第二話 私にできること

 2-6 別離

 ジュリアンの見舞いを受けてから六日後、年の瀬も押し迫った頃にランティスは退院した。当分リハビリに通わなければならないが、それでも光王庁に戻りたい気持ちが勝ったためだ。退院したその足で、ランティスは光王庁ではなくレイ家の邸に向かう。
 事前に知らせを受けていたエリックが、タクシーで乗り付けたランティスを迎えた。
「いらっしゃいませ、ランティス様。お嬢様がお待ちです」
 促されるままに邸内へ入り、応接室へ案内される。
「ランティスさん」
 紅茶を用意していたフィラが、どこか不安そうな面持ちでランティスを迎えた。
「よ、嬢ちゃん、久しぶり……ってほどでもねえけど」
「いえ……あの、お怪我は」
 心から気遣うような視線を向けられて、これは安心させてやりたくなるなと妙な庇護欲をかき立てられる。
「もうだいたい大丈夫だ。あとは義足に慣れるだけだな。治療部隊《メングラッド》のシリイも治癒魔術の腕は世界トップクラスだから、治療が早くて助かったぜ。まあ、他の大陸とは連絡取れてねえとこも多いから推定だけどよ」
 わざと明るい口調で告げると、フィラは無理矢理そうしたように微笑んで、またすぐに笑顔を消した。
「聖騎士団は引退、するって……」
「ああ。足の方は何とかなるが、魔術の行使が色々と厳しいからな。フェイルのおっさんの補助とか……まあ、事務と研究の方で貢献させてもらおうとは思ってる」
 なんとなく告げることに躊躇いを覚えつつも、隠しておくようなことでもないので正直に話す。
「ジュリアンは、あれから戻ってきたか?」
「あ、はい、一回……クリスマスイブの夜に、泊まっていったので」
 今ではほとんどの家でキリスト教とは関係なく祝われる年末のイベントだが、今年はレイ家でも祝う余裕などなかっただろう。
「それ一回きり?」
「はい。やっぱり、忙しいんですよね……?」
 ジュリアンの話題になった途端、隠そうとはしているけれどフィラの表情がほんの少しだけ沈んだ。それが妙に気になる。
「フェイルのおっさんの話じゃ、ものすげー多忙にしてるらしいな。わざとじゃねえかってくらい。……つーか、わざとだな。わざとに決まってる。あいつ色々抱え込むけど仕事はちゃんと抱え込まずに割り振るからな」
 思わず愚痴っぽくなってしまった。
「わかってたんだけどよ。ああなるから、俺も怪我とかそういうのあんまりしない方が良いって」
 それでもフィラがものすごく真剣な表情で聞いてくれていたので、受け入れられている気がして途中で止めることが出来なくなる。
「聖騎士団に入るって決めたのは俺だし、あいつも頭じゃわかってるはずなんだが……背負い込まずにはいられねえみたいなんだよな。まあ、『団長』なんだからそれで良いのかもしれないが、なんつうか……」
 ランティスは迷うように言葉を呑み込み、代わりに深い深いため息をついた。
「戻ってきたとき、どんな様子だった?」
「え、ええと。ちょっと疲れてるみたいでしたけど、翌朝には普通、だったので……」
 フィラは言いながら気まずそうに視線を彷徨わせる。それで『ちょっと』というのが嘘だろうなと見当がついたものの、ではどんな態度だったのかと聞くのは少し怖かった。
 水の神器輸送任務の後、礼拝堂で二人がどんなやりとりをしていたのかは知らない。ただ、その後――カルマとの戦いの中でジュリアンがフィラに向けていたのは、どこか愛おしいものを見るような、そんな表情だったような気がする。その後もリサやフェイルの下で働く僧兵二人から、ジュリアンがフィラと手を繋いで眠っていただの真夜中にデートに連れ出しただの耳を疑うような話を聞かされたし、最近久しぶりに飲んだアランもジュリアンが婚約者に微笑みかけられて赤面していて笑いを堪えるのが大変だったとか冗談としか思えないことを言っていた。
 この二人の関係がわからない。いや、数々の証言から考えられることは一つなのだが、それがどうしても信じられない。
「俺のことはそのときに聞いたのか?」
 ジュリアンがどこまでこの少女に気を許しているのか知りたくて、尋ねていた。
「いえ、後から……ティナに」
 ジュリアンがティナに口止めしていたのかどうかはよくわからない。存在自体が機密情報であるような彼女に、わざわざ隠すようなことでもないだろうとティナが自分で判断した可能性は否定できなかった。
「ジュリアンからは何も?」
「はい、何も……」
 俯いて肩も落としながら、フィラは頷く。
「……そっか。嬢ちゃんにでもそうか……」
 ジュリアンの真意が、わかる気がしない。
「団長は、どんな様子なんですか?」
「俺もほとんど人伝だけど……普通なんだよな。普通にぴりぴりしてる。仕事中はいつもあんなもんだが、仕事じゃねえときも最近緊張解けてなさそうなんだよ。大丈夫か、あいつ」
 あの場ではああする以外どうしようもなかったし、ランティスの中では納得済みのことなのだが、自分の負傷と竜化症のせいでジュリアンがああなってしまっているのかと思うと気分が沈む。ジュリアンも頭ではわかっていて、出来るだけ態度に出さないようにしているということは見て取れるのだが、理性で何とかなるのは表面の態度だけだ。付き合いの長いランティスには、わかりたくなくてもわかってしまう。
「ユリンに飛ばされる直前みたいになりそうなんだよな……」
「そう、なんですか……?」
 思わず漏れた呟きに、フィラが目を瞬かせる。
「ああ。いつぷっつり切れるか心配だった。ユリン行った直後なんか妙に虚脱してるみたいだったからついに切れたのかと冷や冷やしたもんだが、仕事は普通にしてたし。しばらくしたらまた元に戻ったからほっとしてたんだけど」
 ランティスは眉間を押さえながら深々とため息をついた。
「本当に大丈夫か、あいつ」
 困惑した表情のフィラは、それに対する答えは持ち合わせていない様子だった。

 ランティスがレイ家を訪れた翌日にはもう大晦日だった。それからは新年の宗教行事が立て込んでいたせいでジュリアンどころかランベールすらほとんど邸に戻ってこないような有様で、気付けば結婚式の日は一週間後に迫っていた。
 エリック経由で聞いたフェイルの話では、ジュリアンはまたきちんと仕事を割り振るようになったらしいが、それでも手が回らないほど多忙なようで、フィラはクリスマスの日の朝食以来顔も見ていない。
 その朝食の席で、前の夜のことが幻でもあったかのように、恐ろしいくらいいつも通りだったジュリアンに合わせるようにフィラもいつも通りに振る舞ったつもりだったけれど、結局何かあったのかとセレスティーヌには聞かれてしまった。何でもないと答えはしたけれど、それ以上誤魔化せる気もしなかったので、実のところ顔を合わせなくて済むのは少しありがたかった。
 しかし、それが半月も続くとなると話は別だ。今度はまた違った焦りが心のどこかに生まれてくる。本当に忙しいのは知っているし、会ったところで何をどう話せば良いのかわからないけれど、でもこのままの状態で結婚してしまうのは何か良くないような気がする。
 焦りながらも何も出来ず、ただ儀式の準備と練習に忙殺されているうちに、結婚式の当日はやってきた。
 表の大聖堂ではなく秘祭を行うための奥の礼拝堂で、儀式は行われる。今ではもうほとんど取り戻した感じがする記憶の中でも、表の大聖堂で新年のミサを見た記憶はあるけれど、奥に礼拝堂があるなんて聞いたこともなかった。
 立ち位置を確認するために儀式が始まる前に案内された礼拝堂は、大聖堂とは比べるべくもない小さなものだったが、壁や天井に描かれた絵画やそこここに配置された彫像は、間違いなく歴史に残すべき作品を集めたもののようだ。素人目ではあるけれど、小規模な礼拝堂にものすごい密度で詰め込まれた作品群の存在感に、フィラはちらりと見ただけでも圧倒されてしまった。しかしそれを見ることが出来たのは儀式が始まる少し前のことで、ウエディングドレスに着替えた後で光の巫女を祝福するミサが始まってしまってからは、フィラは回りを気にする余裕もなくじっと控え室で出番を待っていた。式の出席者は光王庁の身分の高い人々だけだ。着替える前に少しだけ覗かせてもらったときに聖騎士であるリサやカイが末席に座っているのが見えたから、それよりも立場が上の人間しかいない、ということなのだろう。
「巫女殿」
 白いローブに白い覆面をつけた神官が入ってくる。奥の院で光の巫女に仕える神官の経歴や本名や顔は、光の巫女自身にすら知らされないのだという。
「そろそろご準備を」
「は、はい」
 促されるままに立ち上がり、礼拝堂の入り口に立つ。フィラが入るのは、列席者の後ろの正面の入り口ではなくて、祭壇に向かって左手の列席者の目からは隠れた扉だ。扉が音もなく開く。祭壇の前に立った光王と、その前に跪くジュリアンの姿が見えた。
「汝、光の加護を求めし者よ」
 光王が穏やかな声でジュリアンに呼びかける。穏やかでありながらその声は、礼拝堂の隅々にまではっきりと聞こえるような響きを持っていた。
「汝、真実光の神の伴侶たることを望むならば、光神リラの御前《みまえ》にてその誓いを奉じよ」
 光王が天井に手を差し伸べながら祭壇の前を退くと、いつかフィアが聖騎士の誓いを立てたときと同じように、圧倒的な光が真上から差し込んでくる。その光の柱の下へ、フィラはゆっくりと歩みを進める。ベールをかぶっているせいでただでさえ周囲がよく見えないのに、まっすぐ前を見て進まなければならない。スカートの裾を踏まないように、足の長いカーペットに躓かないように。必死でそんなことばかり考えながら、どうにかジュリアンの前まで辿り着いた。
 フィラが立つ祭壇の前よりも一段下の位置で跪いたジュリアンを見下ろしながら、誓いの言葉が始まるのを待つ。ジュリアンは目を伏せたまま一つ呼吸を整え、そして口を開いた。
「我は我が剣と魔力に懸け、我が導き手たる光神リラの御前に厳かに誓わん」
 誓いの言葉は、聖騎士団誓詞と同じものだ。常ならばリラを祀った祭壇に向かって捧げられる誓いが、今はフィラに向かって捧げられている。
「我が生涯を神に捧げ、我が任務《つとめ》を忠実に全うせんことを」
 ジュリアンの低いけれどよく通る声が、礼拝堂の静寂を厳かに震わせるのを、フィラは身じろぎもせずに聞いていた。
「我はすべて民に害なすもの、世に毒となるものを絶ち、悪しき魔力を用いることなく、また知りつつこれをすすめざるべし。我は心より民を助け、我が手に託されたる人々の幸《さいわい》のため、楯となり剣となりてこの身を捧げん」
 ジュリアンが顔を上げ、まっすぐにフィラを見つめる。
「我が身は神に捧げられたるものなれば、我は我が力の限り神と民のために戦い、驕らず、裏切らず、強き心を持ち、戦友と神に誠実であり続け、死地においてなお迷わざることをここに誓う」
 強い意志力を感じさせる言葉が、まっすぐ胸に突き刺さって来るみたいだった。呼吸が苦しくなる。
 ――いやだ。
 そんなこと、誓って欲しくない。
 あなたの誓いを受け入れます。そう言わなくてはいけないのに、どうしても言葉が出てこない。
「あなたの……」
 無理矢理押し出した声が、震える。
「すべてを、受け入れます」
 間違えた。いや、もうむしろ意図的だった。我ながら何をやっているんだと思ったけれど、どうしてもこの悲壮感に満ちた誓いだけを受け入れるとは言いたくなかったし、とっさに思い浮かんだ別の言葉はそれだけだった。それを聞いた瞬間、ジュリアンの瞳が一瞬見開かれたように見えたけれど、彼は一瞬過ぎったその動揺を押し殺して立ち上がる。ジュリアンが差し出した腕に手を置くと、列席者が一斉に手を叩き、パイプオルガンが荘厳な音楽を奏で始めた。
「すみません……台詞、間違えました」
 拍手とパイプオルガンの音が響くのに紛らせて、小さく囁く。
「いや……問題はない」
 完全に感情を押し殺した表情と声のせいで、ジュリアンが怒っているのかいないのか、それすらもわからなかった。なんでこんな大舞台でこんなことをしでかしてしまったんだろう、という焦りと後悔にさいなまれながら、ジュリアンのエスコートに合わせてバージンロードを出口に向かって歩いて行く。これは人間の夫を受け入れた光の神が人間へ変化していく道を表しているのだとかなんとか聞いてはいるが、もともと人間でしかないフィラからしたら、そんなことを言われても、というところだ。
 そのまま礼拝堂の外で待っていた覆面の神官に案内されて、元いた控え室に戻る。覆面の神官は部屋の外で立ち止まってしまったので、扉が閉まるとジュリアンと二人きりになってしまう。
 あれから半月以上も顔を合わせていなかったせいで、ものすごく気まずい。薄暗い部屋の中でベール越しではジュリアンがどんな表情をしているのかもわからなくて、フィラはベールを外そうとその端を探した。もう後は着替えてレイ家に戻るだけのはずだから、外してしまっても問題はないはずだ。
「何してるんだ?」
 悪戦苦闘するフィラを見て、ジュリアンが尋ねてくる。
「えっと、水でも飲もうかと思って」
 その言い方が余りにもいつも通りだったので、とっさに出た嘘もいつも通りの話し方になった。
「少しかがめ」
 言われるままに軽く膝を折ると、目の前に立ったジュリアンが両手で静かにベールを持ち上げ、背中の方に流してくれる。視界を覆っていた幕が取り払われて、久しぶりに見るジュリアンの青い瞳が目の前にはっきりと見えた。
 二人きりになってしまった、という緊張感が、遅れて今頃やって来る。顔を合わせてはみたものの、ジュリアンは完全に感情を押し殺した表情をしていて何を考えているかわからないし、結局あれから考えもまとまっていないので何を話したら良いのかもわからない。
 固まってしまったフィラの前で、何故かジュリアンも無表情のままじっとこちらを見下ろしていた。
「あ、の……」
 どうにか勇気を振り絞って口を開いたとき、ふとジュリアンの表情が厳しくなって視線が横へ流れる。
「ああ、誓いのキスをするならそれまで待ってますよ」
 つられるようにそちらを見ると、視線の先で造り物じみた軽薄そうな笑みを浮かべていたのは、フランシス・フォルシウスだった。いつの間に現れたのか、廊下へ続く扉が開いたままになるように片手で押さえながらこちらを見ている。
「隊長!」
 扉の影から、たしなめるような声が飛んできた。フランシスは特にそれに反応することもなく、薄い笑みを浮かべてこちらを見つめ続ける。
「わざわざこんな所まで押しかけて来るのなら、急ぎの用件なのでは?」
 相変わらず無表情のまま、ジュリアンが問いかけた。
「良いんですか? 聞いたら続きは出来なくなると思いますけど」
 皮肉っぽい笑みを浮かべるフランシスに、ジュリアンは「さっさとしろ」と言いたげな視線を向ける。
「じゃあ伝えますよ。光王からのご命令で、光の巫女を迎えに上がりました。聖騎士団団長ジュリアン・レイの魔力が光の巫女の力を乱している可能性があるという軍部からの指摘を受け、しばらく巫女の身柄はフォルシウス家が保護することが決まりました」
 話しながら、フランシスは持っていた書類を掲げて見せる。右下にあるサインは光王のものなのだろうか。だとしたら、これは良くない状況なのではないだろうか。思ってジュリアンを見上げるが、やはり彼の横顔は無表情なままだった。
「……そんな話は聞いていませんが」
 それでも低く反論するジュリアンに、フランシスは軽く肩をすくめる。
「たった今決まった話ですので」
 フランシスはフィラに向き直り、うさんくさい笑顔を深めた。けれどその目は笑っていない。
「では、巫女殿、こちらへ来ていただけますか?」
 どうしよう、と迷っていると、ジュリアンに肩を抱いて引き留められた。
「別れを惜しむ時間もいただけないのですか?」
「そうですね……少しだけですよ。ただし、二人きりにするわけにはいかないかな」
 さらに強く、胸に抱き込むように引き寄せられる。フランシスにフィラの表情を見せなくないのかもしれない。そう思って、フィラは顔を隠すように俯いた。
「……妻との個人的な話を聞かせたくはないのですが」
「気持ちはわかりますけどね。……仕方ない、まだ見ている人数が少ない方が良いでしょう。俺が見ていますから、他の人間は外で待っていてください」
 顔を伏せたまま、フランシスが控え室に歩み入って扉を閉める気配を感じる。扉が閉まると、ジュリアンが何か魔術を使った気配がして、フランシスが早足で近寄ってきた。
「悪いね。俺もついさっき知らされたばかりで、情報を流している暇がなかった」
 ジュリアンが肩を抱く手を緩めたので、フィラは顔を上げる。フランシスの表情はさっきまでの余裕に満ちた笑顔ではなく、どこか焦燥を含んだ真剣なものに変わっていた。
「いや。そっちもあまり危ない橋は渡れないだろう」
 ジュリアンの話し方が親しい者に対するときのそれだ。フランシスの豹変を当然のことのように受け止めているジュリアンに困惑して、フィラは二人の顔を見比べる。
「まあね。でも、まさかこう来るとは思ってませんでしたよ。どうやって光王を説得したのやら……。彼女は連れて行くけど、出来るだけ情報は流します。情報開示まで時間稼ぎがあると思いますが、まずは流した情報を元に反証を考えておいて、情報開示後に時間をおかずに反論してもらうしかない。しかし、まずいな。たぶん光の巫女の力を無理矢理にでもアースリーゼに移し替えるつもりですよ」
 その会話から推測できることはただ一つ、よりにもよって光王親衛隊隊長であるフランシスが、聖騎士団の逆スパイのようなことをやっている、ということだ。周りに思われているほど仲が悪いわけではない、どころの話ではない。
「……まさか。危険すぎる」
「保身で目が見えなくなっているんですよ。どうにかその目をこじ開けるしかないでしょうね」
 愕然としている間に、二人は短いやりとりを終え、同時にフィラに視線をやった。
「フィラ」
 思わずたじろいだフィラに、ジュリアンが真剣な瞳を向ける。
「は、はい」
 突然訪れたわけのわからない状況にも、肩を抱かれたままの近すぎる距離にも緊張する。
「出来るだけ早く間違いを証明して取り戻す。待っていてくれ」
「……はい。お願いします」
 これが危機を感じるべき場面なのかもわからないまま、頷いた。ずっと感情の読めなかったジュリアンの表情が、苦しそうに歪む。
「すまない。つらい思いを……させると思うが」
「いえ、団長のせいじゃ……」
 なんとなく、フランシスの前で名前を呼ぶのは躊躇われた。困惑しながら首を横に振ると、ジュリアンはさらにきつく眉根を寄せる。
「先手を許したのは俺だ」
「それを言われると真っ先に気付いてなきゃいけなかったのは俺なんですけどね」
 どこか苦い感情の滲んだフランシスの言葉に反応するように、ジュリアンはフィラから身体を離した。
「しばらくはフォルシウス家に軟禁、という形になると思うが……フランツ以外は信用するな」
 そう言えば初めてフランシスと話したときも、ジュリアンは彼を愛称で呼んでいた。
「わかり、ました」
 ようやく身体が震えるような緊張感が襲ってきたフィラは、唇を湿らせながらどうにかそう答える。喉がからからだ。さっきのはとっさに出た嘘だったけれど、今は本当に水が飲みたい。
「細かい連絡事項は後で……いつものルートで」
「ああ」
 フランシスとジュリアンは目を見合わせて頷き合い、次いでフランシスが何か魔術を使った。おそらく、さっきジュリアンが使った魔術を打ち消したのだろう。音を遮断する結界でも張っていたのかもしれない。
「もう良いかな? あまり近くにいられると影響が大きくなる」
 フランシスはあっという間に元の余裕のある笑みを取り戻し、微かに敵意を含んだような調子でジュリアンに視線を送った。
「根拠を示した報告書はこちらにも提供していただきます」
 扉を開くフランシスに、ジュリアンも冷たく感情を含まない言葉を投げつける。
「ええ。それはもちろん」
 フランシスは微笑して、またこちらへ歩み寄り、フィラに片腕を差し出した。
「行きますよ。巫女様」
 思わずジュリアンを見上げると、彼は真剣な瞳で頷きながら、そっとフィラの背中を押し出す。名残を惜しむように最後まで添えられたままの指先の感覚を感じながら、フィラはフランシスの腕に手を置いた。