第二話 私にできること

 2-2 楽しいこと

 この水族博物館の目玉でもある大水槽に貼り付いて見惚れているフィラの背後のベンチで、ジュリアンとアランは並んで腰掛けていた。大水槽に辿り着くまでにも、フィラはあちこちで立ち止まってはアランの説明に耳を傾けていたから、もう二時間近く水族館を見ていることになる。
「なんか、良い子で良かったな」
 フィラの背中を眺めながら、アランがしみじみとそう言った。フィラはゆったりと回遊するジンベエザメや、楽しげに遊んでいるようなイルカや、羽ばたくように行き来するマンタや、何種類もの魚の群れを一つ一つ指差しながら、いつもより興奮した様子でティナに話しかけている。
「あの子は知ってるの? 竜化症のこと」
「……ある程度は」
 大事なことは何一つ話していない。話す必要がない。そのはずなのに、改めて考えると苦々しい気分になる。
「あと……何年持つ?」
「長くて五年だな」
 恐る恐る問いかけたアランに、低く答えた。事実ではあるが、それほど持たせるつもりもない。これも嘘になるのだろうか。胸の内にある苦々しさは広がるばかりだ。
「それは話してある?」
「話す必要はない。そうなる前に……」
「別れるんだ。そういうのって、卑怯なんじゃないかな」
 口ごもったジュリアンの後を引き取って辛辣に言い放ったアランは、しかしすぐに意気消沈したように肩を落とした。ねじの緩んだ眼鏡が鼻までずり落ちる。
「……ごめん。それが一番良い方法だとは思えないけど、他の方法も思いつけないのに言えた義理じゃないね」
 でも、と、アランは眼鏡を押し上げて水槽を泳ぐジンベエザメに視線をやった。
「ちゃんと話した方が良いよ。大切な人なんだろう? 誰よりも……」
 フィラが光の巫女だなどと思うはずもないアランは、これが恋愛結婚だと信じて疑わない。何と答えたら良いのかわからなくなって、ジュリアンは巨大な水槽を見上げた。
 人類の叡智を集めて作られた巨大な水槽も、その中を泳ぎ回る魚たちには狭苦しいものなのだろう。それでもここを泳ぐ魚たちは、中途半端に神々の影響を受け、人類のみを敵とみなす天魔にはならずに凶暴化だけしてしまった海の生物からは保護されているのだ。それが幸福だとは思わないが、世界のありようが変わらなければどうすることも出来はしない。
「大切、か……」
 誰よりも大切だと、そんな風に思える存在が、現れる日が来るのだろうか。
 ――来るさ――
 記憶の中で、聖騎士団の団服を身に纏った髭面の男が笑った。
 ――俺が保証してやる――
 自信に満ちたその声と笑顔に、忘れかけていた反発心が頭をもたげる。そんなものは必要ない。そんなものがなくても、大切なものは自分の周囲に数え切れないほど存在している。その全てを守り、幸せにすることなど不可能だけれど、足掻くことくらいは許されるはずだ。自分に課せられた役割を果たす理由など、それだけで充分だ。
 なのにそれだけでは足りないと、記憶の中であの男は笑う。
「君だって、もっと利己的になったって良いと思うんだよ。君ならそれで道を間違えるなんてことはないはずだ。僕はそう信じてる」
 心配そうに呟くアランが、先代団長と同じことを言っていると気付いて、苦い気持ちがさらに深く広がった。

 アランが呼び出しを受けて席を外してしまった後、ジュリアンとフィラは大水槽の前のベンチに座ってぼんやりと泳ぐ魚たちを眺めていた。ひとしきりはしゃぎ終えてしまったフィラは、今は黙って魚の群れを見つめている。彼女の膝の上で丸くなったティナも時折片目を開けて水槽を見るだけで何も言わない。
 静かな水音だけを聞きながら、ジュリアンもぼんやりと光の揺らぎを見つめていた。
 こんな風に世界中から忘れられたような場所で、一人で静かに過ごすのは昔から嫌いではなかった。安らぎと呼べるような感覚を得られるのは、そんなときだけだったから。他の人間が一人でもいればその感覚は消えてなくなると思っていたのだが、どうやらフィラは例外らしい。
「あの……」
 柔らかい声が心地良い静寂を破っても、不快さはなかった。それでも何となくまだ自分の声は聞きたくなくて、視線だけで先を促す。
「お母様に、言われたんですけど……」
 途中まで言いかけたフィラは、不自然に口ごもり、落ち着かない様子で視線を落とした。
「……ええと」
 何をそんなに言いづらそうにしているのかと疑問に思いながら、ジュリアンはフィラを見下ろす。
「あの……呼び方が……」
 困り切ったフィラの顔には、まるで「何と言ったら良いかわからない」と書いてあるかのようだ。
「呼び方?」
「名前で呼んだらって……団長のこと」
「……ああ」
 言われて初めて気付いた自分に驚く。
「そういえば、部下でもないのに何でそんな呼び方をしてるんだ?」
 純粋に疑問に思っただけなのだが、フィラは怯んだように小さく「う」と呻いた。
「……それは、その、あの、り、領主様って呼びづらかったというか……」
「まあ、あの初対面ではそうだろうな」
 精一杯の虚勢を張りながら、ジュリアンのことを信じようとしなかったフィラのことを思い出す。
「あの時は、いろいろと余裕がなかった。悪かったと思っている」
 呆然と顔を上げたフィラが、心配そうにジュリアンを見つめた。謝っただけなのに、頭でも打ったのかみたいな表情をされるのは心外だ。
「リラの力は、もう二度と見つからないんじゃないかと思っていた」
 部下には絶対に言えないような弱音を、懺悔のように口にしていた。
「期待はしないようにしていたが……それでもお前の存在は、俺にとっては希望だった」
 こちらを見つめていたフィラの瞳が見開かれ、次いでその頬がさっと紅くなる。
「は……恥ずかしいこと言いますね」
 視線を泳がせたフィラは、言葉通り恥ずかしそうに俯いた。
「事実だ。どう調べてもリタとの接触の記録は出てこなかったし、魔術の素養もあるはずがなかったから可能性は低いと思っていたが、他にリラの力を引き継いでいそうな人間の候補も、あの頃には方々調べ尽くしていてほとんど残っていなかった」
 認めたくはないが、何もかもを放り捨てたいほど自暴自棄になっていた自覚はある。フィラがあそこにいなかったら、きっとユリンの外の現実から目を逸らしたまま、緩慢な死を待つことを選んでいただろう。その方が幸せな生き方だったのかもしれないが、あの偽物の青空の下で緩やかな絶望を受け入れることなど、耐えられそうになかった。
「……はあ」
 ジュリアンの話が途切れたことに気付いたフィラは、またじっと心配そうな視線を注ぎながら、肯定の返事とも呆れ返ったため息とも取れる調子で息を吐いた。
「そろそろ行くか。これ以上長居すると夕食が遅くなりすぎる」
「あ、そうですね」
 フィラが頷いたのを確認して、ベンチから立ち上がる。
「ああ、それと」
 水族館を出たところにあるエレベーターホールを目指しながら、隣を歩くフィラを見下ろした。
「名前は呼び捨てで良い。確かに婚約者に部下と同じ呼び方をされているのは不自然だ」
「……努力します……」
 消え入りそうな声で答えたフィラに、努力が必要なことだろうかと内心首を傾げる。
 それから車に乗り込んでレストランに着くまで、フィラはジュリアンの名前を頑なに呼ぼうとしなかった。努力すると言った割には。

「このレストラン……」
 石造りの重厚な建物の裏側を見上げながら、ティナが嫌そうな顔をする。一同は車に乗ったまま、光王庁の近くにある高級レストランの裏手に来ていた。
「エステルが『金持ちどもが美味しい料理を不味そうな顔して食いやがって』って言ってたとこだ」
 外壁を照らす暖色の光に、灰色の重厚な石組みが照らし出されている。いかにも入る人を選びそうな、上品でよそよそしい外装だ。
「……ぐうの音も出ないな」
 いかにも『入る人』として選ばれそうなジュリアンが、複雑そうな表情で呟いた。
「僕、散歩行ってて良いかな」
 レストランに入りたくないとばかりに、ティナはフィラの肩から膝へ飛び降りる。
「生きてるサカナには興味あるけど、人間が生き物の死体食べてるとこなんて興味ないんだよね」
 その台詞に二人がたじろいだ一瞬の沈黙を、ティナは肯定だと捉えたらしい。
「じゃ、何かあったら呼んで」
 あっさりとそう言うと、ティナはフィラが開いた扉の隙間から飛び降り、トコトコと歩いて植え込みの中へ消えた。残された二人の間には、いかんともし難い微妙な沈黙が舞い降りる。
「……うちの守護神が食事前に食欲が失せるようなことを言って申し訳ない」
 しばしの沈黙の後で、ジュリアンがぼそりと口を開いた。
「い、いえ、こちらこそ、うちのティナがすみません……?」
 互いにお前はいったい何を言っているんだという表情で見つめ合った後、ジュリアンはため息混じりに視線を逸らした。
「……入るか」
「そ、そうですね」
 そそくさと車を降り、壮麗な建物を見上げる。見るからに高級そうな風情の店に正面から入っていくのは気が引ける、と思っていたら、ジュリアンは当然のような顔をして裏口の方へ歩いて行った。入り口で待ち構えていた支配人に車の鍵を渡し、案内されるままに他の客の目に触れることなく個室に入る。ロココ様式の豪奢な内装に圧倒されながら、フィラは支配人が引いた椅子に小さくなって座った。
 それでも支配人が部屋から出て行ってしまうと、フィラは好奇心に負けて周囲をきょろきょろと見回し始める。壁も扉もマントルピースも家具も、植物や珊瑚や波飛沫を思わせる細かな装飾に彩られていて、とても綺麗で上品さを失わない程度に派手だ。この中で生活すると疲れそうではあるけれど、高級レストランのような非日常の空間で見る分には面白いし興味深い。
「面白いのか?」
 まるで興味なさそうな表情で、行儀悪くテーブルに頬杖をついたジュリアンが尋ねかけてくる。
「あ、すみません。物珍しくて……」
「別に構わない。見たければ立って見に行っても良い。誰か来たら教える」
 淡々と告げられて、そわそわとした気分になった。見たい。確かに近寄ってじっくり見たい。
「えっと……」
 遠慮しようか迷ったけれど、こんな高級料理店に来る機会なんてそうそうないし、という気持ちが勝った。
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
 失礼します、と呟いてフィラは立ち上がった。まずはマントルピースに近寄って、暖炉の装飾を眺める。
「わあ……細かい」
 植物の蔓や葉を思わせる曲線的な彫刻に目を奪われながら、今度はマントルピースの上に並べられた置物や飾り皿を見始めた。そして壁に掛かった宗教画や天井に描かれた天使たちの絵や、凝った意匠のランプや家具を眺めつつ部屋を一周した頃、「そろそろ来るぞ」と声をかけられた。
 慌てて席に戻りながら、ジュリアンにずっと見られていたことに気付く。
「面白かったのか?」
 どこか楽しそうな微笑を向けられて、急に恥ずかしくなってきた。ちょっとはしゃぎすぎたかもしれない。
「はい……すごく」
 しかし今さら否定したところで手遅れだろう。そう思って、正直に頷く。
「そうか。俺もなかなか興味深かった。ここの内装なんて気にしたことなかったからな」
 淡々とした口調と表情からは判断がつかないが、からかわれているのか本気で言われているのか微妙な線だ。反発してみるか迷っているうちに、料理の載ったワゴンを押して数人の給仕が入ってきた。
 テーブルの上に魔法のような素早さでカトラリーと前菜が並べられ、数台のワゴンが壁際に置かれたまままた二人きりにされる。置き去りにされているワゴンを不思議そうに眺めていると、ジュリアンに「食べるぞ」と声をかけられた。
「この後は給仕はいらないと言ってある。好きな順番で取って食べてくれ」
「あ、ありがとうございます」
 こういう場所に慣れていないフィラに気を遣ってくれたのだろう。慌てて頭を下げたフィラから、ジュリアンは何かを誤魔化すように視線を逸らした。
「別に……俺が観察されたくなかっただけだ。給仕なしで悪かったと思っているが」
「いや、あの、逆に落ち着かないので、この方が嬉しいです」
 レイ家でもエリックが給仕役になったりはしない。自由に取って食べる方が、慣れているし気も楽だ。
 頷いたジュリアンが食前の祈りを始めたのに倣って手を合わせ、食事が始まった。
「美味しい……!」
 一口食べたサーモンのムースに、思わず感嘆の声が漏れる。高級料理店の料理なんて口に合わないと思っていたが、その心配はなさそうだった。確かに気取った盛りつけと味付けだけれど、ふわっとした口溶けも上品な味と匂いも間違いなく美味しい。
「本当だ。美味いな」
 何故か意外そうな表情をしているジュリアンに、フィラは思わず食べる手を止めた。
「え……団長、ここ来るの初めてなんですか?」
「いや、よく来るが」
 いかにも馴染みの店っぽい雰囲気を感じたのは、勘違いではなかったらしい。
「えーと……前に来たときから味が変わってるとか、そういう……?」
「さあ」
 じゃあ何でなんだという感情は、きっと如実に表情に出ていたことだろう。
「ここに来て料理を味わう余裕があったことなどなかった」
 水の入ったワイングラスに手を伸ばしながら、ジュリアンは嫌なことを思い出したとでも言いたげに顔をしかめる。
「そうなんですか?」
「ああ。ここに来てやることと言ったら、腹の探り合いとか腹の探り合いとか腹の探り合いとか」
 ずっしりとした実感のこもった言葉だった。目の前に綺麗に盛りつけられた料理を見て、ジュリアンの表情をちらりと見て、また料理に視線をやりながら、フィラは小さく肩を落とす。
「……なんか、もったいないですね」
 ティナが、というか、かつてのピアノの師匠があんなことを言うわけだ。こんなに綺麗で美味しい料理を純粋に楽しめないなんて、本当にもったいない。仕方ないのはわかるけれど。
「まったくだ」
 水を一口飲んでグラスを置いたジュリアンが、うんざりしたように頷く。
「だから何が楽しくて生きてるんだとか言われるんだろうな」
 思わず目を見開く。少なくともフィラは、生きづらそうだとは思ってもそんな風に思ったことはない、気がする。
「でも団長、楽しそうにしてたことありますよ」
「いつの話だ」
「フランシスさんの反証論文を読んでたときと、それに反論する論文を書いてたとき。……あと、人をからかってるとき」
 恨めしそうに最後の一言を付け加えると、ジュリアンは不審げに眉根を寄せた。
「……楽しいって何だ」
「え……? そこからですか?」
「言葉の意味はわかる。だが、どういう感覚を楽しいと表現するのか、俺は今ひとつわかっていない気がする」
 改めて聞かれると答えづらい質問だ。
「う〜ん……そうですね……」
 どこか優雅な仕草で食事を再開したジュリアンにつられるように、考え込みながら食事を続ける。しばらく考え込んだ後で、思いつくままに口を開いた。
「……わくわくするとか、うきうきするとか」
 言ってしまった後でこれはジュリアンと無縁そうだと気付く。わかって貰える気がしない。しかし途中でやめるわけにもいかなくて、フィラは慌てふためいた。
「えっと、えーっと……あっ、そうだ! 終わらせなきゃいけないときにまだ続けたいと思うこととか、もう一回やりたいなって思うこととか、えっと、他には……」
 人が必死に考えながら訴えているというのに、なぜかジュリアンの唇の端に人の悪そうな笑みが浮かび始める。
「何で笑うんですか! 団長!」
「いや……もうわかった」
 笑いを堪えながら目を逸らしてグラスに手を伸ばすジュリアンに、フィラは憤慨した。
「わかったなら止めてくださいよ」
「楽しかったからな」
 言葉通り楽しそうな笑みを浮かべて水を飲むジュリアンの姿に毒気を抜かれて、フィラは諦めのため息をつく。
「それで、お前は楽しかったのか? 今日の外出」
 まだ笑いの残滓のある表情で見つめられて、フィラは若干拗ねた心持ちで頷いた。
「楽しかったです。……おかげさまで」
 かわいげのない言い方になったはずなのに、ジュリアンは笑みを深める。
「名前を呼ぶ努力はやめたのか?」
「あ、明日からです、明日から!」
 やっぱり変なところで意地が悪い。若干ではなく完全に拗ねながら、フィラは前菜の残りに猛然と襲いかかった。