第二話 私にできること

 2-1 博物水族館

 ジュリアンがユリンへ戻ってから二週間ほど過ぎた頃、領主の任の引き継ぎの目処が立ったので、六日後にはまた彼が中央省庁区へ戻ってくると、ティナが知らせを持ってきた。
「そろそろ挙式の日程も考えないとね」
 それを聞いたセレスティーヌの言葉に、フィラは頷くことしか出来なかった。ジュリアンの仕事のスケジュールが決まらずに延ばし延ばしになっていた結婚の日が、いよいよ現実味を帯びて迫ってくる。ランベールやエリックも揃った夕食の席で、フィラはいたたまれない気分を味わっていた。
「レイ家の嫡男と、内密とは言え光の巫女との婚姻だ。光王のスケジュールも押さえておかねばなるまい」
「光の巫女の婚姻は秘祭でございます。列席者は光の巫女に関する機密に触れられる立場の人間、ということになりますが、レイ家の結婚であれば列席者が限られることの言い訳は立つでしょう。光王庁と相談の上、決定いたしましょう」
 ランベールとエリックの事務的な会話を聞いていると政略結婚だと思えるのだが、それでもやっぱりいたたまれない気分は抜けていかない。
「ジュリアンのスケジュールはフェイルが調整出来るだろう。光王には私の方から話を通しておく。他の日程調整は任せて良いな」
「もちろんでございます」
 エリックが頷くと、ランベールはいつも通りの感情の読めない表情をセレスティーヌに向けた。
「婚礼の衣装に関しては任せていいか」
「ええ、もちろんよ」
 微笑んで頷いたセレスティーヌは、そのままの笑顔でフィラの顔を覗き込む。
「素敵なドレスを用意しましょうね?」
「は、はい……」
 何かが間違っているような気持ちに苛まれつつも、フィラは頷くことしか出来なかった。

 ジュリアンが婚儀の打ち合わせのためにレイ家を訪れたのは、それから七日後――中央省庁区に戻ってきた翌日の夕方だった。と言っても、日程調整はもうほとんど終わっていたし、光の巫女の結婚式は段取りがしっかり決まっているらしいので、ランベールとジュリアンとエリックが顔を合わせて最終確認をしただけだ。フィラとセレスティーヌも同席はしたけれど、ほとんど話を聞いているだけで終わってしまった。
 年末年始はリラ教会の宗教行事が多く、その前だと準備にかける時間が足りないということで、挙式の日は来年の一月十七日が最有力候補となった。もう二ヶ月余りしかないと思うと、急に逃げ出したいような気分になってくる。
「他にご確認しておきたいことはございますか?」
 応接間に集った一同を見回してエリックが尋ねたが、フィラは何も考えることが出来なかった。
 そのまま半ば呆然としているうちに、いつの間にか話し合いはお茶の時間に移行していく。
「そうだわ、ジュリアン。お願いがあるの」
 小鳥のように可憐な仕草で紅茶を口にしながら、セレスティーヌが微笑んだ。
「何でしょうか」
 問い返してコーヒーを口にするジュリアンからは、もうフィラがここに来たばかりの頃のような緊張は感じられない。ランベールと何を話したのかはわからないけれど、あれを境にジュリアンの心境に何か変化があったことは確かだった。
「時間があるときで良いんだけど、フィラをどこか外出に連れて行ってほしいのよ。ほら、もう一ヶ月以上この家から一歩も出ていないでしょう? そういうの、あんまり良くないんじゃないかと思って」
 思いがけず飛び出した自分の名前に、慌てて辞退しようと顔を上げるフィラを目で制しながら、セレスティーヌは続ける。
「フィラが光の巫女だってことは秘密だから仰々しい護衛はつけられないけれど、あなたの婚約者だってことは秘密ではないのだから、あなたが護衛についていても変に思われることはないでしょう?」
「そうですね」
 あっさり同意したジュリアンにフィラは困惑した。そんなことに割く時間がありそうには見えないのに、大丈夫なのだろうか。
「どこか行きたい場所は?」
 ジュリアンに視線を向けられて、フィラは慌てて止まりかけていた思考を働かせ始める。ジュリアンが承諾している以上、今さら彼のスケジュールを心配する必要はないはずだけれど、ちょっとした外出で終わる場所を考えた方が良いのだろう。
「えっ、えーと……」
 しかしフィラの思考は、あっという間に袋小路に迷い込んでしまう。ここに来てから日々の勉強や生活に慣れることで精一杯で、どこかに行こうなんて考えたこともなかった。
「買い物でも何でも良いのよ」
 セレスティーヌが助け船を出してくれたが、買いたいものも特に思いつかない。必要なものは全部揃えてもらっているし、自分のお金もないのに買い物に行くというのも気が引ける。
「あの、でも、特に欲しいものは……」
「だったら……そうねえ、私とランベールがよく行ってたのは美術館とか博物館とかだけど……」
「そういう方向性で良いのか?」
 セレスティーヌとジュリアンにじっと見つめられたフィラは、思わず気圧されて頷いてしまった。
「いろいろあるけど、どこが良いかしら?」
「この近辺なら光王庁立博物水族館が良いかもしれません。知り合いがいるので、時間外に入れてもらえるかもしれない。明後日の夜なら、私も時間が取れます」
 すかさずジュリアンに向き直ったセレスティーヌに、ジュリアンも淡々と答える。妙に具体的な回答から、ジュリアンが社交辞令で承諾したわけではないことがわかった。
「だったらそれが良いわね。一般見学の時間に突然あなたたちが行ったら騒ぎになってしまうわ」
 セレスティーヌが満足そうに微笑む。フィラが口を挟む間もなく、計画は決められてしまった。
「では、博物水族館の方には私が連絡を入れておきましょう」
 エリックがにこやかに立ち上がり、ランベールも無言で頷く。
「坊ちゃまのお知り合いと申しますと、魔力学部門のアラン・ボウチェク様でございますね」
「……よく知ってるな」
 微かに目を見開くジュリアンに、エリックは満足そうに笑みを深めた。
「フェイルから話は伺っておりますので」

 その後、エリックが博物水族館と連絡を取り、二人が行く日は予定通り翌々日の夜に決まった。
 当日の夕刻、フィラはレイ家の邸まで迎えに来たジュリアンの車にティナと一緒に乗り込む。二、三時間見学した後で夕食を食べてから帰ってくる予定になっていた。
「遠いの?」
 フィラの膝の上で丸くなったティナが問いかけてくる。
「ううん。車だったら二十分もかからないと思うよ」
 先に答えたフィラに、ジュリアンが一瞬意外そうな顔をした。
「調べたのか?」
「いえ、思い出したんです。最近少しずつ記憶が戻ってきていて」
 フィラはティナの背中を撫でながら小さく微笑む。
「と言っても、よく買い物してたお店の風景とか、先生やティナと一緒に旅行をしてたときのこととか……重要じゃないことばっかりで。リタさんのことや魔術の技術みたいな大事なことは全然思い出せないんですけど」
「いや、少しずつでも思い出せているのなら良い傾向だろう」
「そうだと……良いんですけど」
 セレスティーヌも同じことを言ってくれた。魔力制御の訓練も、順調に進んではいる。でも、肝心なことは何も思い出せないし、魔竜石の魔力は制御できるようになってもリラの力は相変わらず応えてはくれない。
(何が足りないんだろう……)
 ここ数日頭を悩ませている問題に、またフィラは沈んでしまった。

「着いたぞ」
 ジュリアンの声ではっと我に返る。いつの間にかどこかの地下駐車場に着いていた。光王庁の地下に似た、どこもかしこも白い空間が広がっている。
「あっ、すみません。ぼんやりしてて……」
 黙り込んだままここまで来てしまったらしい。慌ててシートベルトを外すフィラに、ジュリアンは呆れたような視線を向けた。
「構わないが、あまり悩みすぎるなよ」
「……こいつに言われるなんて重症だね」
「うん……」
 ジュリアンに負けず劣らず呆れたような雰囲気のティナの呟きに、深く考えることなく頷くと、ジュリアンは何か言いたげに眉根を寄せた。しかし口を開きかけた彼は、地上へ上がるエレベーターの方を見て黙り込む。つられるようにそちらを見たフィラは、エレベーターから出てきた人影がすごい勢いで走り寄ってくるのを見て目を瞬かせた。白衣をはためかせながら駆け寄ってくる人物を待つ間に、ティナを肩に乗せたフィラとジュリアンは車を降りる。
 近付いてくるにつれて、白衣の人物はぼさぼさの黒髪に丸い眼鏡をかけたひょろ長い青年だということがわかってきた。年齢は見た目からではよくわからない。ジュリアンと同年代か、三十代に差し掛かっているのか、たぶんそのくらいだろう。ずり落ちそうな眼鏡を指で押さえながら二人の前までやって来た青年は、にこにこと笑いながらジュリアンに手を差し出した。
「やあやあジュリアン、久しぶり久しぶり。五年ぶり? くらいだっけ?」
 青年は人好きのする笑みを浮かべたままジュリアンと握手を交わす。いかにも腹筋のなさそうな細い声だったけれど、人懐こい雰囲気があるせいか近寄りがたい感じはしない。
「元気そうで良かったよ。ろくな噂を聞かないから心配してたんだ。今日来るって聞いて、慌てて夜番替わってもらったんだけど。いやあ、それにしても驚いたなあ。君がランティスより先に結婚するなんて思わなかった。おめでとうおめでとう」
「……ああ」
 心から祝福してくれているらしい青年に、ジュリアンは一瞬表情を曇らせながら頷いた。
「うん、でも良かった。こういうのを喜んで良いのかわからないけど、やっぱり君が人としての幸せを選んでくれたんなら僕としてはそっちの方が嬉しいからね」
 ジュリアンが複雑そうな表情をしているのに気付いて、眼鏡の青年は驚いたように姿勢を正す。
「あれっ? 僕また何か間違ったかな?」
「……いや、大丈夫だ」
 機密を知る立場ではない人間に政略結婚だとは言えないのだろう。ジュリアンは否定も肯定も避けるように顔を上げた。
「それより、紹介しても構わないか?」
「ああ、そうだねそうだね。名乗りもせずに失礼だった」
 白衣の青年はまたずり落ちてきた眼鏡を押し上げながら、フィラに向き直る。
「僕はアラン・ボウチェク。ジュリアンの大学時代の……まあ、飲み仲間? いや、友人で良いのかな? 飲み仲間って言うには僕もジュリアンもお酒あんまり好きじゃなかったしねえ」
「そうだな。ほとんどランティスが一人で飲んでいたからな」
 酒は嫌いだ、と言ったときのジュリアンを思い出して、フィラは笑いを噛み殺した。それに気付いたジュリアンが一瞬むっとしたけれど、アランはそれに気付かずに話し続ける。
「友人って言うには研究と実験の話しかしてなかったけどねえ」
 あははと明るい笑い声を上げたアランは、改めてフィラに向き直った。
「それでええと、君は……?」
「あ、失礼しました。私、フィラ・ラピズラリと言います。よろしくお願いします」
 深々と頭を下げてまた顔を上げると、アランが嬉しそうに微笑みながら手を伸ばしてくる。
「うんうん、ジュリアンのお嫁さんだよね。よろしくよろしく」
 アランは人懐こそうな笑みを浮かべたままフィラの手を取り、親しげに握手した。
「僕はこの博物水族館で、水棲動物や天魔の魔力学的な生態を調べているんだ」
 少し体温の高いごつごつとした手を放して、アランは自己紹介を続ける。
「大学でも魔力生物学を専攻してて、ジュリアンと知り合ったのもその縁なんだよ」
「俺の魔力は特殊だから、調べ甲斐があったと言うことだ」
 横から口を出すジュリアンの口調は、比較的親しい人間に対するときのそれだ。聖騎士団団長としての姿しか見せていない相手ではないということは、アランは本当に友人と呼べるような存在なのだろう。
「そうそう。学生時代はいろいろと実験に協力してもらってたんだ」
 じゃあそろそろ行こうか、とアランが話を切り上げて先を歩き始めたので、フィラとジュリアンもその後に続いてエレベーターに乗り込んだ。
 エレベーターの中は、青い光で満たされていた。立体ホログラムの魚が、天井付近をゆったりと泳いでいる。エレベーター内の積層表示モニターに映し出された館内案内をみる限り、光王庁立博物水族館はものすごく巨大な施設であるらしかった。光王庁の敷地内に付設された教育研究施設の一つなのだが、この建物だけでもユリンの城が一つすっぽり入ってしまいそうだ。中央省庁区では何もかもが巨大なのだと、フィラは変なところで感心する。
「どこから案内しようか? 今日だけで全部回るのは無理だと思うから、一番見たいところから見始めるのが良いと思うよ」
 階数ボタンを押す前に、アランが振り向いて尋ねかけてきた。
「一番見たいところ……」
 案内表示を見つめながら、フィラは思い切り迷う。余りにも広すぎて、地図さえもどこから見たら良いのかよくわからなかった。
「この施設は博物館の部分と水族館の部分に分かれている。面積は似たようなものだが、博物館の方が時間はかかりそうだな。水槽が大きい分、足を止めるポイントは水族館の方が少ないはずだ。博物館を見たいなら、見たい時代と地域も決めた方が良いだろう」
 最初から知っていたのか案内図を見てすぐにそう判断したのか、迷うフィラにジュリアンが助け船を出してくれる。
「そうですね……じゃあ、水族館が見たいです」
「了解」
 アランは微笑むと、「3」と書かれたボタンを押した。

「なんか……思ってたより柔らかいんですね」
 水族館に入ったばかりのところにある「海のいきものをさわってみようコーナー」に早速引っかかってしまったフィラを、ジュリアンは少し離れた場所から見守っていた。閉館後の水族館は薄暗く静まりかえっていて、周囲の水槽から差し込む青い光と相俟って水中にいるような気分になる。水の揺らぎを映してゆらゆらと床の上で形を変える光と、微かな水の音。時折過ぎる魚の影。なぜここが学術施設ではなく行楽地のような扱いを受けているのか疑問だったが、現実を忘れさせる雰囲気にその理由がわかった気がした。
「うんうん、なかなか気持ち良い感触でしょ? 乱暴にするとびっくりしちゃうから、その調子で優しくね」
 すっかり水族館の解説員と化したアランが、水中に手を突っ込んでなまこを触っているフィラの隣で説明している。どこが前か後ろかもわからないような黒光りする塊は、どちらかというと女性には敬遠されそうな見た目なのだが、フィラはまったく遠慮のない手つきで撫でていた。
「この子たち、びっくりするとキュビエ器官っていう白いねばねばの糸を吐くんだ。実は僕、調査中に踏んづけちゃったことがあるんだけど、足にくっついちゃって取るのが結構大変だったんだよ」
 大学時代に散々ランティスに注意されたにもかかわらず、アランは相変わらず女性に対する話題の選び方がわかっていないようだ。まあ、自分もたぶん似たようなものなのだろうが。
「そのなまこは……」
 踏みつけられたなまこの行く末を想像してしまったのか、痛ましそうな表情でフィラが尋ねる。
「ええと、どれかな。あいつかな」
 アランはその表情の変化に気付くことなく、きょろきょろと水槽の中を見回し始めた。
「えっ、この中にいるんですか?」
 フィラが目を丸くしてアランの視線を追いかける。
「そうなんだよ。なまこって再生能力がすごくってね……」
 興味深そうなフィラの態度に、アランの入ってはいけないスイッチが入るのが見えた気がして、ジュリアンは密かにため息をついた。まさかここだけで見学が終わったりしないだろうなと危惧しながら、手近なベンチに腰掛ける。
 それからアランは延々となまこの生態と再生能力について話し始め、五分後くらいにはジュリアンですら半分理解できないほどの専門的な講義に発展していた。それでも何とか喰らいついて楽しそうに話を聞いているフィラは素直にすごいと思う。
 アランが我に返ったのは、それから十五分ほどが経過した頃だった。
「あっ、ごめんねごめんね、退屈だった?」
 しきりに恐縮しながら話を終わらせたアランに、院生時代よりよほど話が短くなったなと感心しながらジュリアンは立ち上がる。
「いえ、面白かったです。よくわからないところもありましたけど、なまこってすごいんですね」
 最初から最後まで興味深そうに話を聞いていたフィラは、心底からアランの話を楽しんでいたようだ。ある意味これも才能だろう。自分なら途中で聞き流し始めるだろうし、フィラの肩で話を聞いていたティナなど、睡眠の必要がない神であるにも関わらず盛大にあくびを連発していたのだから。
「うん、うん、すごいんだよ、生き物はみんな……ああ、でも」
 アランはちらりとジュリアンを見て申し訳なさそうな表情になる。
「もしかしなくても僕、デートの邪魔してるよね?」
「いや。フィラが楽しんでいるなら問題ない」
 そんなことを気にする人間ではなかったはずなのだが、五年間でアランも変わったのだろうか。
「……君、変わったね」
 淡々と答えながら考えていたのと同じことを、アランも考えていたようだった。
 変わった、部分はあるのかもしれない。けれど今アランが変わったと言ったのは、恐らく誤解に基づくものだ。
「彼女が気分転換を出来るように取りはからうのが今日の任務だからな」
 都合の良い誤解のはずなのに、それを解こうとするような言葉を罪悪感が押し出した。
「……君、相変わらずだね」
 丸眼鏡の奥の瞳に呆れた色を滲ませながら、アランはフィラに向き直る。
「どうしたらコレ直るんだろうね、フィラさん」
「これ……って……?」
「この、なんかこう、融通の利かない感じ?」
「カイほどじゃない」
 自分でもそれはどうかと思った言い訳は、あっさりと深いため息に跳ね返された。
「それとは方向性が微妙に違うんだよ。そしてカイ君と比べて良くっても何の慰めにもならないよ。どうしてこうなっちゃったんだろうね?」
「遺伝じゃない?」
 やれやれと肩をすくめたアランに答えたのは、さっきまで退屈そうに水槽を眺めていたティナだ。
「ランベールも似たようなものだよ」
「へえ、そうなんだ」
 頷き合うティナとアランに反論したい気分になりながらフィラを見ると、目が合ったフィラが静かに微笑した。「本当にそうなんですよ」とたしなめられているような気分になる。ジュリアンの気持ちを見透かしたような妙に大人びたその笑顔に、ふと鼓動が早くなった。頬に血が上ったのを感じて、ジュリアンは不自然にフィラから目を逸らす。いったい何が自分をそこまで動揺させたのかわからないまま、ここが薄暗い水族館で助かったと考えていた。