第三話 狂った旋律

 3-3 暴走

「強行する、と?」
 光王庁の一室で、フランシスは己の父に不審げな瞳を向けていた。重厚な執務机に座った父のジェラルドは、組み合わせた手の甲に顎を乗せて厳しい表情を浮かべる。
「リラの魔力は未だ眠ったままだ。このままでは埒が明かん。アースリーゼに魔力を移し替え、使えるようにするべきだ」
 フランシスは困惑した表情を隠しもせずに父を見返した。
「しかし、まだ魔力の測定も出来ていないのでしょう。消滅《ロスト》させずに移し替えることが出来るのですか?」
 正直な所、何を焦っているのかと思う。リラ教会のためというよりも、父はフォルシウス家の復権のために無理矢理移し替えようとしているかのようだ。
「消滅《ロスト》する可能性はある。だが、少女一人の命よりもリラの力を安定させることの方が重要だ」
「父上。それはさすがに……人道的に問題があると」
 たしなめるように言いなすが、父は頑として首を縦には振らない。
「リラの魔力を『正しい場所』に戻すのが最優先だ。この四年間でリラの魔力がそこにないために起こった悲劇と混乱は計り知れない。今、すぐに、我々はリラの魔力を取り戻す必要があるのだ」
「ですが、そのためにリラの魔力を失ってしまっては元も子もない。私はもっと慎重になるべきだと考えます」
 止められないかもしれない。思い詰めた父の表情に半ば絶望しながら、フランシスはそれでもなんとか説得しようと言葉を重ねた。
「いつからそんな臆病者になったのだ、フランシス?」
 執務机の向こうから、父が鋭い視線を向けてくる。
「そんな弱腰で守るべき民を守れるとでも思っているのか? これは既に決まったことだ」
「光王猊下は……実験の内容まで承知していらっしゃるのですか?」
 往生際悪く尋ねると、父はどこか嘲るような笑みを薄い唇の端に浮かべた。
「専門的なことをお耳に入れる必要はない。暴走はさせないと約束した。それで充分だろう」
 つまりろくな説明はしていない、ということだ。フランシスは眉根を寄せた。これでは筋も何も通っていない。なんとかジュリアンに止めてもらうしかない。そう判断したフランシスは、諦めたような表情で頭を下げ、父の執務室を後にした。

 光王庁の廊下を前後をフォルシウス家の研究者に挟まれて進みながら、フィラは薄れそうな意識を保つのに必死になっていた。日付はもう数えられなかった。あれからも毎日測定は繰り返され、何度意識を失ったか知れない。気持ちを強く持とうと思ってもそんな気力は残されておらず、今は周囲の言うなりに動くだけだった。
 早くジュリアンの所へ戻りたい。考えられるのはもうそれだけだ。ふらつきながら連れて行かれた場所は、いつもの実験所とは違っていた。やはり光王庁の一角で、周囲の壁は白い。部屋には先客がいた。白い高級そうな生地に金糸の縫い取りをしたローブを身に着けた少女が、部屋全体を見渡せるソファに真っ直ぐに背筋を伸ばして座っている。銀髪の、この世のものとは思えないほど美しい容貌のその少女には確かに見覚えがあった。
「アースリーゼ様……?」
 呆然と呟いたフィラの声に反応して視線を動かした少女は、不快そうに眉根を寄せる。
「『本物』が『偽物』に様付けなんて、嫌みかしら」
 敵意もあらわなその言葉と態度に足が竦んだ。
「私、信じてなんかいないのよ」
 アースリーゼはほとんど憎々しげにフィラを睨み付ける。
「フィア・ルカが消滅《ロスト》したなんて嘘。貴方がフィアなんでしょう?」
「え……?」
 アースリーゼが何を言っているのか、理解できない。
「とぼけないで! 双子の姉が生きているなんて信じない! どういうつもりなの!? フランシスお兄様を裏切る気!?」
「ま、待ってください。どういうことですか……? フィアが消滅《ロスト》したって……」
 自分でも血の気が引いているのがわかった。呆然と見つめるフィラを見返して、アースリーゼは眉を顰める。
「まさか……本当なの……?」
 けれどその表情は、瞬く間にまた強ばった。
「だとしたら、薄情な話ね。今まで誰も教えてくれなかったの? フィア・ルカが消滅《ロスト》したことは報告書に書いてあったのよ。嘘だと思っていたけど……貴方が本当にフィア・ルカの双子の姉だというなら、消滅《ロスト》したという話も本当でしょうね」
 アースリーゼは奥の扉が開いたのに気付いて口を閉じる。フィラは呆然とその場に立ち尽くしていた。フィアが消滅《ロスト》した、と、アースリーゼは言った。報告書にそう書いてあったと。
(何も、聞いてない……)
 すっかり弱ってしまった心では、上手く考えることも出来ない。
「お時間です、こちらへ」
 奥からやってきた白衣の男が恭しくアースリーゼを案内し、動こうとしないフィラの腕を乱暴に引く。頭の中が真っ白になったまま、フィラはそれに逆らう気力もなく引き摺られていった。
 連れて行かれたのは硝子で隣の部屋と仕切られた、フィラには用途の良くわからない機械で埋め尽くされた部屋だった。二つ並んだ椅子の片方に座らされ、いつものように全身を拘束される。
 フィアが消滅《ロスト》した。されるがままになりながら、さっきのアースリーゼの言葉が頭の中を回り続けている。そんなはずはない。別の任務があるからしばらく会えないとフィアは言っていた。でも、もし本当だったら……?
 上手くまとまらない思考がどんどん暗い方へ引き摺られていく。泣き出すのを堪えているうちに、もう一つの椅子にアースリーゼも座り、無数のコードで繋がれていた。
「作業を開始します」
 その言葉にはっと身体を強張らせる。予想した通り、測定の時と同じように手首のコードから情け容赦なく魔力が注ぎ込まれた。いや、いつもよりも酷い。全身を貫く激痛に耐えながら、乱れていく魔力を必死で宥めようとするけれど、フィアのことを教えられたときの動揺がまだ残っていて、まったく集中できない。激しい痛みと平衡感覚を無茶苦茶に揺すぶられる感覚に耐えられず、フィラの意識はすぐに闇に呑まれていった。

 フランシスからの連絡を受けてすぐ、ジュリアンは光王庁の奥へ急行した。フェイルとランティスも後からついて来る。リラの魔力を移し替える作業は既に始まっていると言うが、何としても止めなくてはならない。秘書の制止を振り切り、光王の執務室へと急ぐ。常ならば絶対にしない無礼だが、今はなりふり構ってはいられなかった。
「光王猊下!」
 挨拶もそこそこに執務室へ飛び込み、声を上げる。
「光の神の力をアースリーゼ様に移し替える許可を出したと聞きました。どうか思いとどまっていただきたい」
 光王庁の他の場所と違い、ロココ様式の豪奢な家具や壁画で飾られた部屋を背景に、輝く光を模した大きな背もたれを持つ金色の椅子に腰掛けていた光王が、ゆっくりと顔を上げた。
「理由を述べよ」
 ジュリアンを拘束しようとする衛兵を視線で抑えて、光王は重々しい口調で尋ねる。
「リラの力はまだ制御されておりません。不用意に刺激すれば、暴走する可能性があります」
 全力疾走の後でも呼吸を乱すことなく、それでもいつもより早口でジュリアンは言いつのった。
「だからこそアースリーゼに力を渡してもらうのです」
 答える声は背後から聞こえた。振り向くと、神祇官でありフォルシウス家の家長でもあるジェラルド・フォルシウスが立っている。ジュリアンがここに来ることを予期していたのか、作業に立ち会うこともなくここで控えていたらしい。
「フォルシウス側が提出した報告書はあまりにも楽観的です。暴走する可能性が高いことは、こちらでも証明できています」
 ジュリアンが言いながら手渡した報告書に、光王は黙って目を通し始める。
「目を通す必要はありません。既に作業は始まっております」
「フィラを消滅《ロスト》させるつもりなのですか?」
 苛立ちを隠そうともせずに、ジュリアンはジェラルドを振り返って睨み付けた。
「口を慎め! そのような可能性はないとフォルシウス魔術工学部門の研究班が保証している!」
「可能性はあります。私が提出した報告書で証明は出来ております」
 ジェラルドは話にならん、と呟くと、今度は光王を見上げて口を開く。
「猊下。耳を貸されますな。天才的な魔術使いとは言え、ジュリアン・レイはまだ二十一歳と若年で経験が足りない。我がフォルシウス財閥の研究班とは実績が違います。作業は既に始まっているのです。中断にも危険が伴います」
「うむ。中断は出来ぬだろう」
 その言葉に半ば絶望しながら、ジュリアンは光王に向き直った。
「ならばせめて、私に立ち会いの許可を!」
 光王の瞳が探るようにジュリアンを見つめる。自らの感情を取り繕う余裕もなく、ジュリアンは必死で言いつのるしかなかった。
「お願いします。彼女は私の……妻です」
 紡いだ言葉が、自分でも驚くほど切羽詰まって聞こえる。それをどう捉えたのか、光王はじっと考え込んでから頷いた。
「そうだな。立ち会いを許可しよう。ただし、影響を与えぬよう、制御装置は最大まで出力を高めておくように」
「……かしこまりました」
 深々と頭を下げ、顔を上げると同時に踵を返す。一刻を惜しむように、今度は作業が行われている魔力遮断室へと早足で向かった。
 近付くにつれて、遮断されているはずなのにぴりぴりとした魔力の気配が濃くなっていく。天井の高い白い廊下が、酷く長く感じる。入り口で左腕の制御装置の出力を最大まで高め、ほとんど完全に魔力を封印して、遮断室へと続く扉がやけにゆっくりと開くのを、蹴破りたい衝動を抑え込みながら待った。
 遮断室の中は結界魔術で強化された硝子で二つに区切られていた。奥の方には様々な制御装置のついた椅子が二つ並んでいて、そこにフィラとアースリーゼが座らされている。拘束具と転送用のコードで身動き一つ取れないほど雁字搦めにされたフィラに、思わず駆け寄りたい衝動を必死で抑えた。眠らされたのか作業の途中で意識を失ったのか、フィラはぐったりと脱力して目を閉じている。
 作業はもう半ばまで進んでいた。確かにここまで進んでいては止めることは出来ないだろう。無理矢理引き出されたリラの魔力が不安定な波長を放っているのを、肌で感じた。見守る研究者たちの表情も真剣だ。失敗は許されない。失敗は即破滅を意味するからだ。しかし、抽出された魔力はフィラから離れようとせず、その波長はみるみるうちに乱れていく。
「暴走するぞ……! 結界の出力を上げろ!」
 研究者の一人が怒鳴った。
「そんなはずは……!」
 ジェラルドの言葉を裏切るように、強大な魔力が膨れあがっていく。目視できるほど濃厚な渦巻く力に当てられて目眩がした。
「フィラ……」
 このままでは、フィラが消滅《ロスト》してしまう。そう考えた瞬間に、ぞくりとしたものが背筋を駆け抜けていった。フィラが消える。いなくなる――?
 一瞬、目の前が真っ白に染まるような心地がした。手足が冷たくなる。
 ――そんなことがあって良いはずがない。
 ほとんど無意識のうちに、ジュリアンはふらりと一歩前に踏み出した。
「お待ちください! 危険です!」
 研究者の一人が声を上げて止めようとするのを無視して、さらに歩を進める。何も考えられなかった。さらに凶暴さを増しながら渦巻く魔力の嵐へ、その中心へ――フィラのいるところへ、ジュリアンは真っ直ぐに進む。部屋を二つに区切る硝子に設置された扉に物質破壊の魔術を叩き込み、硝子の破片が落ちきるのも待たずにその奥へ飛び込む。魔力の渦の中心へ向かいながら左腕の制御装置を切った。自らの魔力を全て解放し、暴走寸前の魔力にぶつける。物理的な圧力すら伴って感じられる強大な力に皮膚が粟立つ。生半可な力では対抗できない。人の限界を超えたその力を押し込めようと、ジュリアンも自分の魔力を高めていく。ただその力を上回ることだけを考えた。人の身では許されないとすら評された自らの魔力を、その全てを解放する。今まで一度もしたことがない、無茶な魔力の使い方をしている。
「お止めください! 貴方まで暴走してしまう!」
 誰かの叫び声を背後に聞きながら、ジュリアンは手を伸ばした。その手が醜く歪み、膨らんでいくのが見える。全身の骨が軋む。枷を解き放たれた魔力が身の内から溢れ出し、ジュリアンの身体を歪に変形させていく。全身が歪み、膨らみ、竜に変わろうとしている。
 こうなることはわかっていた。自らの魔力を全て解放し、暴走させれば、待っているのは身の破滅だと。皮膚が真っ白い金属のような不思議な質感に変化していく。視点が高くなり、団服の裾も膨らんだ身体に呑み込まれて見えなくなった。指の先から伸びたかぎ爪で、フィラの身体を拘束していたベルトや制御装置を切り裂く。もう自分は人の形をしていない。たぶん、戻ることも不可能だ。やがて意識も破壊衝動に呑み込まれ、回りにあるもの全てを壊すことだけしか考えられなくなるだろう。赤く染まりそうな思考をどうにか押しとどめて、人の身ではとても耐えられないような魔力でリラの力を押し戻す。暴走していたそれを絡め取り、鎮めていく。今はただ、フィラを救うことしか考えられなかった。魔力の大きさは拮抗していたが、意志の力がある分こちらの方が強い。徐々にリラの魔力が穏やかさを取り戻し、フィラの中へ戻っていく。
(まだだ……)
 まだ、意識を失うわけにはいかない。暗転しそうになる視界を必死で押しとどめながら、荒れ狂う魔力をぎりぎりの一線で制御し続ける。フィラをここから逃がさなければならない。暴走したジュリアン自身の魔力の届かない場所へ。リラの魔力へ干渉し、転移の魔術を発動させれば――
 そのとき、ふっとフィラが瞳を開いた。紅茶色の瞳が、真っ直ぐにジュリアンを見上げる。はっとしたように見開かれた瞳に恐怖の色が浮かぶのを、ジュリアンは死刑宣告を受けるような気分で待った。恐怖に満ちた彼女の表情が、きっと最期に見るものになるのだろう。そう思ってジュリアンは自嘲の笑みを浮かべる。それでも構わない。彼女を救えるのならば。
 しかし、フィラは恐れなかった。自由になった両手をジュリアンに伸ばす。近付いてくるフィラの瞳を、ジュリアンは呆然と見つめていた。フィラは躊躇うことなく立ち上がり、ジュリアンの顔に触れる。静かに細められた瞳が潤む。そのまま瞳を閉じながら、フィラは伸び上がり、異形の怪物と化したジュリアンにキスをした。
 目を見開く。人の姿をしていたときよりも朧気な感覚は、それでも確かに彼女の唇の柔らかさを拾い上げる。
 なぜ、という疑問が真っ白になった思考の中に浮かび上がった。目覚めた瞬間に目の前にいた化け物が何者なのか、フィラにはわかったのだろうか。
 けれどそんな疑問も、触れたところから注ぎ込まれる暖かな光に押し流される。リラの魔力だ。力強い光の流れが全身を駆け巡り、猛り狂う竜の魔力を包み込み、鎮めていく。嵐のような奔流が穏やかな流れに変わり、同時に己の形が元の人間の姿に戻っていくのを、ジュリアンは呆然と感じていた。膨れあがっていた腕が、手が、元の形を取り戻し、視点も元の高さに戻っていく。触れていてもどこか遠かったフィラの唇が、瞳が、目の前に近付く。
 やがて全ての魔力が鎮まり、ジュリアンが完全に人間の姿に戻った頃、フィラは力尽きたように崩れ落ちた。慌ててその背中に手を回し、抱き止める。
 竜素で出来ている団服は、先ほどの変身の後でも元通りに戻っていた。蹲りながらフィラの身体をきつく抱きしめる。
 魔力が鎮まっても、それでもまだ何か凶暴な感情が渦巻いているようだった。追い詰められた獣のように逃げ道を探している。やっと戻ってきた理性がそんなことをしても無駄だと訴えているのに、回り続ける思考を止めることが出来ない。今ここにいる人間を、残りの魔力で無力化し、フィラを連れて逃げることが出来るか――そんなことを計算し続けている。
「光王猊下。ご覧の通りです」
 開け放たれた扉の向こうから聞こえたのは、父の――ランベール・レイの声だった。
「全て、聖騎士団団長の予測していたとおりとなった。無謀な実験を止めてくださっていたら、このような事態にはならなかったことは自明です」
 力強い声が、威圧するようにその場に響く。いつの間にか光王もランベールもこの場に来ていたらしい。
「これで証明できたはずです。光の巫女をお迎えするのは、聖騎士団こそ相応しい。先代の光の巫女を擁してきた実績も、リラの魔力の暴走を止められたのが聖騎士団団長ただひとりだったという事実も、それを示しております」
 その声を聞きながら、フィラの呼吸を確かめる。少しだけ苦しそうに、けれど確かにフィラは息をしていた。生きている。まだ、二人とも。その肩を抱く手に自然と力が籠もった。
「何より光の巫女フィラは聖騎士団団長ジュリアン・レイの妻です。猊下! ご決断を」
「……ランベール・レイ。そなたの訴えを認めよう」
 光王の声が重々しく告げるのを、ジュリアンはまだ呆然としながら聞いていた。
「猊下!」
 咎めるようなジェラルドの声が響く。
「今回の件、フォルシウス家は光の巫女の安全よりも自らの栄誉を取ろうとしたと思われても仕方のない失態であった。罰は必要だ」
 しかし光王は淡々とその訴えを退ける。
「聖騎士団団長ジュリアン・レイ」
 呼ばれた名前に、ジュリアンはゆっくりと顔を上げた。
「よく、巫女を救ってくれた」
 滅茶苦茶に破壊された扉を抜け、正面に立った光王に、ジュリアンは再び頭《こうべ》を垂れる。
「私も……彼女に救われました」
 答えた声が、まるで自分のものではないように遠く聞こえた。
「そなたの妻だ。連れて帰るが良い。詳しい手続きは追って指示する」
 光王の声にどこか労るような響きが混じる。
「ありがとうございます」
 夢の中にいるような心地で、どうにか声を絞り出し、フィラを抱いたまま立ち上がった。その場にいた全員の視線が集まっているのを感じながら、それらを全て無視して出口へ向かう。全身が鉛のように重い。それでも腕の中の少女を手放したくない。足を引きずるようにして、ジュリアンはゆっくりと自分の部屋を目指した。