくれた。それだけで一気に肩の力が抜ける。扉を開けて中に入ると、ジュリアンは執務机に座ったまま不審そうにこちらを見ていた。
「団長、あの、リサさんが……その、記憶……」
「あ、ジュリアン」
 しどろもどろに説明し始めようとしたフィラの横をすり抜けて、リサがジュリアンの前に立つ。
「この子誰だかわかんないけどあんたの守護魔術がついてたから連れてきちゃった。で、団長どこ? 聞きたいことがあるんだけど」
 飄々と尋ねるリサはいつも通りに見えるけれど、言っていることは滅茶苦茶だ。注意して見なければわからないほどの動揺を、ジュリアンは一瞬で押し殺した。
「記憶チップの読み込み方法なら、お前の腕時計に組み込まれているはずだ」
「お、そうなんだ」
 リサは左の袖をめくって珍しい物を見るようにしげしげと腕時計を眺める。
「わかったらさっさと記憶を取り戻してこい。あと、リフレッシュの間隔も調整するように」
「りふれっす?」
「……記憶を取り戻せばわかる。さっさと行け。お前の部屋はここから出て左に五つ目の扉だ」
 両腕を組んでリサを見上げながら、ジュリアンは不機嫌そうに顎で示した。
「その子は? 何者? 連れてきちゃって大丈夫だった?」
 入り口で立ち止まったままのフィラに振り向いて、リサが首を傾げる。
「フィラは俺の婚約者だ。気にせず行って良い」
「え、何その話。超面白そう」
 余計なところに食いつかれて、ジュリアンの眉間の皺はますます深まった。
「それも記憶を取り戻せばわかる。いいから行け」
「はいはーい」
 これ以上粘ったら怒らせると踏んだのか、リサはあっさり身を引く。
「んじゃまたねー」
 すれ違いざまにフィラの肩を軽く叩いて、リサは出て行ってしまった。その背中が扉の向こうに消えるまで見送ってから、恐る恐るジュリアンに向き直る。喉がからからに渇いていて言葉が出てこない。それでも、聞きたいことはあった。
 ――否、確認したいこと、だ。
 リサの記憶喪失は、竜化症の症状なのか。わかりきっていることだ。でも。
 耐えきれずに問いかけようとしたとき、一瞬早くジュリアンが口を開いた。
「何も言うな。こっちも見るな」
「は、はい!」
 慌ててジュリアンに背を向ける。背を向ける寸前に見えてしまった表情が、泣き出す直前みたいだった。わけもなく鼓動が跳ねる。謎の緊張感に身体が固まる。
 迷うような沈黙の後で、ジュリアンのため息が聞こえた。
「リサが戻ってくるまでここで待て」
「……はい」
 ジュリアンの方を見ないようにソファまで移動して、そっと腰を下ろす。
 気付いてしまった。ジュリアンも動揺しているのだと。今彼が必要としているのは、たぶん言葉でも慰めでもなく、時間だ。そう思ったから、フィラは全ての疑問を押し込めて沈黙を守った。
 どれくらいそうしていただろう。身じろぎもせず黙っていたフィラは、身体が強張ってしまったのを感じてそろそろと姿勢を変えようとした。
「遅すぎる」
 ちょうどそのタイミングでジュリアンの低い声が聞こえて、フィラは中途半端なところで動きを止める。
「……嫌な予感がする」
「え……?」
 不穏な呟きに思わずジュリアンを見てしまった。見るなと言われたのを思い出して慌てて目を逸らす視界の端で、ジュリアンが立ち上がったのがわかる。
「フィラ。悪いが、付き合ってもらえるか」
「どこにですか?」
 やっぱり我慢できずに見てしまった。見上げたジュリアンの表情には、何故か焦りが見える。
「……どこでもいい。とにかく、外に出る」
 普段の彼からは考えられない言いように、フィラはたじろいだ。ジュリアンが何を考えているのか、さっぱり理解できない。
「な、なんで急に?」
「逃げる必要がある」
「何から!?」
「カイから」
「えええ!?」
 フィラの目の前まで歩いてきたジュリアンは、妙に焦った様子でフィラの腕を引いた。
「良いから、行くぞ」
 そのまま半ば引き摺られるようにして廊下に出る。ジュリアンは何かを避けるように――話の流れからするとたぶんカイを避けるように、遠回りして車庫へ向かった。フィラは頭の中を疑問符でいっぱいにしながら手を引かれるままについていく。
 僧兵たちの宿舎に続く廊下の途中で歯磨きセットを片手に持ったモニカと行き会った。ジュリアンに引っ張られているフィラを認識した途端、モニカは信じられないものを見たという表情で固まる。
「モニカ・チェンバーズ」
 ジュリアンにフルネームで呼ばれたモニカは慌てて姿勢を正した。
「私とフィラ・ラピズラリはこれから少し出かける。カイに会ったら、用があるなら明日聞くと伝えてくれ」
「り、了解」
 唖然としたまま敬礼するモニカからジュリアンが視線を外して歩き出した途端、モニカは心配そうにフィラを見つめてくる。ジュリアンが見ていないのを良いことに「殴る? 殴る?」とジェスチャーで尋ねてくるモニカに、フィラは必死で振り向きながら「しなくていい」と手を横に振った。