第三話 狂った旋律

 3-1 冷たい部屋

 大切なものは無数に存在している。失いたくないと思うそれらのものを、ジュリアンはそれでも何度も犠牲にしながら進んできた。フィラのことも、いつか切り捨てなければいけないときは来るのかもしれない。だが、少なくとも今はそのときではない。
 もしもリラの魔力をアースリーゼに移し替える作業が失敗すれば、フィラの存在だけでなく、リラの魔力すら失われてしまうかもしれないのだ。そんな危ない橋を今渡る必要性などどこにもない。ただでさえ謎の多いリラの魔力に、それを封印する魔術の構造も明らかになっていない状況では、不確定要素が多すぎる。作業は失敗する可能性の方が高いはずだ。
 この計画を止めるのは、ジュリアン個人の目的のためでもあり、リラ教会全体の利益のためでもある。だから冷静に対応を考えなければならないと頭ではわかっているのに、妙な焦燥が胸のどこかに巣喰っていた。
 今後の方針についてレイ家の邸で父と――いや、レイ家当主であり、神祇官の一人であるランベールと打ち合わせた後、そのままレイ家に泊まっていくことになった。
 フランシスからの情報提供を待ち、それからフォルシウス家が『根拠』として示したらしい報告書を確認し、対抗するデータを集めるために必要な設備と人員を検討する。
 レイ家の研究開発部門から信頼出来る人間を回してもらえることにはなったが、基本的にはジュリアンが指揮を執ることになった。
「私の方は別の方向から攻めるとしよう。どうも最近、フォルシウス家周辺の動きがきな臭い。先日の荒神の襲撃、何か関係があるのではと思っている」
 光王庁の重鎮が荒神と繋がっているなどというとんでもない疑惑をランベールが口にしたことに、ジュリアンは驚いた。それほど確信があるということなのだろうか。
「尻尾を掴むまでには少し時間がかかりそうだ。お前はフィラを取り戻すことを第一に考えてくれ。その間、天魔の討伐には私の方から私兵をまわそう」
 レイ家の所有する土地を守るために雇われている私兵たちは、聖騎士団にも匹敵するほどの練度を誇る精鋭たちだ。実際、現役で聖騎士を務めているシリイとトライはフェイルがレイ家の私兵の中からスカウトしてきたメンバーだった。
「光王には私の方から説明を求めよう。神祇官の承認を経ずにこのような重大な事項を決定することは、いかに光王といえど越権行為だ」
 他に話し合っておきたいことはあるか、と、ランベールは一同――ジュリアンとフェイルとエリックの顔を順に見る。
 全員が首を横に振ったので、話し合いはそこで終了となった。それからセレスティーヌが作ってくれていた夕食を食べ、自室へ――そう考えることにはまだ抵抗があったが――戻って、現在に至る。
 具体的な行動を起こすのは明日からだ。聖騎士団としての通常の任務もなくなるわけではない。身体を休めた方が良いことはわかっているのだが、どうにも眠る気になれなかった。
 バルコニーに出て、ぼんやりと隣の部屋の窓を眺める。カーテンが閉まったままの窓を見つめながら、そこにフィラがいないことを不思議に思っていた。何か妙に乾いたような気分になって、きつく手を握りしめる。フィラが向こうでどんな扱いを受けるのか、だいたい予想は出来ていた。こうなる事態だけは避けたかったのに、回避できなかったことが悔やまれる。
(早く……)
 焦っても仕方がないとわかっているのに、焦燥は消えてはくれなかった。

 フィラが連れて行かれたのは、どこかの邸の一室だった。やたら高い天井と、やたら豪華な内装の広い部屋で、真ん中には天蓋付きのベッドが置いてある。ただ、部屋の中は真冬の外気温と同じくらいなのではないかというくらい冷え切っていた。
 身震いしながらクローゼットを開けると部屋着が入っていたので、素早くドレスから着替える。それからベッドに潜り込んで、頭から毛布をかぶる。これからどうなるのか、何もわからなくて不安だらけだった。
 しばらく後に運ばれてきた料理は暖かかったけれど、やはり一人きりでぽつりと食べているうちに冷えてきて、最後にはものすごく寒々しい気分になった。それからシャワーを浴びてまたベッドに潜り込み、瞳を閉じる。早くレイ家に――ジュリアンの元に戻りたかった。

 翌朝早く、着替えが終わるか終わらないかの頃に扉がノックされた。他にどうしようもなくて「どうぞ」と答えると、ドアが開けられ、覆面姿の女性が入ってくる。黙ったまま廊下を指し示されて、おずおずと出て行くと背後で扉が閉められた。先に立つ女性について、黙々と廊下を歩く。そのまま車庫から車に乗せられ、光王庁へ連れて行かれた。その後はリフトに乗ってどこか奥の方まで運ばれ、何かの実験施設へ案内される。光王庁の他の場所と同じく白く無機的な印象のそこは、フィラには用途のわからない機械や装置で埋め尽くされていた。部屋の中央に置いてある装置に囲まれた椅子に座るように指示されて、言われるままに座ると、肘と手首をベルトで肘掛けに固定されてしまう。足首と膝、腰にもベルトが回されて、あっという間に身動きが取れなくなってしまった。
「いったい、何を……?」
 怖くなって尋ねる。
「今日は魔力の測定とリラの魔力の活性化を行います」
 淡々と答えたのは、白衣の男性だ。腰掛けた椅子も男の表情も声も、何もかもが冷たくて怖かった。怯えるフィラには構わず、上半身を覆う装置が下ろされて視界が閉ざされる。フィラの意志などないかのように、淡々と事態が進んでいくのを、ただ黙って受け入れることしか出来なかった。身体が震える。何をされているのかさっぱりわからなくて怖い。誰かが手首に触れて、痛みもなく何かが差し込まれるのを感じた。
「それでは測定を開始します」
 平坦な声が告げると同時に、手首に差し込まれた何かから人間らしい揺らぎのない、機械的な魔力が無理矢理注ぎ込まれる。フィラの意志を無視して皮膚の内側を這い回るような、おぞましい感覚だった。身体を硬くしてその感覚をやり過ごす。しばらく測定は続けられたが、結局何も探り出せなかったようだった。
「魔力圧を上げ、変化を見ます」
 また感情を含まない声が冷淡に告げて、それから急に注ぎ込まれる魔力が膨れあがる。
「や、やめ……!」
 思わず悲鳴じみた声が漏れた。物理的に膨らんだようにも思えたそれが、肉体的な苦痛すら与えてきたからだ。それでも注ぎ込まれる魔力が止められることはなく、フィラは歯を食いしばって耐えるしかない。リラの魔力が動くことなく、圧力は徐々に上げられていった。
「……っ」
 ついに痛みが現界を超えて、意識が真っ白に染まる。それでも『測定』は続けられて、痛みに無理矢理覚醒させられてはまた意識を失うというサイクルが繰り返された。
 どれくらいそれが続いたのか、断続的に意識を失っていたフィラにはわからない。途中から何か幻覚まで見え始めて、現実と夢の境が曖昧になっていた気がする。
 気がついたときには、フィラはまたあの豪華で広くて冷え切った部屋のベッドに戻されていた。ぼんやりと目を開けて、何度か瞬きを繰り返す。全身が鉛のように重かった。丸テーブルの上に覆いをかけられた食事が載せられていたけれど、とても食べる気にはなれない。まだ全身の皮膚の裏側を何かが這い回っているような感触が残っていて気持ちが悪かった。
 ――ちゃんと栄養のあるものを食べて、きちんと睡眠を取っていれば、たいがいのつらいことは乗り越えられるんだから――
 エディスの言葉が耳の奥に響いた気がして、フィラはぎゅっと手を握りしめる。重い身体を叱咤して起き上がり、よろよろと椅子について食事に手を伸ばした。
 少しずつでも、食べなくては。冷え切った食事を小分けにして口に運ぶ。すぐに胸がいっぱいになってしまったけれど、それでも出来るだけ食べてしまおう。
 ――ちゃんと食べて、ちゃんと寝るんだ。
 一人きりの冷たい部屋で、フィラは他のことは考えないようにしながら、ひたすら食事を続けた。
 ずいぶん食べた気がしたけれど、もう限界だと思って手を止めたときにもまだ食事は半分以上残っていた。申し訳なく思いながらも、これ以上食べたらきっと戻してしまうから、諦めて立ち上がる。またよろよろとしながらベッドに戻り、這い上がって毛布の奥に潜り込んだ。ぐるぐるとした目眩と吐き気を堪えながら目を閉じる。
 眠りはなかなか訪れてはくれず、やっと眠れたと思ったらさっきの測定の感触が悪夢になって現れて目が覚めた。浅い眠りと覚醒を繰り返しながら、長い夜を過ごす。夜明け頃、ほとんど気を失うようにして今度は夢も見ない深い眠りに落ちた。

 そして翌日も翌々日も、同じことが繰り返された。邸で世話をしてくれる人々は白い覆面をしていて表情も見えないし口をきいてもくれず、話しかけても何の反応もない。自分が何か生命のない物体になってしまったような気分だった。段々と鬱々とした気分になっていくのを感じながら、これではいけないと思うけれど、今のフィラには何の自由もない。逆らえば薬で意識を飛ばされて無理矢理連れて行かれるということは、二日目の朝にわかっていた。
 眠ることもできないままぼんやりとベッドに横たわっていたフィラの耳に、ふと扉を叩く音が聞こえる。
 夜なのに、また何かされるのだろうか。緊張に身体を強ばらせながら、ゆっくりと起き上がる。
「入っても良いかな?」
 返事がないのに業を煮やしたのか、優しげな声が扉の向こうから尋ねかけてきた。フランシスの声だ。
「は、はい」
 フィラは慌てて返事をする。フランシスは信用しても良いとジュリアンは言っていた。話があるのなら、ちゃんと聞いておきたい。
「大丈夫かい? ごめんね、ずいぶんと酷い扱いをさせてしまっている」
 扉を開けて入ってきたフランシスは、フィラにそのままで良いと仕草で示してベッドの前まで歩いてくる。
「いえ……」
 フランシスの本意ではないのだろう。それがわかるから、フィラはただ俯いてそう答えるしかない。
「少し、話したいことがあってね」
 フィラは姿勢を正して聞く意志を示す。
「あ、そうだ、俺のことはフランツって呼んでくれて良いんですよ。フィアは何度言っても呼んでくれないから、同じ顔の君に呼ばれたらちょっとは良い気分になれるかもしれない。……後で絶対むなしくなるけど」
 おどけてそう言いながら、フランシスはテーブルの側に置いてあった椅子を引っ張ってきてベッド脇に座った。何とも言えなくて、フィラは黙ったまま彼を見返す。
「何から話そうか……そうだな、まずはダスト・アズラエルのことから話しましょうか」
「ダストさんの……?」
 意外なところから話が始まって、フィラは目を瞬かせた。
「遠回しですみませんね。また君の妹に怒られそうだけど」
 フランシスは軽く肩をすくめて、それからふと真剣な表情になる。
「彼女は敵方の戦略兵器だったんですよ。ジュリアンが初陣で鹵獲して、教育……というか、要するに洗脳し直して、それでこちらの味方として運用することが可能になったんです」
「敵……っていうのは」
「人間ですよ」
 戦う相手が何も荒神や天魔だけではない、ということは、もう思い出していた。
「世界再生連合、通称WRU。リラ教会が支配している地域と隣接した国家。北米大陸の北西部一帯とグリーンランドを支配下に置いています。我々が神と呼ぶ存在を『元素体』と呼称し、世界を荒廃させる原因としてその殲滅を目指している組織です。神を殲滅すればこの世界は元の姿を取り戻すと信じ、国内でも世界の再生に繋がる研究を重点的に助成している。サーズウィアに関しては否定的。既に滅びに瀕している人類は手段を選べる段階を超えているとして、人間をも道具として扱い、様々な生体兵器を作り出しています」
 ぼんやりと記憶にあった知識を、フランシスは淡々と言葉でなぞっていく。
「WRUを人道的に問題があると糾弾しているリラ教会と、リラ教会を世界を滅ぼす元素体を神として崇めるカルト集団だと断じて殲滅の対象に入れているWRUは当然のように敵対するしか道はない。最近は魔力を集積する性質がある竜素の採掘場を巡って北米地区で小競り合いが繰り返されていますが、それでも一応は和平の方向に向かっているんですよ。ただ……」
 迷うように視線を逸らすフランシスを、フィラはじっと見つめた。彼がなぜこんな話を始めたのかはわからないが、何か大事なことを伝えようとしているのはわかる。
「ただ、彼らはサーズウィアを呼ぶことには反対しています。神を殲滅するのとどう違うのか俺にはわからないけれど、あちらの地域の産業は魔導技術に関するものしかありませんからね。サーズウィアが来て魔術がこの世界から消えてしまったら困る、だから魔術を維持したまま神々だけ滅ぼしたい、ってことなんでしょう。結局は利権の問題ということです」
 サーズウィアを呼ぶ。その言葉を、フィラは瞬きもせずに聞いていた。地球全体のありようを変えてしまうほど大規模な、神の領域の話なのに、『呼んで』しまえるものなのだろうか。
「だから、和平に傾いている今の情勢はジュリアンやサーズウィアを推進している聖騎士団にとっては微妙なんですよ。なんせサーズウィアを呼べるのは現状ジュリアンだけだ。交戦派の象徴として、彼は和平派やWRUの暗殺者から命を狙われる立場にある」
 ジュリアンが呼ぶ――呼べる? 愕然としながら、魔女の言葉を思い出していた。青空を取り戻すとか、人類を救うとか、大きすぎることを言っていたけれど、それはこれを指していたのだろうか。戸惑うフィラの感情を置き去りに、話はどんどん進んでいく。
「彼がサーズウィアを呼ぼうとするということは、WRUとの戦争の再開を意味しています。数年後の数万人の死か、数十年後の人類の絶滅か……俺たちはどちらかを選ばなければならない。ジュリアン・レイ以外にサーズウィアを呼べる者はいません」
 一気に詰め込まれた情報に頭がくらくらした。ジュリアンが強大な魔力を持っていることは知っている。でも、それが、そんな――
「確率的には、今後も恐らく、人類が滅亡するまでに彼と同等かそれ以上の魔力を持った者が生まれることはないでしょう。そもそもジュリアンが生まれたのが奇跡みたいなものなんですよ。人間として育つことが出来たのはそれ以上の奇跡だ」
 否定したい気持ちを知ってか知らずか、フランシスは淡々と言葉を続ける。
「ダストの暴走を見たでしょう。あれを止められるのはジュリアンだけです。しかしもしジュリアンが同じように暴走したら、止められる人間はいない。ダストと同じく半人半竜である彼が、暴走することなくここまで育ったのは奇跡としか言いようがないんですよ」
 フランシスは一気に全部ぶちまけてしまうつもりのようだった。一つ消化する前に次の情報が入ってくる。
「半人半竜……?」
 半ば混乱しながら、フィラは呆然と呟いた。
「まあ、まったく同じというわけではないですね。ダストは竜として生まれたものを教育で人の形に押し込めている。その構成物質はもともと竜素で、竜化症の意味合いも我々とは異なる。ジュリアンは人間として生まれていますが、後で神の核をコピーしたものを埋め込むことで半竜化させられたんですよ」
「どうして……そんな、ことを」
 からからに渇いた喉から無理矢理言葉を押し出す。フランシスはどこか哀れむような表情でフィラを見た。
「サーズウィアを呼べる存在を作るため、です。サーズウィア推進派である彼の祖父が密かに繰り返していた実験の成功例がジュリアンだということです。自分の孫であってもふさわしい魔力があれば実験材料として利用するなんて怖いですよね。まあ、その怖い人はジュリアンが半竜化した際の暴走に巻き込まれて消滅《ロスト》しているんですが」
 あっさり語られるのは、壮絶な過去だ。フィラは言葉もなくそれを聞き続けることしかできない。
「その後ジュリアンは再び暴走するのを防ぐため、十四歳までは感情抑制のためのチップを脳内に埋め込まれていました。それを除去されてようやく一人の人間として認められることになったわけですが、怖かったでしょうね。彼も、その周囲も」
 泣き出しそうになってしまって、フィラは俯いた。なぜフランシスがこんなに一気に何もかもを話してしまうのか、まだ理由がわからずにいた。
「決断した先代の聖騎士団団長はまったく気にしてなかったようですが。……一つ。俺の憶測を聞いてもらっても良いかな」
「は、はい」
 ぐっと涙を堪えて顔を上げると、フランシスは無表情で視線をわずかに落としていた。
「たぶんね。ジュリアンが暴走したとき止められる力があるとしたら、それはリラの力だけなんだ。早くそれを手懐けてください。君のためにも、ジュリアンのためにも」
 再び顔を上げたフランシスは、いつものにこやかな笑みをとってつけたように貼り付ける。
「あと、俺がこれを話してしまったことは秘密にしておいてくださいね。リラ教会でもごく一部の人間しか知らないことだし、ジュリアンも君にはあまり知られたくないだろうから」
「どうして……教えてくれたんですか?」
 リラの力がフィラにあるから、だけなのだろうか。それがわからなくて、フィラは最後に問いかけた。
「それで君が変わるようなら、これ以上協力しても仕方ないかなと思ってね」
 フランシスは立ち上がり、椅子を元の位置に戻す。それから振り返って、変わらない笑みを貼り付けたまま言った。
「会わせてあげますよ。ジュリアンに」