第三話 狂った旋律

 3-2 衝動

「正式な報告書はまだこれだけですね」
 フォルシウス側からの報告書を届けに来たフランシスは、ジュリアンが一通り目を通し終えた所で軽く肩をすくめた。光王庁の他の場所と同じく白い壁と床に黒いデスクと本棚を置いただけの執務室には、今は二人しかいない。
 報告書にはほとんど具体的なことは書かれておらず、まとめてしまえばまだデータを集めている最中だということだけが記されていた。少なくとも数日後にはリラの魔力をアースリーゼに移し替える根拠となる報告書が提出されるはずだが、それまではこちらも反論する材料を集めてまとめておくことくらいしかできない。フランシスから提供されたデータを元に反論する根拠は既に算出していたが、なかなか前に進まない状況にジュリアンは焦りを覚えていた。
「全部吐き出すまでにはもう少し時間がかかりそうです。ところで」
 少しだけ急いたような調子で、フランシスが話を変える。
「今夜、お時間いただけますか。フィラ・ラピズラリに会って欲しいんですが」
「出来るのか」
 読み終えた報告書から目を上げて、ジュリアンはフランシスを見上げた。
「なんとかね……俺が手引きしますよ。かなり酷い扱いを受けているらしいので、慰めてあげてください」
「……わかった」
 自分が慰められるとは思えないが、様子くらいは見ておきたい。
「様子を見たら、俺にも教えてくださいね」
 妙なことを言うフランシスに、ジュリアンは眉根を寄せた。
「お前は様子を見に行けるんじゃないのか?」
「そうですが……俺には弱みを見せたりしないでしょう。君になら違うんじゃないかなと思って」
 それはどうだろう、と、ジュリアンは内心考え込む。距離は縮んでいたとは思うのだが、数日離れているだけでずいぶんと遠ざかってしまったような気がしていた。そんな内心を知るはずもないフランシスは、薄く微笑むと「よろしくお願いしますよ」と首を傾げる。
「ああ」
 再び報告書に視線を落としながら、ジュリアンは低く頷いた。

 その夜、ジュリアンはフランシスの案内で裏口からこっそりとフォルシウス邸に忍び込んだ。廊下の途中でフランシスがここをまっすぐ行った四つ目の扉だと告げて立ち止まったので、そこからは一人で進む。窓から差し込む街灯の明かりだけを頼りに、無人の廊下から薄く扉を開けて素早く部屋の中に滑り込み、後ろ手に扉を閉めた。
 暗い部屋の中は冷え切っていた。天蓋付きのベッドの毛布が盛り上がっているから、フィラはもう寝ているのかもしれない。起こすのは悪いような気もしたが、またチャンスがあるとは到底思えなかったので、近寄って声をかける。
「フィラ」
 小さく呼びかけると、勢いよく毛布がはねのけられた。起き上がってすぐにぐらりと傾いた身体を、慌てて支える。
「大丈夫……では、なさそうだな」
 白い夜着越しにもその線の細さがわかった。今にも倒れそうなくらい、すっかり痩せてしまったフィラを、ジュリアンは痛ましい気持ちで見下ろす。予想以上に酷い扱いを受けているのかもしれない。
「いえ、あの、まあ、なんとか」
 それでも気丈に微笑みながら、フィラは身体を離す。
「母が心配していた……初めて電話で話したな」
 名残惜しい気分で、それでもどうにか支えていた手を引っ込めながらそんなことを話していた。
「たまにはかけてあげましょうよ」
 少し呆れたようにフィラが苦笑する。その柔らかな空気に胸の内が暖かくなった。安心させるために来たはずなのに、自分の方が癒されていてどうすると、自分で自分に呆れてしまう。ベッドの端に腰掛けると、フィラがその隣に寄ってくる。
「後でまだレイ家の邸に戻る。光王庁ではどこに耳があるかわからないから、内密の話をするなら向こうの方が都合が良い」
「そ、そういう理由なんですか……?」
 困惑したような呟きに、微かに笑みを漏らした。それからふと考える。
 今、彼女の手を取って逃げ出したらどうなるのだろう。
 愚かだとわかっていながら、思考を続ける。
 逃げ出して、その果てに――いったい何があると言うのだろう。最後まで守り通すことなど、出来るはずもないのに。
 少女らしい薄い身体を見下ろして、目を細める。その頬に微かに浮かんだ笑みは、安心しきっているようだった。
 ――違う。
 その微笑みに何か苦い罪悪感を抱えながら、先ほどの思考を否定する。
 最後まで一緒にいて欲しいと願っているのは自分の方だ。考えてみればフィラにプロポーズしたときから、自分はそれを望んでいた気がする。駆け落ちしようと言われて、それも悪くないと思ってしまった。何の力も持たない少女を連れて、この命が尽きるまで逃げ続けるのも良いかもしれない、と。
 今考えているのも、それと同じことだ。自分に最後の時が訪れた後、彼女に待っているのは今以上の地獄だとわかっているのに。――それなのに。
 余りにも自己中心的な思考に吐き気がした。長い沈黙を遮って、小さくため息をつく。
「今日は様子を見に来ただけだ。あまり長居は出来ない。そろそろ……」
 立ち上がりかけて、袖口を引き留める微かな力に動きを止められた。けれど何か反応する前に、フィラははっと息を呑んで手を引っ込める。
「す、すみません。何でも……」
 一瞬だけ見えた縋り付くような瞳に、灼けつくような感情が呼び起こされるのを感じた。俯いてしまったフィラは、泣き出すのかと思えるほど弱々しく見える。
(……だめだ)
 理性が警鐘を鳴らす。今離れなければ取り返しのつかないことになると。けれど、もう片方の理性は、泣き出しそうな少女を放っておけばやはり取り返しがつかないほど傷つけてしまうと訴える。二つの理性がせめぎ合ううちに、感情が身体を動かしていた。
 引き寄せられるように、身体を寄せる。体重を乗せた手の下のスプリングが微かに軋むのを感じた。フィラの瞳がジュリアンを見上げる。薄闇の中で、ほとんど真っ黒に見える瞳は、それでもどこか透明な輝きを湛えて揺れていた。怯えたような瞳なのに、許されているのだと、ふいに感じる。――触れてしまっても、良いのだと。
 吸い込まれるような心地がした。フィラの頬に無意識のうちに触れた手が、自分のものではないみたいだった。ゆっくりと、顔が近付いていく。
 先に目を閉じたのはどちらだったか、意識する間もないくらい自然に唇を重ねていた。柔らかくて暖かい、生きている人間の体温が――いつもなら厭わしく思えるようなそれが、震えるような歓喜に変わる。触れるだけの、優しく静かな口付けだった。
 触れていたのは、そんなに長い時間ではなかったと思う。
 ゆっくりと身体を起こすと、フィラは呆然とした様子で口元に手をやった。自分が何をしたのか――されたのか、まだ理解できていないようだった。引き戻した手をきつく握りしめる。身を離して、まだ呆然としたままの少女を見下ろした。
「じゃあ、また」
 どうにかその言葉だけを絞り出し、フィラが微かに頷いたのを確認して、今度こそ部屋を出て行く。フィラよりもむしろ、自分の方が動揺していると気付いていた。

 それでもどうにか手はず通りに邸を抜け出し、裏通りでフランシスと落ち合う。
「どうでした?」
 高い塀の影に身を潜めるようにして立っていたフランシスは、微かな笑みを浮かべながら尋ねかけてきた。
「どう……?」
 問い返した声に動揺が滲んでいるのが、自分でもわかる。
「何だか動揺してるみたいですけど、何か言われたんですか?」
「何が聞きたい」
 低く問い返すと、フランシスは真意を隠すように笑みを深めた。
「君が半人半竜だって話したんですけど、やっぱり怖がられましたか」
 フランシスは軽く肩をすくめながら問いかけるが、そんなことを気にしている余裕もない。
「……本当に話したのか?」
「え? ええ、もちろん」
 信じられない、という気持ちが声に出ていたのだろう。フランシスは少し面食らったように頷いた。
「そうは……見えなかった」
 最初の方はいつも通りの穏やかな態度だったし、衝動的な口付けさえ受け入れた彼女が、それを知っていたとはどうしても信じられない。あの柔らかな空気のどこにも、ジュリアンが人間ですらないと知っているような雰囲気は感じられなかった。
「じゃあなんで動揺してるんです? もしかして……手を出した?」
 からかうような口調に、逆にすっと感情が冷える。
「……今日、会わせてくれたことには感謝するが、下らない話に付き合ってやる義理はない。失礼する」
 冷たくそう言うと、フランシスは唇の端に面白がっているような笑みを浮かべた。
「へえ……もしかして、図星?」
 その通りだったが、答えてやる義理もない。ジュリアンは無言で踵を返し、足早にその場を後にした。暗く冷え切った街路を歩きながら、考える。
 あの時――フィラの瞳を見つめたときに感じたのは、庇護欲などではなかった。むしろその逆だ。全てを奪ってしまいたいほどの、荒々しい衝動。
 人通りのない裏路地に差し掛かったところで立ち止まり、壁に寄り掛かり、右手を握りしめる。上手く呼吸ができない。あれが人の性なのか、カルマから引き継いだ破壊衝動の現れだったのか、それすらもジュリアンにはわからない。
(駄目だ……忘れろ)
 今はフィラを取り戻すことだけを考えなければならない。フィラから光の巫女の力を引き剥がそうとしているフォルシウス家よりも自分の方が危険かもしれないなどと、考えている場合ではない。
 フィラを取り戻す。
 全てはその後だ。

 一人取り残されたフィラは、呆然とベッドの上に佇んでいた。
 何をされるのか、わかっていた。確かな熱を彼の瞳の中に感じていた。全身を駆け抜ける喜びに身を任せて、目を閉じた。求められていると強く感じた。
 ぐらぐらする視界に耐えられなくなってベッドに横になりながら、引き寄せた枕を抱え込み、身体を丸める。
 さっき別れたばかりなのに、苦しいくらいジュリアンに会いたい。会ってあの熱を確かめて、触れてしまいたい。
 出来るはずがないことはわかっていた。求められたのは確かだけれど、ジュリアンは自分があんな風に誰かを求めることを許したりはしないはずだ。次に会ったときは、きっと冷静に、理性的に拒絶されるのだろう。そんなことはわかっている。それでも会いたい。側にいたい。
 その気持ちが、衝動が、内側から体を灼いているみたいだった。
 ジュリアンの正体が何者であっても、もうそんなことはどうでもいい。
 会いたい。会いたい。会いたい。
 悲しくなどないはずなのに、嗚咽が漏れる。
 自分の中にこんなに強い衝動があるなんて、知らなかった。